歴史

2008年7月18日 (金)

思想史研究における生産者主権と消費者主権

 思想史の研究には、大別して二つのアプローチ、ないし目的があるだろう。

 一つは、「思想」史である。つまり、歴史的に実在したある特定の人間の思惟の過程、その帰結、達成、影響を、できる限り内在的、詳細に理解した上で、研究者の立場から現代的意義を考えること。

 二つめは、思想「史」である。ある特定の時、場所に芽生えた、ある個人の思惟が、いかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで誕生し、そしていかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで人々に受け入れられ、流通し、変容していったのか、を可能な限り理解したうえで、その一連のプロセスが、研究者の生きる現代にとっていかなる歴史的意味を有しているのか、を考えること。

 以上の二つである。そして、いささか唯物的(「唯物論」的ではない!)謂いにはなるが、前者を、「思想の生産者主権」アプローチ、後者を「思想の消費者主権」アプローチ、と名づけてみよう。

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2008年5月17日 (土)

あなたはダメな奴である

 確かに、あなたはダメな奴である。しかし、その苦悩ゆえにあなたは自由なのだ。

「たしかにギリシアの古典的哲学からストアに至るまで、あるいは東洋の諸宗教の中でも、人間が死を重大に考えるということを鎮静せしめる多くの試みがなされてきた。そしてその度合いに応じて、歴史的世界の否定も相当の現実性をあらわしてきたといってよいと思う。しかしこの道は肉体をもって生存する自由な存在としての人間に真に対応できなかったといえるのではないか。もちろんインド的救済の道が、あるいはギリシア的救済の道が、全然成り立たないということはできないであろう。しかし痛苦をもつ肉体と関わりをもつ人間的自由は、おのずと歴史的救済を志向するのではないだろうか。肉体がなければ苦悩は苦悩とならない。しかし自由がなければこの苦悩の意味やその解決は求めないであろう。」
 大木英夫『終末論』紀伊国屋新書(1972年)、p.50

「旧約聖書をその源泉とする終末論は、人間を常に未来を志向するがゆえに人格的に学び成長する存在として捉える。それは一定の論理というより、希望を失わず未来を志向するがゆえに自己の対し批判的であろうとし、罪や過ちを反省する態度を意味している。ゆえに終末論は罪の論理と不可分のものである。」
 関曠野『歴史の学び方について』窓社(1997年)、p.24

〔注〕フォントカラーは引用者による。

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2008年5月 3日 (土)

「文明」再考

「 以上のようにチベットでは仏教は深く根を下ろし、社会的な拡がりを持ち民衆の間に浸透して行くとともに、高い哲学的発展をとげ、ここに世界で特異なチ ベット仏教、俗にいうラマ教が形成されたのである。この意味で、・・、チベットは仏教が現在にいたるまで常にその文化の主流を形成して来た唯一の国であ る。このチベット仏教はチベット内部のみならず、十三世紀から、特に十六世紀以来蒙古に伝播し、ヒマラヤ山中の小国であるブータン、シッキム、そしてネ パールの北部をも含む内陸アジアの中部にチベット仏教圏を形成している。また、今はほとんどなくなってしまったインド仏教の原典の忠実な翻訳の数々をもつ チベット仏教は、仏教学においても重要な位置をしめている。
 このような歴史的・宗教的背景をもつチベット人に接してみると、日本人などには見られないほどの強い宗教的バックボーンがあることを感ずる。それはラマ 僧ばかりでなく、乞食をしながらインド巡礼にくるチベット人にも感じられるものである。これはヨーロッパのキリスト教諸国、モスレム教のアラブ諸国、ヒン ドゥ教のインドの人々に共通する宗教に鍛えられた精神の強さである。
 日本人が高度の文化をもち、その知識においては比類ないほどのすぐれたものを持ちながら、強い精神的バックボーンを持たず、常に落着きがないのは、いず れの宗教、哲学も強い根をおろさず、また日本独特の、道徳までも規制する宗教的・哲学的発展がなされなかったためではなかろうかと、チベット人に接したと きに感じたのである。」(1)

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2008年4月16日 (水)

リマの江戸人

網野:
 ・・・。
 先ほどアメリカの話が出ましたが、十七世紀の初頭にペルーのリマに日本人が二十人いたことは確実なのですよ。これはペルー史をやっている私の長男(注・網野徹哉氏)に聞いたのですが、メキシコにも相当いたらしいですね。彼らは、宮城県の金華山沖から北回りで行ったようですね。私は南からではないかと思っていたのですが。

川勝:
 黒潮→北太平洋→カリフォルニアの海流のルートでしょう。スペインのガレオン船がアカプルコからマニラに来て、どうやってアカプルコに戻るかというと、同じ海流のルートです。

網野:
 明治時代、伊予の漁民がこのルートで、毎年のようにカナダのバンクーバーに行ってるのです。難破したことなどないと言っていました。

川勝平太/濱下武士 編著『海と資本主義』東洋経済新報社(2003年)、pp.198-199

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2008年3月 3日 (月)

「石高制」ってなに?(2)

「石高制」ってなに?(2)

 いま、自分でもあまり明確になっていない事を書こうとしている。したがって、論にぶれや乱れがあると思うので、そのように感じた方がいらしたら、ご指摘いただければと思う。

1)用語の整理
 まず、用語の整理からしておこう。以下、語義はすべて、『岩波日本史辞典』(1999年、第1刷)からのものである。

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2008年2月 1日 (金)

経済学部史学 vs. 文学部史学

 前稿の問題は、所属学部の違いにも起因する可能性はある。

 そもそも速水融自身が、慶応大学経済学部で野村兼太郎の薫陶を受けており、経済学、歴史学、史料学の修練を経た研究者であった。従って当然の流れとして Hayami school は経済学部をその根城とすることになる。

 それに対して従来の、文献学的という意味での実証主義的日本史学は、元来が文学部を基盤として学界を作ってきている。

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2008年1月31日 (木)

歴史人口学と日本史学の微妙な関係(ver1.2)

 いま、この列島における、近世国制史と近世人口史の融合を目論んでいる。

 そこで1点気になることがある。それは、吉川弘文館から出版されるような、従来型の文献に基づくいわゆる実証史学系統の日本史学と、宗門改帳などから数量的データを構成・抽出し、それを統計学の手法や人口学の分野で鍛えられてきた概念を駆使して、斬新な近世像を次々と提出し、一定の地歩を知的世界に築きつつある歴史人口学の関係である。

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2007年11月16日 (金)

Hume - Hayek conservatism の理論的欠陥 (1)

 先に、spontaneous generation ではなく、 historical generation としての liberal democracy(論理的時間と歴史的時間)、という長たらしいタイトルの記事を載せた。

 そこで気がついたことがあるので、メモしておこう。

 Hume → Hayek と流れる保守主義理論は、人間の諸制度が少しずつ成長ないし進化すると考える。つまり、時間という篩(ふるい)にかけられて、緩慢ではあっても幾人、幾世代もの人々の経験から結果的に選び取られ、歴史の検証にさらさられ、定着してきたものだけが、いまこうして残っている人間の諸制度なのだ、というわけである。

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2007年6月30日 (土)

蘇るレーニン(2)

****************
私は1915年に、両親とともにリガからペトログラードに移りました。そして一家は、1919年にペトログラードを出発したのです。ペトログラードでは、八歳で二つのロシア革命を目撃しました。第一革命のことは、非常にはっきりと覚えています。街頭には集会があり、旗があり、群集がいました。熱狂と、ルヴォフ新内閣の顔触れをのせたポスター、憲法制定議会選挙のために二十以上の政党が宣伝活動をやっていました。戦争については、私の家族が暮らしていた交際範囲の中では、あまり話題になりませんでした。ユダヤ人は、あの自由主義革命を大歓迎していました。自由主義的ブルジョアジーもそうでした。しかし、それは長くは続きません。ボルシェヴィキ革命は十一月に起こりました。われわれ - 私の一家とその友人たち - は、その革命が起こったことをほとんど知りませんでした。最初の徴候は、ボルシェヴィキの権力奪取に反対するゼネ・ストでした。

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2007年6月 1日 (金)

「維新神話」とマルクス主義史学(4/結語)

 唯物史観は経済決定論である、という見方に対して、晩年のエンゲルスは、1890年にこう述べているという。

「唯物史観によれば、歴史において最終的に規定的な要因は現実生活の生産と再生産である。それ以上のことをマルクスも私も今までに主張したことはない。もし誰かがこれを歪曲して経済的要因が唯一の規定的なものであるとするならば、先の命題を中身のない、抽象的な馬鹿げた空文句に変えることになる。しかし上部構造のさまざまな諸要因・・・が、歴史的な諸闘争の経過に作用を及ぼし、多くの場合に著しくその形態を規定するのである。」(城塚登「唯物史観」、岩波哲学・思想事典1998

 このエンゲルスの言を検討してみよう。

 下部構造すなわち《現実生活の生産と再生産》=《生産様式》が、上部構造すなわち《社会的・政治的・精神的な生活過程のあり方全体》=《生産関係》を、最終的に規定している。しかしながら、一方で上部構造のさまざまな要因も下部構造に働きかけて影響を与える。つまり、自律性を有する下部構造からの出力が、上部構造への入力となり、上部構造の変化が生じるのだが、それだけでなく、上部構造から下部構造へ向けても、何らかの出入力がある、ということのようだ。フィードバック・ループのようなものか。エンゲルスのイメージとしては、下部から上部へは太いループが、上部から下部へは細いループがある、というようなものだろう。

 しかし、そのループが太かろうが細かろうが、いったん上部から下部へのループがあると認めるならば、歴史というシステム全体への影響は決定的となる。なぜなら、歴史の駆動力として巨大なパワーを蔵する下部構造は、それ自体はちょっとした振る舞いの変化だとしても、その駆動力による強い拡大作用によって、最終的に歴史というシステム全体に著しい影響を及ぼさざるを得ないからだ。

 逆に、上部から下部への出入力があったとしても、「最終的に」は下部の自律性によって歴史が規定される、というある種の構造安定性が見られるなら、つまり、歴史システム全体が上部からの下部へ向けての出入力によって、既定のコースから逸脱しそうになっても、元に戻るような構造安定性を歴史システムが内臓しているならば、そもそも上部から下部へのループなど考える必要がない。

 一つ、喩えを出そう。

 ある時点Aからある時点Cまで、シームレスの時間プロセスがあり、それは因果律によって規定されているとする。その場合、プロセス全体は必然的とみなせる。ところが、そのAとCの間のどこかにBという裂け目ができ、その裂け目は偶然性が支配するとする。すると、A→Baは必然、Bc→Cも必然、しかしBa→Bcは偶然となる。この場合、A→Cのプロセス全体は、いったい必然と評価されるのかそれとも偶然と見なされなければならないか。

 答えは、明らかに、プロセス全体として偶然としか言いようがない。A→Baは予想可能、Bc→Cは予想可能だが、AからCは予想できないのだから。

 この上部構造から下部構造へのループの決定性を重視したのが、ウェーバー(M.Weber)の歴史社会学であり、その一つの巨大な事例研究が、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」である。くしくも同書末尾に、ウェーバーにより以下の言が置かれている。

「・・・、だからと言って、一面的な「唯物論的」歴史観にかえて、これまた同じく一面的な、文化と歴史の唯心論的な因果的説明を定立するつもりなど、私にはもちろんないからだ。両者ともひとしく可能なのだが、もし研究の準備作業としてではなく、結論として主張されるならば、両者とも歴史的真実のために役立つものとはならないだろう。」
 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫(1989)、p.369

 さしあたり、階級闘争史観とは異なり、「徳川末期の倫理(ETHIK)と開国の精神(GEIST)」的な幕末・維新期の素描が求められているのだろうと思う。それとも、「徳川末期の倫理(ETHIK)と靖国の精神(GEIST)」だろうか。

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2007年5月31日 (木)

「維新神話」とマルクス主義史学(3.1、若干増訂)

 人間の「物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的な生活過程のあり方全体を制約している」(城塚登「唯物史観」、岩波哲学・思想事典(1998))。

 これが「唯物史観」ならば、究極的に歴史の動因は人間の自由な意思決定とそれに基づく行動選択とはならず、それ以外の何者かに突き動かされて人間たちは蠢き結果的に歴史を作っていくことになる。

 このような意志の自由が効かない歴史決定論は、未来、および過去の見方に対してどのような帰結をもたらすか。

1)未来
 既に未来への道筋が決まっているのであるから、(もしあるとすれば)その法則を知ることができれば、未来予測が可能となり、より効果的に今を生きることができるであろう。

2)過去
 過去は必然的に選ばれた事象であり、動かしがたいものとなる。つまり、過去の道程は唯一のものであらざるを得ない。なぜなら、それ以外の可能性がもしあったなら、その局面では複数の選択肢があったことになり、その時点での未来(今からすれば過去ではあるが)を人間の意志で選択できたことになる。つまり、歴史はその時点で決まっていなかったことになるからだ。

 マルクス主義史学者が、どれほど絶対主義革命(ないしブルジョア革命)としての明治維新が個人的には嫌いであっても、それを歴史研究の対象とする場合には、それが必然的におきた理由をひたすら「実証的」に調べ上げることとなり、「封建的」であった前政権の徳川氏がどうダメだったかを論証するほかなくなる。

 これがマルクス主義史学が「明治維新」を究極的には肯定せざるを得ない「必然性」である。

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2007年5月29日 (火)

「維新神話」とマルクス主義史学(2)

 

前回の引用文献中に、

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 また、このような西南雄藩への関心が戦後も継続したいま一つの理由としては、マルクス主義史学本来のあり方もかかわりをもったといえるかもしれない。すなわち、基本的には発展史観(歴史過程を人間社会の絶えることのない発展の過程ととらえ、常に権力を掌握し時代をリードする側にスポットをあてる)の立場にたつマルクス主義史学本来の発想では、明治維新における敗者である幕府側や朝敵諸藩、あるいは中立的な立場を保った諸藩への関心は生まれにくく、勝者である西南雄藩、およびそれを母体とする維新官僚に関心が集中するのはどうしても避けがたかったからである。
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という言があった。

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2007年5月23日 (水)

「維新神話」とマルクス主義史学(1)

以下引用。 家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』文春新書 2002年 pp.21-22より。
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マルクス主義史観との関係
 第二次大戦後、王政復古史観に代わって、学界の主流に躍り出たマルクス主義史観においても、分析に対象が反幕勢力におかれた点では変わりがなかった。依然として、西南雄藩(なかでも長州藩)中心に幕末維新期が分析され、幕府や西南雄藩以外の諸藩は軽視ないしは無視された。ただ、王政復古史観とは、近代天皇制を拒否する点が大きく違っていた。
 たまたま、長州藩に関する膨大な史料が残されていたこともあって、同藩の改革を推進した政治勢力の階級基盤や政治・経済綱領といったものが分析され、同藩等での改革が維新政府の政策といかに結びついたかが問題とされ続けてきたのである。
 いささかしつこくなるが、戦後の学界をリードした研究者の見解を要約すると、おおよそ次のような共通認識を有していたといってよいのではなかろうか。
 幕府と西南雄藩の運命を大きく分けたのは、幕末期に実施した改革の成否であった。長州藩等は、内部に対立をはらみながらも、天保期以降の改革に成功をおさめ、「絶対主義(君主専制)への傾斜」を深めた。他方、幕府は改革に失敗し、絶対主義への転化の動きにおいて立ち遅れた。そして、天保期以降の藩政改革の実施によって、幕府に対する自立性を強めた長州藩等の西南雄藩は、やがて武力倒幕に立ちあがり、ついで、武力倒幕派もしくは彼らから脱皮成長した政治勢力(維新官僚)が、天皇を中心とする国家(近代天皇制)を樹立した。
 こうした図式にのっとる以上、戦後も長らくの間、研究者の関心が、依然として倒幕を達成した側の政治的主体に対して集中して向けられ、薩長等の武力倒幕派や維新官僚の分析が急がれることになったのは、自然なことであったといえる。
 また、このような西南雄藩への関心が戦後も継続したいま一つの理由としては、マルクス主義史学本来のあり方もかかわりをもったといえるかもしれない。すなわち、基本的には発展史観(歴史過程を人間社会の絶えることのない発展の過程ととらえ、常に権力を掌握し時代をリードする側にスポットをあてる)の立場にたつマルクス主義史学本来の発想では、明治維新における敗者である幕府側や朝敵諸藩、あるいは中立的な立場を保った諸藩への関心は生まれにくく、勝者である西南雄藩、およびそれを母体とする維新官僚に関心が集中するのはどうしても避けがたかったからである。
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 上記に関する renqing のコメントは、次回に。

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2007年5月 7日 (月)

「書く」ということ

 書くということは、とても困難な作業だ。この連休で、ほぼ同時代を扱った史書を2冊、

小島毅 『靖国史観 - 幕末維新という深淵 -』ちくま新書(2007年)

井上勝生 『幕末・維新』シリーズ日本近現代史(1) 岩波新書(2006年)

読んでその感を強くした。ともに、好感がもてたし、充実した高度な内容でよかったのだが、読後感が異なるのだ。

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2007年4月14日 (土)

パース(Charles Sanders Peirce)のヘーゲル評(1)

「内的な必然的進化もしくは論理的模索は、どこにそれが導かれるのか予見することができず、そのコースの舵をとることもできないで、あらかじめ決定された進路の上を前進するのであるが、これこそ哲学の発展の法則である。ヘーゲルは、はじめて、世人にこれを理解させた。かれ以前には、論理学というものは思想の主観的指針や監視装置の役目を果たすことを念願としてきたのであるが、かれは、論理学をたんにそういうものにはしないで、それが思考の原動力になることを、しかもたんに個人的思考の原動力ではなく、討論、思想史、歴史一般、発展一般の原動力になることをもとめた。」
世界の名著59、「パース・ジェイムズ・デューイ」、pp.212-3、中央公論社1980年

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2007年3月 5日 (月)

煮られトマス(3)、少し追記

通りすがり氏コメント再考

 足踏堂氏のコメントをきっかけに、通りすがり氏のコメントを再読してみた。氏のコメントを再度分析し、敷衍すると以下のようになるだろう。

1)トマスは死後、聖人に列せられることは確実だった。

2)したがって、その遺骸が聖遺物となることも確実だった。

3)聖遺物を保管する教会、聖堂には、ヨーロッパ中から多数の巡礼が来ることが見込まれた。

4)多数の巡礼があつまる教会、聖堂は結果的にではあれ、金銭的に潤った。

5)トマス終焉の場所である、フォッサヌォーヴァ修道院は、たまたまシトー会に属し、そのシトー会は既に前世紀の信仰的高揚も、教会内における勢力も失っており、ただひたすら、現世的利益のみを追い求める嘆かわしいメンタリティしか持ち合わせがなかった。

6)よって、フォッサヌォーヴァの修道士たちは、トマスが自分たちの修道院でなくなった天佑(?)をこれ幸いと利用して一儲けをたくらんだ。

7)しかし、無論、トマス自身が属していたドミニコ会から遺骸引渡しの要求、ないし実力行使による奪還が予想されるため、修道院内をあっちこっちと保管場所を移した挙句、引渡し妨害工作の止めとして、とうとう「聖」トマスの亡骸をシチューにして、鶏がらのようにしてしまった。

8)本来、キリスト教徒には、イエスを頭とする「一つの体」という理想があり、それゆえ先に天国へと登った聖人は現世の者たちの願いを神に「とりなし」してくれ、したがって現世のおいて奇跡を起こす、と信じられてた。それが、聖遺物崇拝の背景である。

9)すると、自らと一体であるはずの、そして尊敬すべき先人であるはずの「聖人」候補の遺体を、バラバラにし白骨化させるために煮る、という行為は、聖遺物崇拝の延長線上には考えることができず、となれば、現世的な、経済的利益を求めてのものとなる。

10)それを、宗教的、思想的行為とみなすのはどうかしている。信じられん。

 こうして改めて、考察すると、通りすがり氏の論に関して気づくことが二つある。

第一。ホイジンガの説明に対して一言も触れていない。この「煮られトマス」事件についての私の解釈は全面的にホイジンガに依拠しているわけで、私を(実質的に)アフォ呼ばわりするのは結構だが、それではホイジンガ説に対してどう反論するのか、ということは何らなされていないこと。

第二。聖遺物崇拝について、その背景を説明してくれたのは大変勉強になった。しかし、それは何故、聖遺物がキリスト教徒により崇拝されるようになるのか、の説明ではあっても、その説明が聖遺物という、「もの」が崇拝される、いわばキリスト教フェティシズムが、「骨まで愛して」レベルまでエスカレーションしないということを、全く論理的に保証しないこと。ないし、そのことにほとんど思い至っていない、ということ。

 第一は、おそらくホイジンガの「中世の秋」を何ら読んでいないため、コメントできないのだろうと予想できる。また、第二は、歴史を読むことが、時間的、空間的他者を解釈するという、知的に、繊細かつ robust な思考力を要求される行為であるにも関わらず、ご本人がそれに耐え得る知的体力を持ち合わせていないことを証しているように思われる。

 きついコメントをされたので、柄にもなくきついコメント返しとなった。ただ、誹謗中傷レベルに堕するまでに至らず節度は維持されていると思うので、引き続き有効な反論を戴けるのであれば、私としては本当に望外の喜びである。

 若干、追記。なぜ、通りすがり氏が、庶民の聖遺物フェティシズムと修道士たちの「トマス煮」を結び付けられないのか不思議だった。だが、こう考えれば疑問が解ける。つまり、庶民は無知蒙昧なのでフェティシズムに陥るが、修道士のようなスコラ学を学んだ知的エリートはそんなんことにはならず、トマスを煮ることの、現代から見ても納得のいく合理的理由があるはずであり、それは経済的利益だろう、というものだ。もし、この憶測が正しいのなら、この人物は、学知(scientia)の世界に己の価値観であるエリート主義を無自覚に持ち込む単細胞か、差別主義者であるに過ぎまい。

下記記事、およびコメント欄、参照。
1)煮られトマス
2)煮られトマス(2)、若干書き直しversion

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2007年1月19日 (金)

学問する心構え(2)

 学問する心構えで、白川静の言とした下記の心構えは、より先達の言葉だった。

志あるを要す、恒あるを要す、識あるを要す

 その名を、曾国藩(1811-1872)といい、清朝の政治家、李鴻章の親分、洋務運動の大立者、名文家で、優れた儒家であった。白川先生、いい加減なこと言ってごめんなさい。

〔註〕ある方の助言でわかりました。ありがとうございました。

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2007年1月15日 (月)

学問する心構え

1)志あるを要す。

2)恒あるを要す。

3)識あるを要す。

 とは、去年物故した白川静の言であった。

 この大学者の傑作な逸話が下記blogにある。「読むを要す。」

白川静のイナバウアー

〔補註〕下記もご参照を乞う。
学問する心構え(2)

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2006年12月14日 (木)

天皇家の菩提寺

 京都市東山区に、泉涌寺(せんにゅうじ)がある。この寺、つい140年前、幕末の孝明天皇*まで、れっきとした禁裏様のお家の菩提寺だった。

 ん?、偉大なる神の国、日本国の、国家の柱石たる神道の親玉であるはずの禁裏様のお家に、なんで、菩提寺があるのか。いやいや、もともと禁裏様のお家が深く仏教に帰依していたことが先なんであって、なんかわけの分からない神主さんにでっち上げられたのが、その140年前の明治クーデタの歴史演出なわけだ。

 だいたい、最後に葬られた孝明天皇(1866年急死、明治クーデタのほぼ1年前)は、当時から毒殺説が巷間ささやかれていた。で、その主治医の日記から、「孝明天皇の毒殺は、すでに医学的に決着済みの事実である。」とまで言われている。そこでの下手人の推定は、岩倉具視の実妹、女官堀可紀子。ちなみに、手許にある『岩波日本史辞典』(1999年)では、病死、毒殺両論併記。また、『平凡社世界大百科事典』(1998年)では、毒殺説を支持している。これが史実として確定できるなら、《大日本帝国=明治constitution》は史上最高の、‘con game’(=お人よしにつけこむ信用[取り込み]詐欺)というべきだろう。日本人よ、「目をォ、覚ませェ」。**

 泉涌寺に関して、さらに詳しく知りたい方は以下のサイトに行かれたい。

1)泉涌寺

2)泉涌寺 御寺 京都通百科事典

3)御寺泉涌寺

*この忌まわしい「天皇」なる呼称も、明治の権力亡者どものからくり=捏造の一環である。これについては、禁裏様と呼べ!、をご参照戴きたい。

**どうしても、明治クーデタを「革命」と呼びたいなら、同意できるかもしれない事が1点だけある。それが、ピューリタン革命や、フランス革命と同じ、「王殺し」だ。謀殺なので、余計気が滅入るが。

〔参照〕
天皇の菩提寺(2)

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2006年10月31日 (火)

「美しい国」を目指す日本の、「美しくない」記憶

 文芸の世界に遊びたいと思ったとき、ふらっと伺うブログに「かわうそ亭」さんがある。だが、折に触れて、おそらく温厚な紳士(?)であろう御亭主を怒らせることがこの世にはあるのだ。

ビルマに響くニッポン軍歌
「本書ではこのような軍による民間人の徴発を「ポーター狩り」と人々は呼んで恐れていることが書かれている。男の子には地雷原を歩かせ、女の子は従軍慰安婦にする、と聞いて、もちろんわれわれは顔をしかめるわけだが、これはこの地域を支配下においた日本軍がやっていたことを真似ているだけだと言われると、心が重くなる。まったく参謀本部の低能どもはバカな作戦立案で百年国を汚しやがった。」

 「己(おのれ)」が「己」であるのは、「己」についての記憶による。だから、記憶喪失は自己喪失として本人に現れる。国家が国家と自覚されるためには、その国家の記憶、すわなち歴史といかに自覚的に向き合うかによるのだ。

 アベ氏が靖国神社を熱心に通うところから見ると、現在の日本は美しくないが、かつての日本は美しかった、と思っているのだろう。しかし、美醜善悪を含めて、「己」に関するすべての記憶を直視しないものは、結局、自己喪失に至るだけだろう。自己を失った国民が国家を愛せるわけがない。

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2006年9月26日 (火)

教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演(1)

 気になっていたが、私がたまに伺うブログでも取り上げられつつあるので、検討のための第一次資料の所在をご紹介しておこう。私自身の所感は次回以降に。

教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演
信仰、理性、大学――回顧と考察 (2006.09.12)

1)日本語訳(by カトリック中央協議会)

2)ドイツ語原文*

3)英語

参照ブログ

1)教皇のことば・4(by Fixing a Hole さん)
関連記事を丹念に拾ってあり、非常にありがたい。初回記事~3も参照。

2)信仰と理性(by かわうそ亭 さん)
率直に、ご自分の所感を述べられている。

3)クリップ、ベネディクト16世の“神学”トーク、仏語版(by ね式(世界の読み方)ブログさん)
こちらを忘れていました。失礼。

*リンクを間違えていました。10/1訂正しました。参照して戴いた方々、ごめんなさい。

参照
教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演 信仰、理性、大学――回顧と考察 (2006.09.12) (2)

 


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2006年6月 2日 (金)

近代日本の知識人について(2)

 では、現代の知識人たちはどうか。

 現代の審議会政治に大量に大学教授が駆り出される理由は、事務局(という官僚の出先機関)によって決定済みの答申内容を、教授たちの権威でそれをあたかも学的に正しいかのように、お墨付きをつけるためであるというのは、周知の事実です。

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2006年6月 1日 (木)

近代日本の知識人について(1)

 明治以降の近代日本知識人の祖形は、徳川期の儒者ではないでしょうか。こう言うためには、一つの事実を念のため確認しておく必要があります。それは、徳川期を通じて儒者の社会的地位が、高いものではなかったことです。

 徳川期イエ社会は基本的に身分社会であり、その裏面として清朝にも李朝朝鮮にもあった科挙制度がありませんでした。イエにはそれ特有の能力主義に基づく垂直的社会流動性の機能はあり、それを利用して卑賤の身から大身に変貌する例もありました。しかし、それはいわば抜け道、便法であって、身分(生まれ)による貴賎という強固な正当性の観念がいささかも揺らぐものではありませんでした。

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2006年4月20日 (木)

ユダは裏切り者ではなかった?

 久しぶりにニュース・ネタ。

 カネで官憲にイエスを売ったことで、キリスト教徒の間では二千年間ちかく評判が悪く、サタンにさえ擬される「イスカリオテのユダ Judas Iscariot」。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」(ミラノ,サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院)では、後ろ手にナイフを持っている危ない奴として描かれた。それについてのニュースが下記↓。

<ユダは忠義者?>ユダの福音書の内容を米の協会が発表
 初期キリスト教の外典「ユダの福音書」の内容を6日、米国の科学教育団体であるナショナル・ジオグラフィック協会が発表した。同書は同協会などが組織した専門家チームが1700年前の写本だと確認した。主流の教義に反するもので議論を呼びそうだが、専門家らは「初期キリスト教の多様性を示す文書だ」と話している。
(毎日新聞) - 4月7日19時51分更新

 でまあ、ついでに、ナショナル・ジオグラフィック協会のその話題のサイトをご案内。
The Lost Gospel

「ユダの福音書」によれば、ユダは、イエスの指示でローマ帝国の官憲につきだしたのだそうだ。まあ、よくわかんないけど・・・。どうなんだろ?

 コプト語(エジプトにいた初期キリスト教徒の言語)で書かれた写本テキスト、および、現代の英語によるその翻訳バージョン、それぞれのPDFファイルを入手したい方は上記ナショナル・ジオグラフィック協会のサイトまで行ってみて下さい。

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2006年4月12日 (水)

C.H.マクヮルワイン「立憲主義その成立過程」慶応通信昭和41年

立憲主義その成立過程
C.H.マクヮルワイン (著), 森岡 敬一郎訳
慶応通信  昭和41年 品切れ中
*1988/1(ISBN: 476640050X)にも、再刊しているがそれも品切れ中。

「最後に立憲主義理論に言及しておかねばならない。これは非常によく知られた理論であるし、その上、最近C.H.マックルウェインによって書かれた素晴しい好著がある」
 ノイマン「政治権力と人間の自由」河出書房新社 1971、第3章自然法の諸形態、p.128

〔目次〕

 訳者序
第一章 幾つかの近代の定義
第二章 憲法の古代的概念
第三章 ローマの立憲主義とその影響
第四章 中世に於ける立憲思想
第五章 中世から近世への移行
第六章 近代立憲主義とその問題
 付録
 解説
 略註

*原本(まだ売ってます)

Constitutionalism Ancient and Modern
Charles Howard McIlwain
Cornell Univ Pr ; ISBN: 0801490103 ; (1947/06)

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2006年4月 7日 (金)

"Bon Appettit !"と「いただきます」

 時々、拝見しに行く blogに「 Fixing A Hole」さんがある。そこに面白い記事があった。

掛け声文化

 実は、「いただきます」や「ごちそうさま」は、中国語にもない。食事の際、それを目の当りにした北京出身の中国女性は不思議な顔をしていた。

 英語にもなさそうだ。

 『これを英語で言えますか?―学校で教えてくれない身近な英単語』講談社インターナショナル(1999)

 この本の導入部は、屋外の雪かきから戻った実家の兄に対して、何か労(ねぎら)いの言葉をかけようとした在日27年の米国人が、「ごくろうさま(日本語)」といえず、グッとことばに詰まってしまうエピソードから始まっている。で、その一部に、同じ「いただきます」問題が書いてある。

 Fixing A Holeさんは、

「誰に向かって言っているのか、声をかける相手が誰なのか、その対象はどちらかというとあいまいである。」

と述べられているが、明らかに自己を含む「われわれ」だろう。すくなくとも「あなたたち」ではなさそうだ。

 ただし、ここには「観念の考古学」を考える必要がある。ひょっとすると、この「いただきます」や「ごちそうさま」が、明治の「学制」発足時に、学校文化として権力者達によってでっち上げられたものである可能性もあるからだ。

 「創造された歴史」、「創造された文化」を、伝統とか呼んで、思考停止の「呪術の園」(M.Weber)にはまり込む愚だけは避けたい。ただし、今のところ、私にはその evidence はないが。

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2006年3月18日 (土)

‘グルジア’を身にまとうベッカム

 実は、このネタ、旧聞に属してしまった。なぜなら、すでにイングランド代表のユニフォームは、イングランド国旗を模したものから、一時代前の赤を基調とものに変わったので。

 で、何を言いたいかというと、その一つ旧いユニフォームのベースになっているイングランド国旗の意匠が、聖ジョージの旗印、白地に赤十字なのである。

 聖ジョージとは、3~4世紀ごろのカッパドキア(今のトルコ)に実在した伝説的聖人で、ゲオルギウス Georgius のことである。彼は、ローマ帝国の軍人で、偶像崇拝を拒否したため、さまざまな拷問の末、殉教している。また、騎士、射手、農民、武具製造人、馬丁などの守護聖人としても広く愛され、美術作品では一般に、長めの髪をもつ若く美しい騎士として表象される。

 ま、それがベッカムにぴったりと思うわけ。で、聖ジョージに由来するのが、グルジア共和国(英語表記 Republic of Georgia)である。自国語での表記は全く違うのだけど。

 ということで、歴史に関する単なる薀蓄(うんちく)記事でした。

*この記事、ゲオルギウスのことは、平凡社世界大百科事典の井手木実の項目による。

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2006年3月 4日 (土)

鄧麗君、宋詞を歌う

 古来、中国では、「漢文,唐詩,宋詞,元曲」と言慣わしてきた。つまり、漢朝ならば文、唐朝ならば詩、宋朝ならば詞、元ならば曲が、それぞれの時代を代表する文芸だと。
 唐詩は、厳格に韻律を守り、内容も風雅や感情を格調高く謳い上げる韻文。宋詞は、日本語の「歌詞」という語彙を見ればすぐわかるように、実際に楽器の調べに乗って歌手が唄うもので、題材もいわば日常の近辺にある“俗”なるものを、韻律にこだわらず自由に綴ったものだ。宋時代の流行歌の歌詞である。

 その一千年前の流行歌の歌詞を、アジアの歌姫、鄧麗君(テレサ・テン)が再び甦らせたものが↓のアルバムである。原盤は1983年、香港で作成され、その年の中国での賞を総なめしている。

鄧麗君(テレサ・テン)「淡淡幽情」1995年
トラック
1     獨上西樓
2     但願人長久
3     幾多愁
4     芳草無情
5     清夜悠悠
6     有誰知我此時情
7     臙脂涙
8     萬葉千聲
9     人約黄昏後
10     相看涙眼
11     欲説還休
12     思君
アルバム情報
発売元:ニュートーラス  /  発売日: 1995年7月26日  /  盤種: CDアルバム  /  レコードNo: TACL-2400  /  価格(税込): 3059円

 CDジャーナル誌の作品評↓が、このアルバムの持つ価値を論じて余すところがない。

「・・・、カラオケ・ファンおなじみのテレサとはまるで異なる、彼女の「本領」が発揮された作品だ。・・・。テレサ・テンという歌手が日本では実にゆがんだ評価をされているとわかる。」

 御一聴あれ。

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2006年2月28日 (火)

藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(番外編/最終回)

 いわゆる「産業革命」(この語も、歴史学の上ではだいぶ怪しくなってきたが)で、高校世界史あたりに出てくる、ニューコメン(蒸気機関)、ワット(蒸気機関)、トレビシック(蒸気機関車)、スティーブンソン(蒸気機関車)、等は、職人、もしくは、技師であって、科学者ではない。そもそも、イギリス(他の西洋諸国も含めて)の大学は、牧師、法律家といった、社会統治に関わる専門家を養成するためにできているのであって、イギリスに工学部(らしき)ものが出現したのは19C.も終わりである。それも、明治のお雇いイギリス人ダイヤーが大陸諸国のような先進的工学教育を目指して設立した工学寮(後の東大工学部)の成功を、ダイヤーが母国に戻って喧伝してからなのだ。ひょっとすると、工学部の起源は日本かもしれない。たぶん、ドイツが先だと思うが。

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2006年2月21日 (火)

藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(番外編2)

 番外編に番号がつくというのも、いささか矛盾を感じるが、ま、それはそれ。本日も時間が全く無いので、簡単に図式化する。

  魔術・錬金術 → 数学・物理学・化学  例 I.ニュートン(物理学者&錬金術師)

  芸術・建築 → 技術・工学  例 ダ・ヴィンチ(絵描き&建築家)

 この全く起源を異にする流れが合流する画期は、19世紀後半に天才科学者マクスウェルが天才職人ファラデーの仕事を総括し《電磁気学Treatise on Electricity and Magnetism》(1873)を著したこと、および、ドイツがイギリスに追いつくために、研究所システムを創出し、そのなかで、鉄鋼業の炉心温度測定のためのスペクトル分析から前期量子論が偶然にも誕生したことだった。(続く)

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2006年2月20日 (月)

藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(番外編)

 うーむ、いい加減、この本から離れたかった。しかし、短時間に記事を書く必要から、すぐに思いつく事が、この本への文句しかなかった。我ながら情けない。(-_-;

p.16
「 このように十世紀間という長期にわたり非常に遅れていたヨーロッパで、まずルネッサンス、続いて宗教改革、ガリレイやニュートンなどによる科学革命が起こり、理性が解放されるようになって、ヨーロッパは初めて論理や近代的合理精神というものを手にした。これによって産業革命が起こり、その後の世界は欧米にやられてしまったのです。」

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2006年2月19日 (日)

藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(9/最終回)

 藤原氏は、人間は二種類いる*、と信じているらしい。引いてみよう。

p.83**
「・・・。過去はもちろん、現在においても未来においても、国民は常に、世界中で未熟である。したがって、『成熟した判断が出来る国民』という民主主義の前提は、永遠に成り立たない。民主主義にはどうしても大きな修正を加える必要があります。」

p.83
「・・・。真のエリートというものが、民主主義であれ何であれ、国家には絶対必要ということです。この人たちが、暴走の危険を原理的にはらむ民主主義を抑制するのです。」

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