明治

2008年4月22日 (火)

Republicanismは、共和主義か?

 まつもとさんから貴重なコメント戴いた。

 そこで、資料的なことを書いておこうと思う。

■「共和」の出典

「現在 republic の訳語として用いられる共和という語も、昔も今も細かい内容においてはちがうけれども、大体枠は同じであって、これは中国の古典においてもかなり古くから用いられて来たところで、周の国が乱れて後、共和という政治時代になっている。これは『史記』の「周本紀」に明記されているところである。」
新村出『語源をさぐる』旺文社文庫(1981年)、p.203

■訳語経緯

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2007年11月19日 (月)

Hume - Hayek conservatism の理論的欠陥 (3・結語)

 すでにこの話題も長くなってしまい、私も少々飽きてきた。この辺でザックリ結語としたい。

 人間の行動と社会の歴史的遷移をいくつかに図式化してみる。

 まず、諸個人の行動。

 Ⅰ.目的 → 手段(選択)→ 行動

 次に、社会の時間(歴史)的遷移。

 Ⅱ.原因 → 結果

 Weber の社会科学方法論は、{目的 → 手段(選択)}を{原因}に、{行動}を{結果}に読み替え、ⅠをⅡに組み込む。これで、科学方法論として、因果論が使えることになる。

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2007年9月28日 (金)

「啓蒙」雑考(補遺)

 一点、重要な主題のすり替えがあった。お恥ずかしい。(-_-;

 最初の質問は、enlightenment が誰によって「啓蒙」と訳されたのか、だった。しかるに、(2)での結論は、Aufklaerung → 啓蒙 の初訳は、どうも大西祝らしい、とまでしか迫れていなかった。申し訳ない。

 結局、今の段階では、enlightenment → 啓蒙 の初訳者が大西であるかどうかは不明としかいえない。私には。

 うーん。憶測すれば、たぶん、Aufklaerung → 啓蒙 がアカデミズムで定着するにしたがって、enlightenment → 啓蒙 も収斂したのではないか、というところだが、ま、どうかな? もうこれ以上探求する資源(元気、時間)が私にはないので、あきらめます。すみません。

〔参照〕

「啓蒙」雑考(1)

「啓蒙」雑考(2)

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「啓蒙」雑考(2)

 諸家の著書探索などという面倒なことをしなくとも、OEDのように、初出の出典を明記してある可能性がある日本語辞書としては、以下がある。

 小学館「日本国語大辞典 第二版」2001年

 あたってみると、翻訳語としての「啓蒙」の用例はなかった。これには、かなりガックリ。ここらへんが、OEDとの底力の差かな。

 そうこうするうちに、この件につき、最近何か読んだことがあるような気がしてきた。「ハハァーン」と思い当たったのが、下記の書。

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2007年9月27日 (木)

「啓蒙」雑考(1)

 知人より、一つ尋ねられたことがあった。ただ、恥ずかしながら私も俄かに答えることができなかったので、ざっと調べてみた。そこで、少々興味深いことが分かったので、自blogで開陳しておくことにする。

1)〔質問内容〕「enlightenment」を、「啓蒙」と日本語訳したのは誰か。西周か。

 明治前半の翻訳事情を調べるのに第一次接近として有効なのは、当時の辞書の記載を探ることである。手許に、

J.C.ヘボン、和英語林集成、1886年、講談社学術文庫版(1980年)

があるので、まずはそれを引いてみる。すると、こうある。

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2007年6月30日 (土)

海ゆかば(2)

**************
 また、三田演説会で福沢が「今は競争世界なり、ゆえ理非にも何にも構うことはない」、「遠慮に及ばぬ、〔支那の土地を〕サッサと取って」しまえ、と公言したことを『演説集誌』第二号で知った吉岡弘毅は、次のように批判した(『六合雑誌』1882年8月30日)。

 これ堂々たる我日本帝国をして強盗国に変ぜしめんと謀る者なり。是(かく)の如き不義不正なる外交政略は、決して我帝国の実利を増加する者にあらず。ただに実利を増加せざるのみならず、いたずらに怨を四隣に結び、憎を万国に受け、不可救(すくうべからざる)の災禍を招来に遺さんこと必せり。

 吉岡弘毅は東京基督教青年会(YMCO)創設にもかかわったクリスチャンで、幕末・維新期は過激な尊皇攘夷派だった。70年から72年にかけて外務省高官として釜山の草梁館で朝鮮政府と開国交渉に当たった。帰国後、官吏をやめてキリスト者となり、「征韓」論がさかんだった74年の建白書(『明治建白書集成』三)では、朝鮮が日本との国交を拒絶したのは、豊臣秀吉が朝鮮を蹂躙し「流血満地、横暴至らざることなし」という歴史の記憶がいまなお朝鮮人に鮮烈だからであり、日本を侮蔑しているのではなく「疑懼(ぎく)」しているからだ、と力説した。そうした体験と歴史認識ゆえに、吉岡は福沢の「掠奪主義」が将来の日本とアジアに「不可救の災禍」をもたらすことを予測できたのである(なお、「海ゆかば」の作曲で著名な信時潔は吉岡の三男)。
**************
pp.121-122

牧原憲夫『民権と憲法』シリーズ日本近現代史(2)、岩波新書(2006年)

 なお、下記も参照されたし。

1)信時潔年譜

2)海ゆかば(1)

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2007年6月28日 (木)

河東碧梧桐、飛騨高山に現る

 明治41年(1909)、河東碧梧桐は飛騨高山を訪れる。そのとき、小学校卒業後句作に励む魚市場の若い店員と出会う。少年は15歳だった。以後少年は、河東碧梧桐を師と仰ぐことになる。

 明治44、大正元年(1912)。18歳の青年となった彼は、大阪に出て、特許事務所の事務員となる。

 大正3年(1914)。彼は上京を果たし、神田の特許事務所で勤める傍ら、念願だった俳句漬けの日々を碧梧桐派の俳人たちと送る。

 大正4年(1915)。青年はこの年創刊された句誌『海紅』の編集助手となる。

 大正6年(1917)。青年は、中村不折、碧梧桐らの六朝書道研究会龍眠会の機関誌『龍眠』の編集にあたる。

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2007年6月27日 (水)

河東碧梧桐、富山の高岡に現る

 明治俳壇の一齣を知るエピソードが下記のサイトにあった。なかなか面白い。

学芸ノート【第2回】 河東碧梧桐書簡

 俳句といえば、私の知るblogでは、かわうそ亭 さん、にまず指を折る。そこで碧梧桐の話題を探すと・・。ありましたね、さすが、かわうそ亭さん。

虚子の結婚、碧梧桐の結婚(承前)

 なにかホッとする明治半ばの挿話ではあります。

 さて、河東碧梧桐1873-1937(明治6-昭和12)は、本名、秉五郎 へいごろう。これをもじって、「へいごろう」→「へきごどう」としたもの、と記憶していた。

 しかし、文人であるからして、いわれは必ずある。国語辞典でみると、実は、「碧梧」も「梧桐」も、アオギリのこと。なるほど、ダブらせたのか。

 念のため、角川新字源に「梧」をあたってみた。すると、「梧桐一葉」を用法として、「①あおぎりの一葉が落ちたことで立秋を知る。②もののおとろえのきざし。」として、ひとつ出典を挙げている。

 〔群芳譜〕梧桐一葉落、天下尽知秋

 ほぉー、これなら知っとるわい、と探索にかかる。ところが、この「群芳譜」なんぞという文献がよくわからん。漢文の世界では常識なのかも知れないが、さっぱり心当たりがないし、ヒットもしない。『淮南子(えなんじ)』の「群芳譜」の巻にある、みたいな記述のサイトがあるのだが、それならと、『淮南子』の内容を見ると、そんな巻はどこにもない。『淮南子』の文として引いてあるものもあるが、そこでの文は上記とピッタリ合わない。それに、だいたい『淮南子』に出典があるなら、角川新字源に書いてないほうがおかしい。

 ネット上を探索すること、かれこれ2時間半。己に「アホかい!」と面罵したいほど疲れた。(=_= まあ、そのかいあって、一応確からしそうなことがわかったのは収穫。

 やはり、ここまで来ると、日本語のサイトには限界があり、中国語のサイトでようやくある程度事実を確認できた。

 明の王象晋の作で、『群芳譜』(1621年)。「梧桐一叶落,天下尽知秋」。“叶”は“葉”に同じ。明代の植物図鑑の体のもの。でこれは、五言絶句になっていて、実は後半がある。

梧桐一叶落
天下尽知秋
梧桐一叶生
天下新春再

 この後半もいいですねぇ。

 ついでに分かったことは、日本で「桐一葉」などと使われるのは誤用だということ。もともと、アオギリとしての梧桐は、青色がかった桐のように見えるが、植物としても元来別物。中国語の段階では周知のことで間違われようもないのだが、日本語の文脈に移ったとき、「梧桐」→「桐」となってしまったらしい。青い桐なら、桐でもいいだろう、ぐらいの感覚か。で、日本語では「桐一葉」で定着してしまった。明治になって更にこれをポピュラーにしたのが、坪内逍遥の新歌舞伎の名作、『桐一葉』(1893年)。

 したがって、日本語のサイトでは、ことごとく「桐一葉」という成語として紹介されている。秋の季語であることも、それに与って力があったろう。いつごろ成立した季語か、まではわからないが。

 下記は、アオギリの総合的紹介となっているので、ご参照まで。
あおぎり (青桐)

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2007年6月16日 (土)

心情倫理は、信条倫理?(2)

 ウェーバー社会学の日本語の訳は、当然なことにカント哲学の語彙の影響下にある。そして、カント哲学の語彙は、じつは、徳川後期から明治全般にかけての19世紀、隆盛を見た日本陽明学の影響下で語彙構成されたものである。

 ということは、“gesinnungsethisch”の日本語訳にも、その影響が及んでいると推論することは無理ではない。つまり、この語が「信条」ではなく、「心情」と訳出されたのも、日本的「陸王心学」の痕跡かもしれない。

 それなら、不適切な訳というよりは、日本近代史の文脈(context)からいえば、ある意味自然なものとも考えられる。つまり、この語も、陽明学=カント的な影響下にあったということになろう。

 以上の議論は、後日、

 小島毅 『近代日本の陽明学』講談社選書メチエ (2006年)
 小島毅 『朱子学と陽明学』放送大学教育振興会 (2004年)

の書評をこのblogに収める際に、触れることになると思う。

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2007年5月12日 (土)

徳富蘆花「謀叛論」、その後日談(5/27情報追加)

 明治44年2月1日(水)、東京本郷、第一高等学校、第一大教場で、徳富蘆花の「謀叛論」*大弁舌が行われた。

 その日から5日後の2月6日(月)、今度はそれを駁撃する「大逆事件講演会」が、千名をこえる聴衆を集め、国学院大講堂で行われた。弁士の、南条文雄、井上哲次郎、花田仲之助、渋沢栄一、の面々は、社会主義を攻撃し、忠君愛国を強調した。

 しかし、弁士の一人、三宅雪嶺のみ、「善後策」と題して幸徳秋水を擁護、暗黒裁判を非難した。すると興奮した代議士、荒川五郎が雪嶺に食ってかかるが、聴衆は、「御用党」、「馬鹿」、「討論会じゃない」などと罵声を荒川に浴びせかけ、雪嶺が退場するのを見送って、一斉に、「三宅博士万歳」を叫んだ。ここから、

 「・・・、国学院に集るような保守的な聴衆の間にさえ、権力への反感と秋水への同情の存在していたことがわかるのである」
 神埼清「徳富蘆花と大逆事件 -愛子夫人の日記より- 」
  現代日本文学大系9「徳富蘆花・木下尚江集」筑摩書房(1971年)、p.421

 さて、弁士の一人、南条文雄**とは何ものであるか。詳しくは、下記 wikipedia に譲る。ただ、有体にいえば、明治仏教界を代表する学僧(真宗大谷派)、それも Oxford でサンスクリット学を修め、梵語テキスト校訂等でヨーロッパでもその名を知られた碩学である。何しろ、1889年には文部省より日本第1号の文学博士を授与されている。

 何でそんな畑違いの洋行インテリ僧が出てくるかと言えば、死刑判決された中に真宗大谷派の僧侶が入っているからである。殺生戒を持つ仏教者が、でっちあげ死刑判決***を非難断罪もせず、あろうことか自宗派僧を擁護してくれた文学者に批判の言を浴びせるのだ。

 さて、宮沢賢治「烏の北斗七星」との違いは、いかに理解すべきだろうか。

〔註〕

*蘆花のテキストは下記を参照。なお、この講演を依頼しに蘆花宅まで足を運んだ一高弁論部員2名は、鈴木憲三、および、後の社会党「十字架」委員長、人格者で有名な、河上丈太郎、である。
徳冨蘆花「謀叛論」(草稿)

**南条文雄(1849年 - 1927年)については下記を参照。
南条文雄(なんじょう ぶんゆう)

***この事件の捜査指揮の最高責任者が、大審院検事兼司法省民刑事局長、平沼騏一郎(元首相、A級戦犯)である。元経済産業大臣で衆議院議員の平沼赳夫は、平沼騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長を務めた平沼淑郎の曾孫にあたる。

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2007年3月30日 (金)

牧原憲夫『民権と憲法―シリーズ日本近現代史〈2〉』岩波新書(2006年)

 興味深く読んだ。その意味で買って損はない。800円弱の支出は、倹(つま)しい昼食代なら2日から1.6日分か。

①肯定的評価。明治前期の史実に関するリソースとして価値は高い。というより、大量の、気付きにくい、ただし重要な情報満載である。学界の研究業績への目配りの広さには感心する。読者はこの本のどこかしらに、己の興味関心を惹く話題を眼にすることができる。私にしても、幾つもの再発見をさせてもらった。

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2007年3月23日 (金)

色川大吉『自由民権』岩波新書 1981年

 昨今、喧(かまびす)しいのは、〝改憲〟と〝防衛〟か。そんな折、本書が久かたぶりに重版されたのが一昨年(2005年)のこと。時宜にかなうものだろう。岩波新書編集部さん、クリーンヒット。

 なぜ、時宜にかなうのか。それは、自由民権運動の眼目が、一つは〝国会開設〟であり、同時に〝憲法制定〟であったからである。また、本書第3章に見られるように、当時の国際情勢下における安全保障、ということも鋭く争点化していたからだ。

 自由民権運動。それは、戦後が大きく屈折しつつある2006年に生きるわれわれにとって、重要な範例だ。その光も影も含めて。ましてや、その諸相が解明され、また教訓が汲み尽くされたとはとても言えまい。本書は、自由民権運動の全貌という大パノラマを、新書という制約の中にギリギリ凝縮した優れた啓蒙書であり、自由民権を初めとする民衆の近代史を生涯のテーマとした一人の研究者の志の書である。今、読まれるべき書だと思う。

 本書第4章は、簡便な〝明治憲法〟成立史となっているが、そこで現代の国権主義者たちが二言目には言う「押しつけ憲法」の〝押しつけられ方〟について興味深い解読を施している。この言い方で問題としなければならないのは、〝誰が〟〝誰に〟押しつけたか、ということである。〝明治憲法〟を振り返れば、薩長藩閥政府(=軍事クーデタ政権)が、民間の多様な制憲運動を力で叩き潰し、この列島の人々に問答無用で押しつけている。それなら、日本国憲法は、大日本帝国政府(=明治クーデタ政権の後裔)がポツダム宣言を受諾後、連合国占領軍がこの政府に押しつけたのであって、この列島の人民に〝押しつけた〟とはいえない。なにしろ、GHQ案を〝押しつけられた〟政府は、明治憲法下での政府(幣原内閣)であり、人民が正当な手続きで選んだ政府ではなかったのだから。日本人は、この詭弁に騙されてはならない、という論法である。

 第3章では、明治の民権家たちの安全保障構想、例えば常備軍ではなく民兵論、国際法に基づく安全保障、現在の国連に似た組織による主権制限を伴う集団安全保障論、といった現今の議論と見紛うアイデアが既に百出しているのがわかる。ちなみに、当時、並行して薩長藩閥クーデタ政権側でも、陸軍内で、外征用常備軍論の山県有朋派と専守防衛・民兵論の反山県派の暗闘があり、山県の画策により反山県派は陸軍を放逐されている。

 己や他者の失敗に学ばぬ者を愚者と呼ぶなら、自由民権の歴史的教訓に学ばぬ愚を再び犯してはなるまい。

〔目次〕
はしがき
序章 北の曠野から
第1章文化革命としての民権運動
1 士族民権家の役割
2 全国の裾野から ― 民権の潮
3 民権結社とはなにか
4 未完の文化革命
第2章国民的政党の成立
1 青春を捧げた遊説活動 ― 都市民権家の潮流
2 統一はならず - 自由党、改進党
第3章二つの防衛構想
1 常備軍ハ廃スベキ乎
2 集団安全保障の道
第4章自主憲法と押しつけ憲法
1 起草者たちの肖像
2 禁圧された自主憲法審議
3 欽定憲法から日本国憲法へ
第5章抵抗権の行使
1 いわゆる激化事件
2 加波山の挙兵と自由党の解党
3 秩父困民党の武装蜂起
第6章亡命民権家の戦い
1 カリフォルニア〝革命通信〟
2 国会開設前後
終章「民権百年」その光輝と敗北の教訓
参考文献一覧

色川大吉『自由民権』岩波新書 1981年

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2007年3月20日 (火)

海ゆかば(1)

    海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
    山行かば 草生(くさむ)す屍
    大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
    かへりみはせじ
    (長閑(のど)には死なじ)

  詞は万葉集巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(国歌大観番号4094番。新編国歌大観番号4119番。大伴家持作)から。

 1937年に作曲された信時潔の作品である。ただし、注目すべきは、彼の実父、大阪北教会の牧師であった吉岡弘毅のこと。この続きは、次回へ。

 一度、聞いて見たい方は、↓へ。 

軍艦、海ゆかば、昭和維新の歌

下記も参照されたし。

海ゆかば(2)

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2006年11月29日 (水)

明治の立身出世主義の起源について

 この問題について、一つの見通しをつけるのに良い本がある。

竹内洋『立身出世主義(増補版)―近代日本のロマンと欲望―』世界思想社(2005年)

 

 ただ、この本は、「受験競争を巡る近代日本社会史」的なもので、「日本における立身出世の観念史」という出来上がりにはなっていない。

 「立身出世」なる言葉の概念史的分析は手薄で、どこの解説にもあるように、江戸期からのものだが、「立身」、「出世」と、ばらばらで使われることのほうが多く、前者は武士御用達で儒学から、後者は町人用で仏教から、という程度。

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2006年11月23日 (木)

「御一新」 その隠されたモダニティ(2)

「・・・、保守派には明治以来それなりに一貫した教育観があること、しかもそれは土着的・伝統的どころか近代ヨーロッパの国家主義の論理に見事に一致している」p.25
関曠野「保守派の教育観を読みとく」『クレスコ』(大月書店)2006年9月号

「・・・、教育勅語とは何であったかを説明するのは、皇国史観ではなくてこのホッブズの教育論である。」p.25、同上

「そして勅語の意義は特定の思想を吹き込むことにはなく、儀式の魔術的効果によって臣民を思考停止の状態に置き、権利、義務、正義といった権力の正統性の評価にかかわる観念を理解できない人間にしてしまうことにあった。」p.26、同上

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2006年10月28日 (土)

愛国心とはなにか

「学校は、約束事で成立している社会というもののミニチュア版の見本であり、そして子どもが日常の立ち居振る舞いをとおして、権利、義務、責任といった観念を身につける実験の場である。実験的ということは錯誤と失敗が許されていること、そして市民的教養の基礎をなす観念が単なる抽象的な言辞として説かれるのではなく、範例として具体的に示されることを意味する。そうした教育は、子どもの中に表面的な文言の理解を超えた正と不正の感情を育むだろう。権力の正統性を承認するか否かを市民に決定させるのは、この感情である。そしてこの感情が発達するとともに、子どもは、自分の行為が結果として他者に及ぼす影響や世の中のさまざまな不正に敏感になるだろう。デモクラシーの教育は、こうして市民的な感性を育成するのであり、愛国心とはこの感性に根ざす同胞意識以外のなにものでもない。憲法は理性の産物であっても、それに生命を吹き込むのは市民的感性である。ゆえに、立憲国家においては憲法と教育は車の両輪のように不可分である。」
関曠野「保守派の教育観を読みとく」『クレスコ』(大月書店)2006年9月号、p.24

愛国心〔名〕自分の国を大切に思う気持ち。祖国愛。
*新体詩抄(1882) 抜刀隊・前文〈外山正一〉「普仏戦争の時普人の『ウォッチメン、オン、ゼ、ライン』と云へる歌を謡ひて愛国心を励ませし如き」
*経国美談(1883-84)〈矢野龍渓〉後・一三「智氏が愛国心の厚くして痛く辛苦せしを憐れみ」
*近時政論考(1891)〈陸羯南〉四期・六「既にして仏人の国民精神即ち愛国心は其の適度を超えて殆んど非国民精神を呼び起こしたり」
『日本国語大辞典第二版』小学館(2001年)、〈愛国心〉の項。

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2006年5月15日 (月)

明治constitutionは近代主権国家であったか?(1)

 明治の国制(constitution)は、果たして近代主権国家の名に値するものだったのか。このことを、軍と明治憲法によるその依法的統制=シビリアンコントロールから考えてみたい。

 事は明治初期の太政官政権時代から始まる。簡単に言えば、政軍のうち主導権は政にあった。

慶応4年1月   三職七科制 総裁→海陸軍総督、海陸軍務掛
           総裁は天皇を補佐する唯一の機関。軍事を管掌。
同2月       総裁→軍防事務局
同閏4月      政体書 天皇→輔相(行政官、補佐機関)→知官事(軍務官)が軍事を掌握
明治2年7月   二官六省制 天皇→左右大臣→兵部卿
明治4年7月   太政官三院制 天皇→太政大臣(軍事権限を掌握)→兵部卿に軍隊指揮の関与権を付与。 
明治5年2月   兵部省⇒陸軍省+海軍省、に分割。
明治6年5月   太政官正院の権限として軍政命令権を掲げる(事務章程)。
明治11年12年 参謀本部設置。太政大臣+陸軍卿からの独立。
明治19年三月  陸海軍共通の参謀本部設置。

 ここで、憲法発布前から登場した、内閣制との関連を見てみる。


「内閣職権」1885(明治18)年12月22日

第1条 内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班ニシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス

第2条 内閣総理大臣ハ行政各部ノ成績ヲ考ヘ其説明ヲ求メ及之ヲ検明スルコトヲ得

第3条 内閣総理大臣ハ須要ト認ムルトキハ行政各部ノ処分又ハ命令ヲ停止セシメ親裁ヲ待ツコトヲ得

第4条 内閣総理大臣ハ各科法律起草委員ヲ監督ス

第5条 凡ソ法律命令ニハ内閣総理大臣之ニ副署シ其各省主任ノ事務ニ属スルモノハ内閣総理大臣及主任大臣之ニ副署スヘシ

第6条 各省大臣ハ其主任ノ事務ニ付時ゝ状況ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖モ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ

第7条 各大臣事故アルトキハ臨時命ヲ承テ他ノ大臣其事務ヲ管理スルコトアルヘシ


「内閣官制」(明治22年勅令第135号)

第1条 内閣ハ国務各大臣ヲ以テ組織ス

第2条 内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス

第3条 内閣総理大臣ハ須要ト認ムルトキハ行政各部ノ処分又ハ命令ヲ中止セシメ勅裁ヲ待ツコトヲ得

第4条 凡ソ法律及一般ノ行政ニ係ル勅令ハ内閣総理大臣及主任大臣之ニ副署スヘシ勅令ノ各省専任ノ行政事務ニ属スル者ハ主任ノ各省大臣之ニ副署スヘシ

第5条 
① 左ノ各件ハ閣議ヲ経ヘシ
 1 法律案及予算決算案
 2 外国条約及重要ナル国際条件
 3 官制又ハ規則及法律施行ニ係ル勅令
 4 諸省ノ間主管権限ノ争議
 5 天皇ヨリ下付セラレ又ハ帝国議会ヨリ送致スル人民ノ請願
 6 予算外ノ支出
 7 勅任官及地方長官ノ任命及進退
② 其ノ他各省主任ノ事務ニ就キ高等行政ニ関係シ事体稍重キモノハ総テ閣議ヲ経ヘシ

第6条 主任大臣ハ其ノ所見ニ由リ何等ノ件ヲ問ハス内閣総理大臣ニ提出シ閣議ヲ求ムルコトヲ得

第7条 事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラル々ノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ

第8条 内閣総理大臣故障アルトキハ他ノ大臣臨時命ヲ承ケ其ノ事務ヲ代理スヘシ

第9条 各省大臣故障アルトキハ他ノ大臣臨時摂任シ又ハ命ヲ承ケ其ノ事務ヲ管理スヘシ
第10条 各省大臣ノ外特旨ニ依リ国務大臣トシテ内閣員ニ列セシメラル々コトアルヘシ

 とりあえず事実関係の記述をやってみた。まだ少し続くがそれは次回に。

参考文献
1)大江志乃夫『統帥権』日本評論社 1983年
2)三浦裕史『軍制講義案』信山社 1996年
3)稲田正次『明治憲法成立史』上巻 有斐閣 昭和35年(1960)
4)秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社新書 2006年

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2006年5月 8日 (月)

福沢諭吉の光と影(2)*

 事の成り行きで、平山洋『福澤諭吉の真実』文春新書(2004)は、一応、読まにゃマズイかなと思い、なんとか読了した。

 感想を述べよう。

1)文献学的に、これまでに特に問題とされていなかった(?)「時事新報」社説に、正面から資料批判のメスを入れたことは特筆評価できる。誰も気乗りしない作業に先鞭をつけたのは立派だと思う。

2)上記の知見を踏まえ、既存の三種類、福澤諭吉全集成立のプロセスにも資料批判を加えて、著者の新仮説を提示したことは、思想史研究の大前提である文献批判に大いに貢献しよう。

3)ただし、この書が、福澤諭吉思想の新境地を切り開き、従来にない新しい福澤像を提示し得ているか、疑問なしとしない。

4)著者の貢献は、新しい(真実の?)福澤像の再構成のための前提作業の部分である。著者は、自らの業績を踏まえて、少なくとも、著者のいう、カテゴリーⅠの無署名「時事新報」社説と、福澤筆が明らかな文献に基づき、自説を説得的に展開する必要があろう。まだ、決着はつけられていない、と考える。**

5)ただ、著者の指摘する、1892年以降の「時事新報」における石河幹明筆社説に対する、福澤の黙認は、福澤の言論人、思想家としての矜持や志節について、いささかの懸念を呼び起こす。

6)なぜなら、福澤はその『福翁自伝』で、
「新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、この事を起すも自力なれば倒すも自力なり、仮令い失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるに非ず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟を以て、世間の風潮に頓着なしに今日までも首尾能く遣て来た、云々」
p.389 慶應義塾大学出版会版著作集第12巻(2003年)
と、発言している。これを信ずるなら、己の信条、思想と根本的に異なる主筆の馘首・交代を、出来の悪い倅の社長就任と交換条件にするというのは、日本近代史上、最大の思想家福澤をしてあまりにもその像を矮小化するものではないか、と思える。いったい、そんな事があり得るのか? 福澤も単なる人の親に過ぎないのだろうか。

 以上が、私のざっとした、読後感である。福澤の真筆社説「脱亜論」については、もうエネルギーが残ってないので、後日、別記事を書くつもり。

*本日は、《明治「憲法」の起源(3)》を記事化する予定だったのですが、土曜日に書いた記事のからみで、急遽、その続きを書くことにしました。この記事を読みに来て戴いた方、どうも、すみません。m(_ _)m

**福澤の明治前期国体論への貢献に関して、下記を参照。
日本における文明開化論――福沢諭吉と中江兆民を中心に
米原 謙(大阪大学)2003.3.29 ソウル

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2006年5月 6日 (土)

福沢諭吉の光と影

 恥ずかしながら、初めて福沢の(筆と推定される)「脱亜論」を全文通して読んだ。字数にして2200字弱(ぺら11枚)である。日刊紙の社説だから当然といえば当然ではある。

 しかし、この「脱亜論」、有名になったのはなんと1960年前後のことだという*。ということは、1885(明治18)年3月16日『時事新報』にこの社説が掲載されたとき、ショッキングとか、スキャンダルとは、読者も、論敵も受け取らなかったと推測できる。つまり、立論としても有り得べきもので、かつ福沢もしくは福沢一派の『時事新報』の論としても、意外とは受け止められていない可能性が高い。

 素直にその内容を読めば以下のようなことか。

 支那、朝鮮は、西洋文明の優秀さを分かろうともしない、恃むに足らない石頭連中だから、そいつらと事を一緒になそうなどと考えていては却って自らが西洋に侮られ、その軍門に下る危険性がある。それよりは、日本は言ってみればアジアの中の西洋なのだから、西洋と同じ文明の立場から、支那朝鮮に臨むべきだ。

 これを、アジア蔑視+ミニ帝国主義、と読めないならば、相当な福沢シンパか、福沢が批判するような「固陋」(文中より)なんだろう。

 で、一昨年出版され、blogあたりでは今も息長く話題にされている下記の書がある。

福沢諭吉の真実    文春新書
平山 洋
新書: 244 p ; サイズ(cm): 18
文藝春秋 ; ISBN: 4166603949 ; (2004/08)

 正直言って、この書をまだ読んでない。ただその論旨は、アマゾン等の要約を見ると、現行の福沢全集には、福沢の真筆でない『時事新報』の論説が相当数入っていて、福沢の侵略主義的イメージは、ある種の資料操作によって捏造されたものである。その真犯人は、当時、『東京朝日新聞』の池辺三山、『国民新聞』の徳富蘇峰とともに、「三名主筆」と称せられた、『時事新報』の石河幹明、である。その操作をなくして評価すれば、福沢にはアジアへの侮蔑やら植民地主義肯定といった面はなくなる、ということのようだ。

 この書に関して、ネットで見かけた興味深い記事があった。参考までに紹介しておこう。私の立場は、読んでないので評価のしようもない。読むまで保留とさせて戴く。

古井戸さんという方のblog「試稿錯誤」の中の、関連記事10点。それにしても、カテゴリー化してくれればいいのなぁ(あまり他人のことは言えませんが)。

1)福沢諭吉の真実: 平山洋さんからのコメントとわたしの回答
2)福沢諭吉の真実 その2 平山洋さんの回答 と 質疑
3)福沢諭吉の真実、再読。
4)福沢諭吉の真実 その3 平山さんのコメントに対するコメント
5)脱亜論、について
6)福沢諭吉の真実、その4 時事新報社説とはなにか 
7)平山さんへの回答、質問
8)脱亜論    アジアは<アジア的>か by 植村邦彦
9)コメント回答、時事新報社説というもの、および 坂野潤治による脱亜論の読み方
10)諭吉と長沼事件  明治14年政変など

*平凡社世界大百科事典「脱亜論」(植手通有 筆)の項、参照。

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2006年5月 1日 (月)

明治「憲法」の起源(2)

 前回、岩波書店『日本近代思想大系』「9.憲法構想」(1989年)中、p.10に、
〝根本律法。今日の憲法のこと。加藤はのち明治元年刊の「立憲政体略」でも、一般の法律を「憲法」、今日の憲法を「大憲法」「国憲」と呼んでいるが、最高法規としての「憲法」の呼称が一般に定着するのは明治十年代半ば以降のこと
と頭註がされている旨、述べた。

 同書p.438に、「大日本帝国憲法以前の憲法構想」なる、66個のリストがあり、そこに標題として〝憲法〟を掲げているものは、32個ある。最初期のものは、

 竹下弥平「憲法意見」明治八年二月一日

とある。逆に、憲法案にもかかわらず、〝憲法〟なる標題を持たないものの最後は、

 不明「日本帝国国憲ノ草案」明治十六年七月以前

となっている。

 そこで、年代順に、〝憲法〟なるものを数えてみよう。

明治 8年  1
明治12年  2
明治13年  4
明治14年 16
明治15年  3
明治16年  3
明治19年  2
明治20年  1

 明治14年が突出している。これは、自由民権運動中のいわゆる「国会開設運動」の最高潮期が明治13年(1880)なので、その高揚を受けて、全国的にドッと出たものと一応推測可能だろう。

 ただ、一方で、〝憲法〟を言葉の面から探ると、こういうデータもある。

 J.C.ヘボン(J.C.HEPBURN)著「和英語林集成」第三版 明治19年(1886)

 上記の書から、〝憲法〟→ KENPO, KENPOU を拾うと、実はこれが見つからないのだ。ついでに言えば、〝権利〟→KENRI は、「 n. Natural rights ; prerogative 」とある。では、逆に、constitution から引くと、

〝constitution〟→「 Seishitsu, kumitate, jintai, sho, sho-ai, seitai, seiji ; horitsu, okite 」

となる。

 そうすると、明治十年代後半になっても、constitution の訳語として、もしくは、人口に膾炙するものとしては、まだ〝憲法〟は定着していないことは言えそうだ。それよりも、constitution の概念なるもの、そのものが、一般庶民に全く理解不可能な代物であった可能性も否定できない。

 もう少し資料を検討してみたいが、この続きは次回へ。

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2006年4月24日 (月)

明治「憲法」の起源(1)

 初めに言い訳を少し(-_-;。当初、明治憲法における軍のシビリアン・コントロールの問題について、ざっと考えをまとめるつもりでいた。しかし、資料集等を概観しながら、「憲法」という語にも考えるべき点がありそうだと感じたので、当面、この「憲法」という言葉を巡って少し書いてみたい。すみません。凝り性なもんで。(-_-;;;

 「憲法」。この語はいったい何か。憲法の教科書などをみると、まず“constitution”の訳だと書いてある。ならば、なぜ“constitution”の訳語に「憲法」という漢語が与えられたのか。私の簡単な調査では、このことを正面に論じたものがにわかに見当たらなかった。

 いずれにせよ、この語は漢語である。ということは、必ず中国古典にその使用例があるはず。すぐわかったのは、「国語」。これは、中国,春秋時代の歴史を国別にまとめた書である。

 ここの、晋の部に、「賞レ善罰レ姦、国之憲法也」とある。角川新字源(1983年版)「憲」の項参照。ここでの意味は、おきて、きまり、といったもの。

 次に、日本での用例。聖徳太子の「十七条憲法」。これは、「当時の朝廷に仕える諸氏族の人々に対して,守るべき態度・行為の規範を示した官人服務規定ともいうべきもの」平凡社世界大百科事典「十七条憲法」関晃執筆、である。

 ここまでは、constitutionとは直接関連なし。ただ、その来歴に関しては注意を払っておくべきだろう。liberty、freedom、の訳語である、「自由」だって、列島の歴史では「自由狼藉」と使われて、ネガティブな語感を引きずったままなのである。特に、国権論者たちにとっての「憲法」感は、官人服務規定ならぬ国民服務規定ぐらいのものかも知れないのだ。

 ここから近代の資料でアクセス可能なものから、constitutionに当たりそうな言葉を拾っていきたい。なお、頁数のみで出典が特に記載無いものは、岩波書店『日本近代思想大系』「9.憲法構想」(1989年)よりの引用。

1)加藤弘之の「隣草」(1861年)。p.10

○上下分権の政体と云ふは、君王万民の上に在りて之を統御すと雖も、確乎たる元律を設け、又公会と云へる者を置て王権を削るを云ふ。

 ここでは、広義のconstitutionなら「政体」、狭義ならば、「元律」だろう。なお、同頁に、「元律」として、〝根本律法。今日の憲法のこと。加藤はのち明治元年刊の「立憲政体略」でも、一般の法律を「憲法」、今日の憲法を「大憲法」「国憲」と呼んでいるが、最高法規としての「憲法」の呼称が一般に定着するのは明治十年代半ば以降のこと〟と頭註がされている。大事な点なので、記憶にとどめておいて欲しい。

2)坂本竜馬の「船中八策」。p.32

船中八策(1867)
 一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
 一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ
   決スベキ事。
 一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有
   名無実ノ官ヲ除クベキ事。
 一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
 一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
 一、海軍宜ク拡張スベキ事。
 一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。

 ここで、constitutionにあたるのは、「無窮ノ大典」であろう。

*同時に、西洋のconstitutionの概念史まで手を出したので、近代日本の調査が中途になってしまった。いずれにしても、1、2回ではおわらないので、ご覧に来て戴いている方々も少しお付き合い戴きたい。では、次週へ続く。

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2006年4月18日 (火)

明治憲法の論理構造

 伊藤博文の『憲法義解』が見当たらない。自分の所蔵本が見当たらないのはいつものことだが、近所の自治体図書館にもないし、岩波文庫版も品切中。最低限、この本は手元において書きたい。ということで、もうちっと、お待ちを。

 そうは言っても、言い訳だけでは埋め草にもならないので、お時間のある方は、下記のサイトなど、お読み戴ければと存じます。

明治憲法のもとで軍の文官統制の可能性

統帥権の独立

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2006年3月15日 (水)

希望

「明日の考察! これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。」

石川啄木
時代閉塞の現状 1910(明治43)年
(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察) より。

 どれほど怪しげであっても、「希望」や「未来」がないよりましだ。小泉・藤原的気分は、このような、人々のある種の切実さから出ているものなのかも知れない。だとするなら、「希望」、「明日」を語れない限り、この人々を振り向かせることは不可能なのだろう。

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2006年2月 1日 (水)

後鑑(のちかがみ)

 標題は、1853年(嘉永6)に江戸<幕府>が修史事業の一環として完成させた室町<幕府>に関する記録。編者は、奥儒者成島良譲(筑山)。〈某将軍記〉と題する足利将軍の事跡を収める本編347巻と同記の付録20巻。

 明治<軍事クーデタ>が15年後の1868年である。同じ嘉永6年にはペリー艦隊も浦賀に出現する。日本史上における開国を巡るてんやわんやはここから始まるのであるが、その年に室町<幕府>史の編纂事業が完成するとはなんと言う皮肉。というより、徳川氏の天下の動揺にようやく気づきだした要人たちが、水戸学の大日本史編纂を横目で見ながら、自らの正当性の論拠のために編纂に乗り出したというべきなのだろう。まだそのくらいの余裕はあったということだ。

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2006年1月22日 (日)

徳川家康は《幕府》を開いていない

 渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会1997年
より。

p.3
 現在のように、「幕府」という語が一般化したきっかけは、明らかに、後期水戸学にある。・・・。とりわけ、〔藤田:引用者注〕東湖の『弘道館記述義』(弘化四・1847年、再稿完成)が、江戸時代末期に、「尊皇攘夷」の語とともに「幕府」という名称が流行語となる直接の原因になったと思われる。
 では、何故、後期水戸学者はこの語を用いたのだろうか。「正名論」の示すように、徳川政権があくまで京都から任命された「将軍」の政府であることを強調するためである。そして、正統性根拠を(一般に「皇国」の自己意識が強まる中で)明確化し、体制を再強化するためである。「幕府」とはそれを意図した、正に為にする政治用語だった。

p.4
 ・・・。そして、明治以降、学校教育の助けを得て「幕府」の語は完全に定着した。無論、それは、天皇が「日本」の歴史を通じて唯一の正統な主権者であり、徳川氏も、せいぜい天皇から「大政」を「委任」されて統治者たりえていたのだという(江戸時代の始めには無かった)歴史像と結合していた。
 このような意味で、「幕府」とは、皇国史観の一象徴にほかならない。

p.5
 では、何と呼べばよいのだろうか。「徳川政権」等も考えられる。しかし、当時最も普通の呼称を使うのが、自然であろう。それは、「公儀」である。・・・。
 江戸時代に現実に中央の政府として機能を果たしていた組織は、原則として「公儀」と呼ぶのが、少なくとも「幕府」よりは、適当であろう。

*下記も参照を請う

禁裏様と呼べ!

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2006年1月17日 (火)

明治天皇の戦争責任

 標題をもう少し詳しく言い直せば、「明治天皇の戦争に対する責任」である。それはまた、明治憲法下にあった大正天皇、1947年5月2日までの昭和天皇も同様だ。

 以下、軍を、明治憲法体制の一環として位置づけた、類希な研究書から引用しよう。

三浦裕史『軍制講義案』信山社1996年 p.36

続きを読む "明治天皇の戦争責任"

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2006年1月11日 (水)

「夜明け前」の星竹 (幕末明治50年間の日記が語るもの)

 以下は、東京、あきる野市のHPで掲載されていた、極めて興味深い記事です。既にHPがリニューアルされており、現在、読めなくなってしまいました。まことに惜しいので、私が保存していたファイルから、再び世に出すことにしました。当然、著作権の問題があります。もし、著者の方がご覧になり、削除を要請されるようなら致します。ただ、このまま埋もれさせるにはとても残念な、資料的価値の高い報告ですので、多くの方の目に触れる可能性のあるネット上で、掲示させて戴ける事を願います。


「夜明け前」の星竹 (日記が語る昔の暮らし)
元東京都網代母子寮適跡調査会調査員 宇佐美哲也

はじめに
 あきる野市戸倉に星竹という小さい集落がある。秋川はこのあたりから渓流が川幅を拡げ、ゆったりと蛇行し始める。岸辺には川原が広がり、ここは材木を筏に組む絶好の場所〔土場(どば)〕となった。星竹の集落は秋川の北岸で、背後には金比羅尾根の裾がせまって崖状をなしている。蛇行する川と崖の間に、三角形のおむすび状の平坦地ができ、そこに20戸余りの人家が集中し、猫の額ほどの畑や田を耕やしている。これが星竹で、こう書くと、いかにも貧しい集落を連想させるが、この星竹には戸倉でも有数の資産家が多い。なぜだろうか?答はやさしい、林業である。
 戸倉星竹の黒山儀一郎氏の曽祖父にあたる儀三郎は、当地方きっての林業家黒山家の基礎を築いた人物であり、厖大(ぼうだい)な日記を残された。五日市郷土舘が保管中の日記帳は13冊、安政6年(1859年)から明治41年(1908年)まで正味50年にわたる。
 黒山儀三郎は天保4年(1833年)9月15日に生まれ、明治45年(1912年)5月8日天寿を全うされた。満79歳8か月である。日記は、彼の26才の時に書き始め、亡くなる4年前まで書きつがれた。
 日記の内容は、日々の天候から農作業、林業関係の作業や人の出入、金銭の授受、家族や近隣の動静など、1日が見事な細字で3行に要約されている。一見面白味が少ないようであるが読みすすめていくうち、登場する人物の人間関係がわかってくる。身近な肉親から、出入する杣(そま)・筏(いかだ)乗りの行動まで謎解きのように解けてくる。そうして、儀三郎を中心に勤勉な勤労生活と緊密な近隣との連帯生活がドラマのように見えてくる。

1.落の構造
 上の集落図は、現在の道路図をもとにしているが、家家の位置関係は全く変らない。家は屋号で呼ばれる。この屋号は越後屋とか三河屋という商店の屋号と違って、集落内の序列や位置関係を示す呼び名である。まず原則をいうと、その集落の草分け(開創)の家を「お前(まえ)」と呼び、家格は一番上位である。その東隣りを「東」、西隣りを「西」と呼び、この東西がつく家はお前に次ぐ家格の家とされる。あとは地形や宮(森)・寺・堂との位置関係で呼ばれ、特に上下の関係はない。「上(うえ)坂」「下(した)坂」「堂の前」「森越」「森下」「寺向(むこう)」などがそれである。また、どこの集落にも食料雑貨を商う家がある。「見世(みせ)=店と呼ばれる。酒も売るので儀三郎はよく杣や筏乗りをつれて立寄り、元締(もとじめ)たちとの商談にも利用している。
 分家が「新家(しんやにや)」。隠居分家した家を「隠居(いんきょ)」と呼ぶ。これは全国共通のようである。
 集落の中央、いってみればおむすびの中心の梅干に当るのが「森」と呼ばれる神明社で、星竹の氏神様、毎年2月21日春祭りを行う。この森に儀三郎は父親忠蔵の名で庚申塔を献じた。また、森の空き地を商売用の杉皮干しによく使っている。寺は戸倉光厳寺の末寺、臨済宗建長寺派の普光寺で、儀三郎が世話人総代である。この寺は光厳寺の隠居寺らしく、住職は長老様と呼ばれているが、儀三郎をはじめ星竹の住民はみな筆子(読み書きの弟子)らしい。儀三郎と弟兵次郎は、暇をみては寺の薪こしらえにいっている。また、儀三郎は寺の桐堂金を管理し「寺金の利寄せいたす」と日記に定期的に書いている。星竹の北、集落を見渡す位置に「堂」がある。本尊は愛宕地蔵尊で火防せの神である。本来は「お前」の鬼門除けに建てられたものが、集落住民のお堂に変ったといわれている。

2.元締儀三郎
 集落図の南、川に面して「西」とあるのが儀三郎家で、右隣り屋号「西向」は分家の文蔵殿(日記の登場人物に儀三郎はほとんど「殿」をつける)、左隣り「田畑」は当主を周蔵殿といい筏乗りの親方で、この3軒は黒山姓の同族である。文蔵は儀三郎が元締として活躍するときの共同経営者に近い存在で、物堅く几帳面 (きちょうめん)な性格。一方周蔵は、漂々(ひょうひょう)とした好人物の風貌を日記に印している。
 儀三郎の元締業というのは伐期のきた山を買いとり、伐採し、筏に組み、六郷(大田区)まで運ぶ。一方江戸深川の材木問屋に交渉し、売買の約定(やくじょう)をかわす。商人としての才覚と、山林労務者の先頭に立って重労働をこなす両面性をもたなくてはならない.多くの職種〔杣(そま)・木挽(こびき)・筏 (いかだ)乗り〕を束ねるので元締と呼ばれる。これは才覚と同時に人間としての幅、厚みを必要としよう。日記に筏乗りの久二郎が結婚話をこじらせた時、嫁の集落に乗り込み、金と誠意を尽して話をまとめた一件が書かれているが、元結儀三郎の面目躍如(めんもくよくじょ)である。儀三郎家の日の前が田尻の土場 (どば)で、この土場の占有権を儀三郎が握っていることが大きな強みであった。秋川上流域の元締たちは筏の組立と輸送を、土場と筏乗りを握っている儀三郎に委ねるか、その協力を仰がねばならなかった。
 文久2年正月、儀三郎は自分も筏に乗っている。風と雪に悩まされながら、3往復している。これは専業の筏乗りでも尻込みする重労働である。府中、六郷の宿で乗子たちを「連れて遊ぶ」と書いているが、元締儀三郎の強味は常に身を挺して働くことで、褞袍(どてら)を着込み懐手(ふところて)をしている旦那衆の対極にいる人物であった。
 日記によれば星竹集落には、儀三郎の他元締が2人、「堂の前」の八百蔵、荻野の安五郎がいる。また、山持ちとして「寺向」の銀蔵、「森越」の周八が出てくる。山持ちは山の植林、育成、管理を本業とする。伐期が来た山は上木(うわき)を元締に売ってまた植林する。1、2年おきに伐採できる山をもつようになれば大山持であろう。
 以上が集落の富裕層だが、その他の住民の中にも手山(自分の山)の1つ2つは持っている者が多く、冒頭に星竹は貧村ではないといった理由である。

3.集落の暮らし
 安政6年(1859年)の日記の冒頭は儀三郎家の屋根替えの記事である。屋根職人を頼んでいるにも拘らず、手伝いが1日1人ずつ3軒からきている。先ず、東隣りより藤次郎(文蔵弟)、次の日は西隣りの周蔵、最後にこれも隣家の「お前」の若主人小重郎である。これは当然くるべき人達であった。ということは儀三郎家でも、この3軒に家普請(いえふしん)、冠婚葬祭その他事あれば出向く義務を負う間柄なのである。かつて、お前のおゑい(小重郎の母)が倒れたとき、儀三郎の弟兵次郎は今熊山へお百度詣をした。次に兵次郎が大病を患うと、小重郎が同じ今熊山詣をしている。こうした配慮が当時の集落生活の基礎であり、この土台のうえに星竹20余戸は数珠玉のように結ばれている。
 毎年11月1日は星竹の橋掛け日で、集落総出で秋川に木橋をかける。この時は、対岸の坂下・西戸倉からも人が出る。橋は現在の星竹橋より30メートル程上流に架ける。
「田畑」の西脇を通る旧道が川へ出た川原に大きな岩があり、よく見ると柱穴らしきものが2ケ所あいている。
これが橋の台石で、対岸にもやや小ぶりの石がある。毎年11月1日に橋をかけ、翌年4月1日に撤去する。夏秋は徒歩波りというのは星竹に限らず、秋川を挟む村々の慣行であるが、星竹に限っていえば9月に板橋をかける慣習がある。これは星竹の住民で対岸西戸倉地区に畑を持つ人々が、9、10月の収穫、麦蒔の為に橋が必要だからで、日記では「畑持ちの橋かけ」と称している。畑持ちの黒山家ではいつも兵次郎が人足に出ているが、面白いことに畑を持たない家からも毎年2戸ずつ当番で人足に出る。粗末な板橋でもあれば皆が使う。この慣習なども集落内の融和を考えながら、長い年月をかけて育てた暮らしの知恵であろう。

4.「有(あり)」と「拵(こしらえ)」の世界
 儀三郎の日記の表現は簡潔である。一番よく出る言葉が「何々有」、次に「何々拵」である。前のつづきでいえば、11月1日には「橋かけ、日待有」と書かれている。有の中で頻度が多いのが「日待」=飲食会、次に「念仏」である。
 日待は「軍道山取上仕舞(じまい) 日待有」「お前にてかいこ始メ日待有」など仕事の始め終りに行う日待が多い。とくに山仕事は仕事の区切りを日待でつけているといってもよい。曜日制のない昔、日待は勤労にリズムを付け、生活に節目と慰安を与えるものらしい。日記から目につく日待を拾うと「獅子仕舞日待」「若衆うどん日待」「麦蒔仕舞、内日待」等。内日待は個人的なものだが、手伝った人は呼ばれる。酒好き、社交好きな儀三郎は日待が好きで、出席率きわめて良好のようである。
 念仏は、女念仏請中が集落内を順ぐりに、月に幾回となく集りをもつ。葬式があるとその晩は入(いり)念仏か百万遍が行なわれ、月念仏、男念仏というのもある。明治も近いというのに星竹の夜の基調音は地を這うような念仏の称名(しょうみょう)であった。いや、星竹に限らず、念仏は大方の集落の闇を覆う音声であったようだ。
この日記は当時の民衆娯楽の状況も伝えてくれる。祭文(さいもん)・人形・相撲・芝居・手踊り・写絵(うつしえ)等が「何々有」と出てくる。祭文語りや人形芝居などの門付(かどつけ)芸人が「西戸倉一落合一星竹」と川添の小集落を廻ってやって来る。星竹の場合「見世」などを借りて興行する。20戸程の小集落でも人々は娯楽に飢えている。時には瞽女(ごぜ)や比丘尼(びくに)も廻ってきた。彼女らは遠い異郷の歌を披露する。儀三郎宅にも泊めている。相撲は伊奈村、芝居も伊奈や五日市等戸数の多い所で行なわれるが、儀三郎へは使いがくる。彼は必ず花(祝儀)を届ける。儀三郎・兵次郎兄弟はそろって芝居好きで、兵次郎は小屋掛けから手伝い、時には次の巡業先までついてゆく。この兄弟に限らず当時の人々は芝居の中から娯楽以上のもの、人間としてのあり方-人倫(ひとのみち)とでもいったものを吸い取っていたように思える。儀三郎は雨にとじ込められた日、「さいもん写す」と日記に書いている。祭文語りの台本を筆写したのであろう。祭文も人形浄瑠瑞も儀三郎には学びとるべき人生の教本であった。
 次に儀三郎日記に頻出する「拵(こしらえ)」について話そう。拵は文字通り造ることだが、日記には、肥持・粟掃・もみ好等の農事、臼・鋸・鍬・押切等の道具類、屋根・とよ・垣のうね・わらじ・草履・下駄・足袋果ては幼い長男太郎吾の股引にまで及ぶ。何をどのようにするのか頭をひねってみた。例えば臼拵は石臼の目立、鋸も同様、鍬は鍛冶屋から届いた鍬頭に柄をつけることと推察した。 日記に車持とあり、始めは手車を造るのかと驚いたが、儀三郎家が水車をもっていることを知り、水車修理と判った。消費経済にとっぷり漬かった我々には想像外の手作りの世界である。
 当時の家の屋根(星竹地区)は大方麦から(麦わら)だが4年に一度は修理を要する。母屋の大屋根以外はすべて儀三