若い衆に入ったら、子供心でいるんじゃありません
下記の本が面白い。
本書は、近世日本の教育・社会史の専門家が、その三十年来のフィールドワークの歩みを総決算したもので、内容はすべて著者自身の調査・研究に基づくという。興味深く、新書ながら力作であると思う。
特に印象深かったことは五つある。
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下記の本が面白い。
本書は、近世日本の教育・社会史の専門家が、その三十年来のフィールドワークの歩みを総決算したもので、内容はすべて著者自身の調査・研究に基づくという。興味深く、新書ながら力作であると思う。
特に印象深かったことは五つある。
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ヨーロッパにおける宗教改革については、以前にも触れたことがある。
ただそれは、宗教改革のもたらした思想史的影響を、関曠野のガイドラインに沿って簡略にまとめただけで、史実としての宗教改革がいったいなんであったのか、ということにはほとんど触れていない。今回改めて、歴史学の対象としての宗教改革の全体像を知りたくて、下記の書をひも解いてみた。
小泉 徹『宗教改革とその時代』山川出版社(1996)
(世界史リブレット27)
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例えば近世初頭の理学者小瀬甫庵(1564-1640)は、前田利家による石動山天平寺(天智天皇の勅願所と伝えられる)の焼き打ちにふれて次のように述
べている。「代々之秘法も調伏之護摩も本尊之神力も、実理にあふては其甲斐露なく見ゆ」「歴々たる武士たちの武運長久之戦功を仏神に便り、珠数の力を憑
む事は何事ぞや」と。彼によれば「理に背けば天に背く」のであり、「天意」に合うか合わぬかが人の運命の岐路となる。従って神仏の力を頼む呪術はすべて無
効だというのである。晩年の彼は生涯を振り返り、織田信長が妄僧に騙されなかったため「寺院の法力」もその頃から衰えだした。・・・。
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平石直昭『日本政治思想史』放送大学教育振興会(1997年)、pp.25-26
織田・豊臣政権、そして、徳川政権といった戦国武将出身の軍人政治家たちは、中世における「呪術の園」ともいうべき顕密体制への禁忌を、全く新たな「外 部」=キリシタンによる神仏否定を思想的梃子として振り払い、そのうえで、むき出しの暴力=軍事力をその顕密権門へ行使し、彼らの思惑通り、それらを次々 とその足下に組み伏した。
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少し前に、石高制について四回ばかり記事(下段・注参照)を書いた。今回気になり、その記事を自分で読み直したら、幾分おかしいことに気付いたので、再述する。
中身は、池上裕子『織豊政権と江戸幕府』(日本の歴史15)、講談社(2002年)、第五章、「1 太閤検地の再検討」、pp.172-190、のリライトである。
同著のその節における池上氏の本来の意図は、これまで、戦後マルクス主義経済史学の強い影響力の下で、結果的に日本近世史上、特権視されてきた‘太閤検 地’を、もう少し長いスパンで見直すことで、中世、または戦国期からの連続性の中で‘太閤検地’を妥当に評価し直そうというものである。しかし、私の目的 は、その内の‘石高制とはなにか’という部分に限定される。ただ、その限定した目的だけでも、事が少々ややこしいので、頭の整理には役立つと思う。
■斗代、ほかの再定義
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エートスが進化するとしたら、それは社会に受け入れられているエートスの交代だと前回述べた。
つまり、エートスXがエートスX+やエートスX-に歴史的に遷移したならば、それはエートスXが、X+やX-に変容したのではなく、異なるエートスであるX+やX-に切り替わったのだ、とみなせるし、それが歴史の進化的理解にも合致する、ということだった。
では、エートスXが存在して、そのT歴史時間後にX+やX-が出現するとしたらどのような経路が考えられるだろうか。契機は三つある。1)異なる預言者の出現、2)エートスXをもたらした預言者x自身の思想変化、3)預言者xの思想が、ある社会層のエートスXとして受け入れられる際の変形、である。
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進化理論は、変異と選択という二つの概念装置から構成されている。
変異とは、ある種が何らかの要因で変ることであり、選択とはその種の持つ形質がその種が生きている局所的世界、つまり生活環境にうまくフィットしているため生き残る、という意味である。
そして、この二つの事柄は全く独立したことだ、というのがダーウィン進化論の核心だ。その二つの組み合わせで進化という現象、つまり「1世代を超える時間的なスケジュールでの生物の(遺伝的な変化を伴う)形質の時間的変化」*が起こるのだとする。
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私は、戦国期の最新通史として池上裕子氏の著作を読んだのだが、前回記事の箇所を読んで仰天してしまった。確かに、池上氏自身が少数派だとは書いている が、事はかつての「太閤検地論争」を含めて、太閤検地や徳川期の「石高」の前提をすべて根底から揺るがすものだ。私が注目評価する、日本近世経済史研究を 一新した Hayami school の研究蓄積でさえその例外ではない。彼等も「石高」を生産高と認識しているのだから。
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身辺多忙で記事を書くのが間遠くなってしまっている。
池上裕子氏(成蹊大)の議論はこうである。
戦国期から太閤検地期における史料での斗代の使用法をみると、
斗代 = 本年貢 + 加地子(一種の小作料)
となっている。「斗代」を「年貢」と表記している史料もある。こういうことが一般的になると、これらを負担する側でも、取る側でも、両方込みで、「年貢」「斗代」とみる意識が成立する。
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「石高制」ってなに?(2)
いま、自分でもあまり明確になっていない事を書こうとしている。したがって、論にぶれや乱れがあると思うので、そのように感じた方がいらしたら、ご指摘いただければと思う。
1)用語の整理
まず、用語の整理からしておこう。以下、語義はすべて、『岩波日本史辞典』(1999年、第1刷)からのものである。
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Max Weber が団体を議論するときの重要な2類型、Anstalt と Verein。通常の英語との対応を見るとこうなる。
Anstalt ⇔ institution
Verein ⇔ club, association
Weber は、近代国家は、Anstalt であるという。だから、社会契約説による国家設立という story に、Weberは組しない。
一方、日本中世の結社原理「一揆」。さて、この「一揆」は果たして、Anstalt か、Verein か。おそらく、Verein なのだろう。そして、幾つか観察から、戦国大名も「一揆」の構造を持っているらしい。すると、その延長線上に構築された徳川国家は、 association ?
もう少し、息の長い考察が必要のようだ。捲土重来。
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「決定や行動、発話や議論における時機についての問題は、昔の哲学にとっては中心的なトピックであった。「合理的なことを企てる rational enterprise」際の当のモデルは、十六世紀の学識者にとっては、科学ではなく法律であった。法律学は「実践的合理性 practical rationality」と「時機 timeliness」とのつながりのみならず、地域的多様性のもつ意義、特殊性との関連、および口頭で行う議論におけるレトリックの効力などをも明るみに出す。これと比較してみると、普遍的な自然哲学を目指すすべてのプロジェクトは、人文主義者には疑わしいものに思われた。100年後、事態は逆転していた。デカルトと彼の後継者たちにとっては、時機的な問題とは哲学とは何の関わりもないものであった。かわりに、彼らの目的は、変りやすいすべての現象の背後にある造化の神の永遠の構造を明るみにだすことであった。」
スティーブン・トゥールミン『近代とは何か』法政大学出版局(2001年)*、pp.53-54
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下記の記事は、すでに、
として掲載していたものだ。今回、「社会契約論」のカテゴリーを作成するに当たって、どんなものが引っかかるか調べたら、そう言えばこういう記事もあったと思い出した次第。
ただ、読み返してみると、関曠野の文は本当にすごい、と思い直した。このたった527字、原稿用紙一枚半の中に、ロックの「自然権」概念とそこから社会契約が導き出される論理を示して間然するところがない。そして、なによりも、「政治的権威による統治」は人間にとり必然なもので、それゆえにその「正しさ」は常に弁証されねばならず、近代以降においてそれが意味するところは、つまるところ、われわれ朋輩隣人たちの社会契約によるしかないことを、この上ない力強さで語りきっていることだ。
この清々しい強さの源泉はなんだろうか。それは、関曠野は、もの書くとき、業績を上げるために paper を積み上げているのではなく、政治的権威を創造すべく定められている、朋輩隣人の一人として、つまり、現世に生を享けている一個の人間の義務として書いているからだろう。己の頭脳で考え、納得のいった、書かねばならないことだけを書く。余人の真似し得るところではないが、良き模範としてせめて心にとどめておきたいと思う。
以下、再掲( Collingwood 関連は若干加筆)。
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他所様のところへ書いたコメントの再述(すこし改変)と追記。
禁欲的プロテスタンティズムは、共同体内-外の区別を破砕し、家族内-外、つまり、「身内の論理」をも無くした。これが、近代において、「個- 人」が共同体から析出されてくる、という意味でもあった。そして、その諸個人は、共同体の代わりに、自らを守るため、近代主権国家を「選択的」、つまり自らの意志によって構築する道(=社会契約)を選ばざるを得なくなる。
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藤原惺窩(1561 - 1619)、林羅山(1583 - 1657)、山崎闇斎(1618 - 1682)。さて、この徳川思想史初期のビッグネームたちの共通点は何か。
1)いずれも牢人(惺窩は没落貴族)の子弟であること。
2)いずれも人生の活路を求めて禅寺へ出され、そこで朱子学と出会い、思想的な開眼をしていったこと。
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「かくのごとく共同体の仲間同士の間の経済的交渉、さきにいわゆる対内経済 Binnenwirtschaft と、縁もゆかりもない外部のものに対する経済的交渉、いわば対外経済 Aussenwirtschaft とが全然ことなり、また対内道徳 Binnenethik と対外道徳 Aussenethik とが全然ことなるというのが、近代西洋以外においてわれわれが常に遭遇する事実であるが、これに反してこの対内経済と対外経済との間の、また対内道徳と対外道徳との間のけじめを廃棄したこと、言いかえれば、対内経済の中に商人的生活態度 das haendlerische Prinzip が浸透したこと、さらにこういう基礎に立脚して労働が新しく組織されていること、これらの事実こそ西洋的資本主義の第二の特徴である。」
マックス・ウェーバー『一般社会経済史要論 下巻』岩波書店(1955年)、黒正巌・青山秀夫訳、p.171
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一点、重要な主題のすり替えがあった。お恥ずかしい。(-_-;
最初の質問は、enlightenment が誰によって「啓蒙」と訳されたのか、だった。しかるに、(2)での結論は、Aufklaerung → 啓蒙 の初訳は、どうも大西祝らしい、とまでしか迫れていなかった。申し訳ない。
結局、今の段階では、enlightenment → 啓蒙 の初訳者が大西であるかどうかは不明としかいえない。私には。
うーん。憶測すれば、たぶん、Aufklaerung → 啓蒙 がアカデミズムで定着するにしたがって、enlightenment → 啓蒙 も収斂したのではないか、というところだが、ま、どうかな? もうこれ以上探求する資源(元気、時間)が私にはないので、あきらめます。すみません。
〔参照〕
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あまり以前のように記事が書けないでいる。他方、書評を試みたいものは結構ある。
1)前田愛、幻景の明治、岩波現代文庫、2006年
2)小島毅、近代日本の陽明学、講談社選書メチエ369、2006年
3)小島毅、朱子学と陽明学、放送大学教育振興会、2004年
4)吉田公平、日本における陽明学、ぺりかん社、1999年(ただし、後半1/3未読状態)
5)上安祥子、近世における大政委任論の形成過程、鈴木正幸編『王と公』、1998年、所収
6)源了円、一語の辞典 義理、三省堂、1996年
7)鬼頭宏、文明としての江戸システム、講談社日本の歴史19、2002年
8)佐藤常雄+大石慎三郎、貧農史観を見直す、講談社現代新書、1995年
9)石井紫郎、近世の国制における「武家」と「武士」、岩波・日本思想大系27、1974年、所収
10)前田勉、兵学と朱子学・蘭学・国学、平凡社選書225、2006年
11)末木文美士、日本宗教史、岩波新書、2006年
12)子安宣邦、本居宣長とは誰か、平凡社新書、2005年
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「国家が存続するためには、被治者がその時の支配者の主張する権威に服従することが必要である。では被治者は、どんな場合にどんな理由で服従するのか。この支配はどのような内的な正当化の根拠と外的な手段とに支えられているのか。」
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』岩波文庫版、pp.10-11
Max Weber が類型化する「内的正当化の根拠」は、以下の有名な三か条である。
1)伝統的支配
2)カリスマ的支配
3)「合法性」による支配
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日本近世史上、毀誉褒貶の激しい、田沼意次。彼の功罪を備忘録風にメモしておこう。
功1) 彼の選択した、一連の重商主義的な経済政策、通貨政策は、政策パッケージとしてかなり整合性が取れていた。この合理性は、他の政権時の改革政策にみられないもの。
功2) 彼の政権のもとで、一定の思想・信条の自由が可能となり、特に、蘭学が盛んになった。これは、享保の改革を受けてのものだが、日本の初期近代において決定的に重要。
罪) いくら個々の政策に合理性があり、政策パッケージにも整合性が取れていても、それを打ち出すに「時」を得なければ、その政策の有する目的を達成できない。当時、気候変動が「小氷河期」に突入していた点は、かなり不運だった。だが、そもそもその政策パッケージが、商工業、貿易志向が強すぎ、農業政策にその明晰な頭脳が投入されなかったことは否めない。
総合評価
優れた現実洞察力、先見性を有していたが、政策そのものは直後の寛政の改革で真っ向から否定されたこともあり、後世への影響は大きくない。勘定方(経済を中心とする実務官僚群)にはその衣鉢を継ぐ者たちは残ることになるが。それより、思想・学問の改革開放により、蘭学が一気に興隆したことが大きい。それは、近世日本における、China oriented mind を相対化するのに、決定的な作用をもった。
そして、これは田沼の預かり知らぬことだが、思想史的には、次の松平定信の本格的朱子学化とともに日本近代のその後の展開を規定する元となった。
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良書である。徳川の治世は、およそ270年。その中にあって、19世紀半ばの列島の国制変動に直接つながり、かつ徳川政権が主導的に政治刷新を行い得た、最後の転回点と言える寛政の改革。本書は、この改革の実態とその主導者、松平定信の政治家としての人物像を、新書という教養書の枠内で描き切った、一つの優れた晩期徳川政治史である。
私の目下の関心は、19世紀の日本国制史の変動にある。つまり徳川氏を棟梁とする、権力多元的な武家連合政権から、いかにして、京の一隅に逼塞せしめられていた「禁裏」を名目的元首とする、権力一元的な大日本帝国なる近代主権国家が誕生したかにある。
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以前、 Max Weber があの巨大な学問的業績を残せた要素の一つに、母方の祖父(曽祖父?)から譲り受けた遺産があることを指摘した。
日本でもその例があること知ったので、メモしておこう。
本居宣長がその人である。
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一定の見方からのものであり、言葉遣いに少々首を傾げたくなる部分も散見されるが、本書の前半三分の二ぐらいまで、つまりホッブズまでは、それなりに文献を押さえ議論されていて参考にはなった。
しかし、ロック以降結語までの部分は、書き飛ばした観があり、どうもいただけない。気持はわからんでもないが。少なくとも、著者が「自らの主張を自分から疑ってみよう」(本書p.217)としているようには思えなかった。
また、本書全体の論調からして、政治的にも知的にも、著者が、現代においては、所詮、己も民衆(デーモス)の一人に過ぎない、という冷めた認識を持たれていないように見受けられるのは、知的(理性的?)読者をして著者の知的成熟度に一抹の不安を感じさせるに十分なものがあると思われる。
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かつて引いた、David Hume の文の原文をたまたまネット上で見つけたので、ご紹介しておこう。
D.ヒューム
政府の第一原理について(1742)
「多数者が少数者に統治されることの容易さ、そして、人々が自らの感情と情念を支配者のそれらのために放棄する是非を問わない従順―哲学的な眼をもって人の世を考える者にとって、これほど驚くべきことは他にない。この驚異がいかなる手段によって実現したのかと問うならば、力 force は常に被統治者の側に在る以上、統治者は意見 opinion 以外に頼るものはないことが、見いだされる。したがって、政府の基礎とは意見だけである。そしてこの格率は、最も自由、最も民衆的な政府と同じく、最も専制的な、最も軍事的な諸政府にも適合するのである。」
D.ヒューム「政府の第一原理について」『市民の国について』上、岩波文庫(1982年)
渡辺浩 『東アジアの王権と思想』東京大学出版会(1997年)、p.v、より孫引き
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碧梧桐から、「桐一葉」が気になりまして、ついつい調べちゃいました(-_-;。以下はその成果*。
関連する出典を、時代順に箇条書きしました。
1)『淮南子』(紀元前2世紀)、「巻十六 説山訓」
見一葉落
而知歳之將暮
睹瓶中之冰
而知天下之寒
以近論遠
一葉落つるを見て、
歳の将(まさ)に暮れんとするを知り、
瓶中(へいちゅう)の氷を賭(み)て
天下の寒きを知る。
近きを以て遠きを論ずるなり。
2)唐庚(とうこう、宋の人)編、『文録』より、作者不詳
山僧不解数甲子
一葉落知天下秋
山僧は甲子(つきひ)を数うる解(あた)わず
一葉落ちて天下の秋を知る
3)呉自牧(元の人)、『夢梁録(むりょうろく)』巻四(七月立秋)
梧桐一葉落
天下尽知秋
梧桐一葉落ち、
天下尽く秋を知る
4)紹巴(じょうは、安土桃山時代の連歌師、1525年 - 1602年)、『連歌至宝抄』
いづれの木も葉の落るは初秋に候。梧桐一葉知天下秋と作候間、梧桐の事なりと申慣し候
5)王象晋(明の人)、『群芳譜』(1621年)。
梧桐一叶落
天下尽知秋
梧桐一叶生
天下新春再
6)旨原(しげん、1725-78、其角の門人)
我宿の淋しさおもへ桐一葉
7)坪内逍遥、『桐一葉』(1893年)
「一葉」がなぜ「桐一葉」になってしまったのかは、推測の域を出ません。下記合山氏の書でも、私と似たようなものです。
ただ、かわうそ亭さんにご教示戴いたように、「桐一葉」が季語として成立したのが16世紀末だとすると、ちょうどそのころ、朝鮮経由の宋本や朝鮮におけるリプリント本が秀吉の朝鮮出兵を機に、大量に掠奪され日本国内に戦利品として持ち帰られている可能性がありますから、その中に文献2)や3)も当然あったことでしょう。そして、この頃から徳川初期にかけて、中国では「梧桐一葉(ごどういちよう)」、日本では「桐一葉(きりひとは)」として分かれていったものと考えられます。
最後に、合山究氏が下記の書で興味深いことを指摘していますので、それを引用して結語としましょう。
「中国では「一葉落ちて天下の秋を知る」や「梧桐一葉落つ」などが、物事の将来や趨勢を予知・予見することのたとえとしてもちいられることが多いのにたいして、わが国では、「桐一葉」はもとより、「一葉落ちて天下の秋を知る」でさえ、どちらかといえば、没落衰亡の予兆をあらわすたとえとしてもちいられがちなのは、やはり日中両国の国民性の違いを示すものであろうか。」下記書、p.41
*主な情報源は以下。
1. 合山究『故事成語』講談社現代新書(1991年)、pp.38-41
2. かわうそ亭さんのご教示
3. 平凡社世界大百科事典(1998)
〔注記〕以下もご参照を乞う。
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「天動説と地動説で、後者が科学的で真理だと誤解する向きは多いだろうが、この両者はある操作で補正すると、それぞれの座標空間上に1対1で対応する。1対1で対応するということは、数学的に等価だということだ。」
と書いた。これについて、意味がよくわからん、とのご指摘を戴いた。そこで、ちょこっと付け足す。
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私の操作ミスで、1年ほど前の記事を、新しい記事であるかのように表示してしまった。それを垣間見られた方は、何がおきたのか、と訝しんでおられる事と思うので、念のため、下記にリンクを張っておく。失礼した。
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3/4(日)、21:00-21:49、NHK総合テレビで、「歌麿 紫の謎」なる番組が放映された。番組の内容そのものについては、リンクをたどって戴ければよいだろう。
番組中、印象的なことが幾つかあった。
まずは、その反骨性。徳川政権はその初期から、庶民に紫(むらさき)をその衣服に使用することを禁じていたらしいのだが、歌麿は絵師としての当初から、積極的に紫を美人画に使っていたし、徳川政権、就中(なかんづ)<、寛政の改革を推し進めた、松平定信の政権とは、どうも折り合いが悪く、その文化政策に悉(ことごと)く、抵抗する姿勢を示していたこと。こういう気骨のある絵師とは全く知らなかったので、特に新鮮だった。
働く女性を美しく描いていたこと。松平定信政権の偏狭な文化政策のため、次々と題材を規制されていくが、それを出し抜く形でついには女たちの働く様を絵に定着化することになり、そこに人間凝視に基づく彼なりのリアリスティックな女性像を描き出すようになっていた。これも初めて知ることで面白かった。
古今東西、絵などというものは、食らうべき者どもがなすことではなく、働く必要のない、貴族や権力者御用達の、彼らを賞賛するために、絵師に己たちを描かせるに過ぎないものであった。西洋においても、ミレーのように農夫たちの働く姿を絵にすることなど、19世紀において出始めることだ。
それを歌麿は、大首絵(いわゆる、上半身だけの bust shot)の技法をそのまま働く女たちを描くことに使い、それを一つの美までに造形し得ていた。赤子をあやす為に、アカンベエをして舌を出しながら、糸を繰る女の図など、そんなものが浮世絵にあったなんてことは全くの初耳だった。
浮世絵そのものが、複製による大量生産→消費的な廉価芸術という、世界的に見ても江戸独特のあり方だったということも、遅ればせながら知ったのも収穫。ベンヤミンの「複製技術の時代における芸術」を読んだことがないので、残念ながら江戸アートをベンヤミン的視角から論ずるのは、他日を期したい。
一つ解せないのは、いまだに江戸枕絵を日陰の身にしたままのところだ。確か世界最大の枕絵コレクションは、ボストン美術館にあったように記憶しているのだが。これについては、また他の文献など読む機会があれば論じようと思う。
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まずは、以下の二つの引用を対照して、その奇妙な並行現象に注目していただきたい。
「おそらく、国学や水戸学的言説で満たされていた当時の思想空間において、「神武創業」は、抜本的革新を志向する文脈に登場してくる必然性を持った観念だったのであり、しかもそれは、王政復古の大号令の一節、「旧来驕惰の汚習を洗い」にもうかがわれるように、長い年月の間に積もり重なった汚濁を排除して、「純粋の始原」の回復をめざすところの、その意味で、日本における「原理主義」とでも呼ぶうるような志向をともなっていたのである。」p.47
坂本多加雄『明治国家の建設 1871~1890』〈日本の近代 2〉、中央公論社1999年
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これは民主主義史の必然的発展というより、イギリス政治史という特定の国の特殊な経緯に起源を持つということが出来る。
事は、いわゆるイギリス下院内のトーリーとホイッグの政治的角逐に端を発している。 18世紀初頭、トーリ+英国国教会連合は、アン女王の支持を受け、ホイッグ+非国教徒連合を、圧倒していた。そこで、ホイッグが、アン女王が後継者なく没した後、ドイツ・ハノーバーから呼んだのがジョージ一世(1660年~1727年)であったが、彼は英語を解さず、当然イギリスの法・政治にも暗かったので、それまで王が主催していた閣議を放擲してしまった。代わりに、諸大臣のうち、筆頭のもの(たいてい大蔵大臣)が閣議を主催するようになった。これが責任内閣制の始まりであり、その閣議を主催する大臣を首相(prime minister*)と呼ぶようになった。イギリスの制度として、それまでに、王の発令発布する法令への大臣副署制の習慣が確立していたことも、王を名のものだけにするにの力があった。
この間のイギリス政治の動きについては、下記サイトを参照。
注の注* ジェフリー・アーチャー の小説『めざせダウニング街10番地』は、戸別訪問OKというイギリス選挙戦をはじめとするイギリス政治の生(なま)な部分を知るのに格好の書である。この原題は、“ First Among Equals” 、つまり「同輩中の首位のもの」=首相のこと。この言葉、確か、もとは、ラテン語の、“Primus inter pares”で、ローマ共和政から出現した、カエサルのような人間のこと、を指していたと思う。ちょっとここは記憶があいまい。失礼。
註 本記事は、一度、当blogで公表したものだが、標題からではその内容を予想できないので、自分のために再掲することにする。諸賢にも参考になれば、幸甚。
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前回の続きです。
1)立憲主義と「公-私の分離」について
長谷部恭男氏(東大の憲法学教授)はこのように考えているようです。多くの人間が暮らすこの社会で、人はそれぞれ異なる多様な価値観を持って生きている可能性が高い(価値の多元性)。で、場合によっては、これらの価値観は、互いに最終的に比較不能で、調和し得ないかもしれない(比較不能な価値観の対立、「神々の闘争」)。それだとしても、社会生活の便益とコストを公正に分かち合ってお互いに協働して生きるためには、基本的枠組みを定める理念が必要だ。それが、自分が一番大切だと思う価値観、自分の人生に意味を与えてくれる価値観を、みんなのことを議論し、決定する場には持ち込まないという、生活領域を公と私とに人為的に区分することなのだ、と。
この考え方は、J.ロック(1632-1704)の寛容論を下敷きにしています。これを通説的に述べれば、為政者の権限は、政治社会に住む人々の幸福と自由の保護にあり、思弁的な意見や礼拝については、人々は寛容な取り扱いを要求をする普遍的権利をもつということ。つまり、国家は人間の魂の救済まで入りえないという立場から、国家と宗教(教会)の分離を唱えた、となります。
しかし、この如上のロック解釈は、関曠野氏のロック解釈とかなり異なります。ロックの言う「信仰・良心の自由」とは、元来プロテスタンティズムに遠因するものです。
それは、権力に干渉されることなく自らが真実とみなした信仰によってのみ生きる権利のことでした。すべての人間には聖書から生きる掟を自ら引き出す知的能力が備わっていて(万人祭司説)、それゆえに聖書以外の現世の権威に無自覚に服従することは自由なるキリスト者の義務に反することになります。一方で、西洋では教会と国家の権威は聖書によって正当化されていましたから、この主張は天与の秩序とされていた伝統的政治秩序を根底から揺るがすことにならざるを得ません。これ以後、個々人が自ら聖書の掟と信ずるものに従って承認した権威だけが正当な権威となりました。権威は伝統として受容されるのではなく、諸個人の知性によって創造されるわけです。つまり、「信仰と良心の自由」、の「自由の原則」が表明しているのは、一つの信念、すなわち政治的権威は諸個人の協力によって自由に創造されるという信念に等しくなります。しかもこの自由は、アナーキーな主観的自由ではありません。信仰の自由は、キリスト者が聖書の掟に従って生きるという義務を果たすために必要とされる自由だからです。
従って、関曠野氏の描くロック自然権論もこうです。自然権とは本質的に、自由に政治的な決断と選択を行う権利である。人間は各自の善悪の判断に基づいてこの権利を行使する。それゆえに自然権論が説く意味での自由とは、人間は善悪を自主的に判断する能力を等しくそなえていると主張することになるわけです。
以上のプロテスタンティズム及び、J.ロックの関廣野氏的理解からすると、長谷部氏などが言う立憲主義を基本的に構成する「公-私の分離」というのはちと腑に落ちない。価値多元論はよいとしても、それが直線的に「万人の万人に対する闘争」を帰結するというのはおかしい。なぜなら、立憲主義の根本にある「法の支配」の考え方からすれば、社会の進歩は、異なる多様な意見の、自由で公正な討論によるから、それを妨げる者に対しては、力による制裁も辞さないし、またこうした力の行使だけを正当と認める、ものだからです。
2)6/12に、以下のような古井戸さんからの質問を戴きました。それについて、簡単にお答えしたいと思います。
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>> 近代立憲主義の起源の一つとしてユダヤ教の重視する文脈は..
「近代」立憲主義なのか「立憲主義」なのかで、回答は全く異なるのではないでしょうか。立憲主義とは、述べられている如く成文化さらた書き物としての規則にかぎらず、慣習法ひろげれば該当地域内で共有された思想信条もはいるでしょう。すなわち宗教との境目はなくなります。現実的に、国家(世俗)と宗教世界は分離されていますが、中性に置いては特に西洋では農民の収入の1/10を教会組織が徴収している。これはひとつの国家です。日本でも寺社は制度として信者から(現在でも)寄付を求めておりそれに違反すれば寺社のサービスは得られません。
旧約聖書に起源を求められているが、仏教であっても他の宗教であっても、宗教と呼べるものが出てくる以前に(アダムとイブ以前)、世界各地の土俗宗教は共同体統治(権力)と区別できないカタチでひとつの 憲法(規)を持っていたはずです(動物との区別)。現在でも、政治的な意味で言う憲法以外に、信仰の自由が保障されている(近代国家では)各種宗教の教え(定め)は書かれた憲法の前提になって人間の好意をしばっていると思います。したがって、constitutionには宗教も含めるべき、ということになります。
ついでですが、政治学者高坂は、constitutionは憲法というより「この国のかたち」(司馬遼太郎)と訳した方がよい、といっていたそうです。
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古井戸さんがご指摘されるように、元来、constitution、には、新英和中辞典 第6版 (研究社)によれば、
1 構成,組織,構造 〔of〕.
2 a 体質,体格.
b 気質,性質.
3 憲法 《★【解説】 国家の基本的条件を定めた根本法》.
4 政体,国体.
5 制定(すること); 設立(すること), 設置.
という意味が含意され、これを「国のかたち」としてもよいと思われます。
The Pocket Oxford Dictionary によっても、
act or method of constituting, composition; form in which State is organized; body of fundamental principles by which a State or body is governed; condition of person's body as regards health, strength, etc.
とあり、語源的にも、ラテン語の、constitutio(整理、性質・状態、確立、定義、勅法)と多義的です。ま、古井戸さんにこんな説明は釈迦に説法ですが・・・。
ただ、用語として、constitutionalism 立憲主義、といえば、前近代でも、近代以降でも、本質部分は、「法の支配」、「治者の恣意に依らない、依法的統治」のことを指す、のが、政治思想史や法思想史では常識です。ですから、私もこの意味でのみ「立憲主義」を使用しています。ちなみに、西洋中世のカトリック世界で、教皇至上権に対して、公会議(司教、枢機卿たち合議)首位を主張する運動は、一種の立憲主義運動とも見なし得ることを付け加えておきましょう。
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6/6に、下記のようなご質問を戴きました。で、とりあえず、私のできる範囲でお答えしてみます。私に誤解、理解不足の点がありましたら、どなたかご指摘戴ければ助かります。
Q.6/6
いつも楽しく拝見しております。知的刺激を大いに受けております。この立憲主義についての考察も、次号を楽しみにしております。ところで、御存知であれば教えていただきたいのですが、関氏がいうところの「立憲主義の源流はユダヤ教である」、これはあくまでユダヤ教ということであって、キリスト教ではないということでしょうか?すなわち、「預言者」なるものが登場するのは旧約聖書であって、新約聖書ではないということでしょうか?高校の世界史の説明では、近代立憲主義が登場するあたりは、キリスト教宗教権力と近代国家の相克のなかで、世俗権力が確立し、「公-私の分離」が確定するというものだったので、この立憲主義成立のバイブルは新約聖書だとばかり思っておりました。御教示賜りますれば幸いです。
A.
1)関氏はユダヤ教と言っていますが、これを換言すると、旧約聖書に書かれている思想(旧約思想)の事です。宗教改革の関連で言えば、カルヴィニズムは旧約聖書を聖典として最重視しました。ですから、カルヴィニズムは旧約思想から決定的に影響を受けていることになります。端的に言って、旧約思想を初期近代において再生させたものとさえ言えます。
そして、そのカルヴィニズムは、典型的には、モナルコマキ(暴君放伐論者)、ヨハンネス・アルトジウス(1557-1638)を経て、J.ロックへとつながり、近代立憲主義へと転生します。
関氏が、近代立憲主義の起源の一つとしてユダヤ教の重視する文脈は、ここにあります。
2)一方、近代立憲主義の起源は何もキリスト教(あるいは宗教改革)だけにあるわけではありません。西洋中世にもしっかりその根を持っています。
古ゲルマンの法観念、統治契約論、身分制議会(=身分制的代議制)。これらも、権力の恣意的行使を制限するという意味で、立憲主義的な要素を充分持っています。また、それらは、近代立憲主義(成文、不文を問わず、人民にふるわれる統治権の行使を憲法によって制限すること)が、ほかでもなく西洋において成立した重要な要因です。
上記の説明では、「公-私の分離」の側面を意図的に落としました。それより、権力制限論の側面のほうが、立憲主義については重要だと私は考えるからです。この面については、次回にします。
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なお、先の文庫は品切れ中。ただし、書中の「江戸人の発想法について」は、下記で手軽に読むことが出来る。
ちくま日本文学全集 (011)
石川 淳 (著)
筑摩書房 ; ISBN: 4480102116 ; 011 巻 (1991/07)
ついでに。上書中の、「八幡縁起」は、不思議な作品だった。弥生人(渡来系→大和朝廷)が列島先住民である縄文人(隼人?、山人?)を征服して、古代国家を成立させる過程を題材にしているようなのだが、未だに作者の意図がよくわからん。岩波文庫に収録されている「至福千年」も同様。ただし、面白くないわけではない。面白い。念のため。
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