中世

2017年5月29日 (月)

「朕の新儀は未来の先例」

 表題は、今から七百年前の帝王の言である(後醍醐天皇)。一瞬「未来を予言する最良の方法は、未来を作ってしまうことだ」をつい想起してしまう。

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2017年4月19日 (水)

尼将軍の檄

 時は承久三年(1221)五月十四日、京で逼塞させられ、虎視眈々と機会を窺っていた上皇、後鳥羽院は、ついに鎌倉への反攻の挙兵に出た。翌日には、北条義時追討の宣旨・院宣を発する。

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2008年1月17日 (木)

サルミ・テルマ・カクセイ(番外編)

 この朝鮮半島で行われた奴隷狩り戦争の際、大嶋忠泰の主(あるじ)、島津義弘が略取してきた朝鮮人陶工たちの宛がわれた地が、苗代川である。そこに明治大帝の御世、生を享けた少年、朴茂德。彼こそが、日米開戦時および敗戦時の外務大臣、東郷茂徳その人である。

 数奇な歴史のめぐり合わせと言うべきだろうか。

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2008年1月16日 (水)

サルミ・テルマ・カクセイ

「こんど、家来の角右衛門が日本へ帰るので、テルマとカクセイをお土産に届けさせた。無事に着いただろうか。そのうちコカクセイ一人は娘にやってほしい。私も戦場で十一歳の子どもを手に入れ(求め)て召し使っているが、ひどい病気もちで困っている。いずれ娘にもテルマを一人、手に入れ(求め)て贈ろう。また拾左衛門尉殿にも下女にでもできそうな子を一人、手に入れ(取り)て、次のお土産にしよう。ただ、いまは加徳カドクという島の暮らしで、食べるのがやっとだから、そのうち手の者をやって、手に入れたら(取り候わば)送りたい・・・。」
 藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り 』朝日選書(2005年)、pp.62-63

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2007年11月 7日 (水)

理非の判断権分有の原理

 この表題は、西洋法思想史になじみのある方なら、一瞬、「自然法」のことではないか、と思われるだろう。

 ところが、これは鎌倉時代の武士の法意識をあらわしたものなのだ。

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2007年8月18日 (土)

映画「アズールとアスマール Azur et Asmar」(2006年)

 素晴しいアニメーション。とにかく美しい。緻密な絵柄も美しいし、動きも滑らかかつ繊細。音楽もイスラム風とヨーロッパ風が混交して心地よい。

 この日本語吹き替え版がまたよい。特に、クラプー(香川照之)の、イスラム世界を毒づきながら、それでもなおこの地を愛してるダメ西欧人が秀逸。また、その天才ぶりを包み込む天真爛漫なシャムスサバ姫(岩崎響)が愛らしい。

Synopsis_05_2

 絵のタッチが、私の遠い記憶の中にある、東映動画「安寿と厨子王丸」(1961年)を思い起こさせる。いま、「安寿と厨子王丸」の製作会社の解説を読むと、全編動く大和絵だという。だとすると、このイスラムのミニチュアール(細密画)を意識しているであろうフランス映画と、その絵画性において同調していることも頷ける。

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2007年3月 5日 (月)

煮られトマス(3)、少し追記

通りすがり氏コメント再考

 足踏堂氏のコメントをきっかけに、通りすがり氏のコメントを再読してみた。氏のコメントを再度分析し、敷衍すると以下のようになるだろう。

1)トマスは死後、聖人に列せられることは確実だった。

2)したがって、その遺骸が聖遺物となることも確実だった。

3)聖遺物を保管する教会、聖堂には、ヨーロッパ中から多数の巡礼が来ることが見込まれた。

4)多数の巡礼があつまる教会、聖堂は結果的にではあれ、金銭的に潤った。

5)トマス終焉の場所である、フォッサヌォーヴァ修道院は、たまたまシトー会に属し、そのシトー会は既に前世紀の信仰的高揚も、教会内における勢力も失っており、ただひたすら、現世的利益のみを追い求める嘆かわしいメンタリティしか持ち合わせがなかった。

6)よって、フォッサヌォーヴァの修道士たちは、トマスが自分たちの修道院でなくなった天佑(?)をこれ幸いと利用して一儲けをたくらんだ。

7)しかし、無論、トマス自身が属していたドミニコ会から遺骸引渡しの要求、ないし実力行使による奪還が予想されるため、修道院内をあっちこっちと保管場所を移した挙句、引渡し妨害工作の止めとして、とうとう「聖」トマスの亡骸をシチューにして、鶏がらのようにしてしまった。

8)本来、キリスト教徒には、イエスを頭とする「一つの体」という理想があり、それゆえ先に天国へと登った聖人は現世の者たちの願いを神に「とりなし」してくれ、したがって現世のおいて奇跡を起こす、と信じられてた。それが、聖遺物崇拝の背景である。

9)すると、自らと一体であるはずの、そして尊敬すべき先人であるはずの「聖人」候補の遺体を、バラバラにし白骨化させるために煮る、という行為は、聖遺物崇拝の延長線上には考えることができず、となれば、現世的な、経済的利益を求めてのものとなる。

10)それを、宗教的、思想的行為とみなすのはどうかしている。信じられん。

 こうして改めて、考察すると、通りすがり氏の論に関して気づくことが二つある。

第一。ホイジンガの説明に対して一言も触れていない。この「煮られトマス」事件についての私の解釈は全面的にホイジンガに依拠しているわけで、私を(実質的に)アフォ呼ばわりするのは結構だが、それではホイジンガ説に対してどう反論するのか、ということは何らなされていないこと。

第二。聖遺物崇拝について、その背景を説明してくれたのは大変勉強になった。しかし、それは何故、聖遺物がキリスト教徒により崇拝されるようになるのか、の説明ではあっても、その説明が聖遺物という、「もの」が崇拝される、いわばキリスト教フェティシズムが、「骨まで愛して」レベルまでエスカレーションしないということを、全く論理的に保証しないこと。ないし、そのことにほとんど思い至っていない、ということ。

 第一は、おそらくホイジンガの「中世の秋」を何ら読んでいないため、コメントできないのだろうと予想できる。また、第二は、歴史を読むことが、時間的、空間的他者を解釈するという、知的に、繊細かつ robust な思考力を要求される行為であるにも関わらず、ご本人がそれに耐え得る知的体力を持ち合わせていないことを証しているように思われる。

 きついコメントをされたので、柄にもなくきついコメント返しとなった。ただ、誹謗中傷レベルに堕するまでに至らず節度は維持されていると思うので、引き続き有効な反論を戴けるのであれば、私としては本当に望外の喜びである。

 若干、追記。なぜ、通りすがり氏が、庶民の聖遺物フェティシズムと修道士たちの「トマス煮」を結び付けられないのか不思議だった。だが、こう考えれば疑問が解ける。つまり、庶民は無知蒙昧なのでフェティシズムに陥るが、修道士のようなスコラ学を学んだ知的エリートはそんなんことにはならず、トマスを煮ることの、現代から見ても納得のいく合理的理由があるはずであり、それは経済的利益だろう、というものだ。もし、この憶測が正しいのなら、この人物は、学知(scientia)の世界に己の価値観であるエリート主義を無自覚に持ち込む単細胞か、差別主義者であるに過ぎまい。

下記記事、およびコメント欄、参照。
1)煮られトマス
2)煮られトマス(2)、若干書き直しversion

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2007年3月 4日 (日)

煮られトマス(2)、若干書き直しversion

 2/28(水)に、我がblog記事 煮られトマス に対して、コメントして戴くという僥倖に恵まれた。

 初掲載から、既に1年以上経過して、初めて得たコメントである。この意義深い厚意に対し、単にレスすることだけで済ますことは残念に思うので、記事として、いささか私見を述べておこうと思う。

 前回の記事でも触れたように、トマス・アクィナスの遺体(の頭部)がシチューにされたことは事実と思われる。だから、争われるべきは、その意味となる。いかなる解釈が可能か。

 整理するとこうなる。

①稲垣氏(勢力争い説)
 トマスが息を引き取ったフォッサノーヴァのシトー会修道士たちは、トマス自身が属し、トマスがそこで永久の眠りにつきたいと願った、ライバル修道会でもあるドミニコ会修道士たちに、その遺体を奪われないため、小さくして隠せるように、トマスの頭部を煮て白骨化させた。恐るべき暴挙だ。

②通りすがり氏(経済的利益を巡る争い説)
 当時、各教会、修道会にとり、「聖遺物」には、実は多いに金銭的価値があった。つまり、そういった「聖遺物」には、巡礼者という顧客を各教会に導く大きな集客力があり、巡礼者が多く集まれば金銭がその地に落ち、あるいは経済的交易が盛んになり教会に経済的利益をもたらす、と。
 つまり、シトー会とドミニコ会の、トマスの遺体を巡る争いは、キリスト教会内部での修道会どうしの勢力争いであり、特に、経済的利益を巡る争いだった。

③ホイジンガ(信仰の物質主義化の、極端な一例)
「聖者のからだの遺物について、教会は、これの崇敬を認め、かつ、勧めさえもしていた」ので、この遺物崇敬の行き着くところ、トマスが煮られるという事態も出てきてしまった。

④中世史家渡辺昌美氏の「聖遺物」に関する解説(平凡社世界大百科事典1998、より)
 1)聖遺物崇拝=聖人の遺骸や遺品が奇跡生む力があると信じられていたこと
 2)有名な聖遺物を奉安する聖堂、修道院に巡礼が集まったこと。
 3)「聖マルティヌス(サン・マルタン)の臨終(397)には,トゥールとポアティエの住民が集い,遺骸の帰属をめぐって争った。」ように、既に4世紀から、聖遺物崇拝は、中世ヨーロッパにおいて定着していた。

 この渡辺氏の解説を読む限りでは、トマスの遺骸を巡るシトー会とドミニコ会のような争いが、その800年も前から繰り返されてきたことが分かる。そのことは、経済的利害が関わっていなくとも、一般民衆のように信仰心の問題から、奇跡を求め、聖遺物を争いあうものであることが見て取れる。

 キリスト教が古代ヘブライズムの宗教的伝統に忠実である限り、本来聖遺物崇拝のような被造物神化は決してありえない。なぜなら、ヤハウェのみが世界を創造したことを信じ、ヤハウェのみを信じる、ことがこの信仰のアルファでありオメガであるからだ。しかし、パレスチナ生まれのキリスト教は、ローマ帝国に入り、そしてまた、中世ヨーロッパで民衆に定着する過程で基本的変容を蒙った。先の渡辺氏も「民衆の信仰の本質は聖遺物崇拝であった、少なくともそれが決定的な活力を信仰に供給していたと考えられる。」と指摘している。

 中世ヨーロッパにおいて、各地の修道院は信仰の拠点であった。一方で、そこは知の研究センターであり、テクノロジーの開発センターでもあった。従って、宗教的権威、および知と冨がそこに集積されざるを得ない。その意味で、有力な修道会が宗教的、世俗的覇を競うのは必然のなりゆきで、トマスの亡骸(なきがら)をめぐり、シトー会とドミニコ会が争うのもその一幕とも言える。

 しかし、人間行為に単層的な意味理解のみが可能というのは、少々頑迷というべきであり、それは重層的な意味が担われることが常態だと考えるべきだろう。

 すると、亡きトマスの骸(むくろ)を巡る、シトー会とドミニコ会の争いを再考するに、修道士自身の表層的意識には、聖遺物の奇跡を求める信仰上の争いとして映じているのだとして、その底流に、経済的利害を巡る暗闘も抑圧され隠されていると一応考えられないこともない。だとしても、聖遺物獲得競争のエスカレーション上においては、遺骸のシチューも十分可能性はあり、そこまでやる行為を人間が自ら正当化するロジックは、信仰の物質主義化(=実質的な被造物神化)であった、と想定するほうが、解釈として無理がないのではないだろうか。金のために、修道士たちが頭蓋骨をシチューにするの図、などというのは、ちょっと私の貧困な想像力では思い及ばない。

 つまり、稲垣氏にしろ、通りすがり氏にしろ、シトー会修道士たちの行為に対して、マルクス張りのイデオロギー批判を敢行しているわけで、私としては、それを益なしとはしないが、まずは時代や場所における妥当な文脈の中において、第一次的な理解を試みることが歴史解釈としては優先されるアプローチだと考える。

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2006年11月13日 (月)

中世日本における、selfishとしての「自由」

吉田兼好、徒然草(1317年・文保1から1331年・元弘1の間に成立?)より

〔60段〕
この僧都、みめよく、力つよく、大食(たいしょく)にて、能書、學匠、辯説人にすぐれて、宗の法燈〔一宗の光明たる中心人物〕なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を輕く思ひたる曲者にて、よろづ自由にして、大かた人に隨ふといふ事なし。
(1) 1-60

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2005年11月18日 (金)

「地獄への道は善意で敷き詰められている」(2)

 前回の記事で、下記↓の

クレルヴォーのベルナルドゥス、の項
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

参照をお願いしておいた。それを読むと、ベルナルドゥスは、修道院に入るにあたり、自分だけでなく兄弟や親族、友人など三十人(!)を連れて、シトー修道院に入ったそうな。むむ、行きたきゃ、自分だけで行きゃぁいいのに、的な気もするが、それにしても、ベルナルドゥスのこの動きが、キリスト教西欧の歴史に影響を与えていくことになる。

 ことをなすのは、人間の頭数ではない。少数でも、本当に熱のある連中が一つのことにつきすすむことが歴史を動かすのだ、という、教訓を改めて感じた次第。

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