近現代

2008年4月 7日 (月)

事実の重みに耐える

 理性的ということのなかには、好悪を超えて、事実を尊重する態度が含まれる。さしずめ、下記の番組内容などが典型的なことがらと言えよう。日本テレビ、2008年4月6日(日)夜放送済み。

20080406_2 兵士たちが記録した 南京大虐殺
「彼が探り当てたのは、兵士が最前線で綴った「陣中日記」。そこには日本軍が中国人捕虜一万数千人から二万人を一挙に虐殺したことが記されていた。」

 


*下記も参照
「美しい国」を目指す日本の、「美しくない」記憶

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2007年11月 1日 (木)

Mよ、地下に眠るMよ、きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

 すでに、読ませる他所様のblog記事(下記↓参照)が幾つもあるのだから、今更、私が書かなくともよさそうなもんだが、やはり自blogにも記録として遺しておきたい。

 死者(特に戦死者)への鎮魂という行為がもしあるとすれば、一つのあり方だと思う。

********************************************************
死んだ男(鮎川信夫)

たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。

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2007年9月24日 (月)

イラク・シリア国境、2007年9月6日、木曜日、午前0時6分

Baghdad Burning

「・・・。

シリア国境もほとんど同じくらい混雑していたが、ずっとリラックスした雰囲気だった。人々は車の外に出てストレッチしていた。お互いに気づいて手を振ったり、悲惨な話や噂話を車の窓越しにやりとりしている人もいた。なにより重要なのは、私たちはみんな平等だということだった。スンニもシーアも、アラブ人もクルド人も・・・シリア国境要員の前では私たちはみな平等だった。

私たちはだれもが難民だった―金持ちも貧乏人も。難民はみな同じように見えた。どの顔にも独特の表情があった。悲しみの混ざった、不安を帯びた安堵の表情。どの顔もほとんど同じように見えた。

国境を越えてから数分の間、心は極限に達した。安堵と悲しみがいちどきにどっと押し寄せて私を圧倒した・・・たった数キロ、たぶん20分くらい離れただけで、こんなにもはっきりと生と死が分かれるとは。

だれひとり見ることも触れることもできない国境が、車両爆弾や民兵や殺し屋集団と・・・平和と安全の間に横たわっているなんて。今も信じるのがむずかしい。ここでこの文を書きながら、どうして爆発音が聞こえてこないのかしらとふと思ってしまう。

飛行機が頭上を通過する時に窓がガタガタいわないのが不思議だ。黒装束の武装集団が今にもドアを破って入ってきて私たちの命を奪うのではという思いからなんとか抜け出そうとしているところだ。道路封鎖や早期警戒機[レーダーを取り付けた軍用機]やムクタダの肖像画などなどがない街路に目を慣らそうとしている。

車でほんのちょっと行った先には 、こういったものすべてがあるというのに。

午前0時6分 リバー

(翻訳:いとうみよし) 」

*参照
バグダード、2007年4月26日、午後5時03分、木曜日

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2007年9月22日 (土)

忠 > 孝

 1点、白崎様よりコメントを戴いているので、それへのレスとしてご参考までに。

国体の本義(文部省編纂、昭和十二年五月三十一日発行)、「結語」より引用

 我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。家族的道徳を以て国家的道徳の基礎とし、忠臣は孝子の門より出づるともいつてゐるが、支那には易姓革命・禅譲放伐が行はれてゐるから、その忠孝は歴史的・具体的な永遠の国家の道徳とはなり得ない。

 明治constitutionの権力亡者どもも、よーく自覚していた、という傍証です。

 孝に対する忠の優越は、徳川初期から顕著であり、儒者の文書にも現れています。これは結局、関曠野の指摘するような「野蛮としてのイエ社会」、つまり、諸イエの力学的包摂関係として社会を構成してきた日本の、論理的必然だったのでしょう。

 魯迅が、中国人は砂だ、と嘆いたのも、究極の選択を迫られた中国人のファイナル・アンサーが、国家よりも家族、である故だと思われます。それは、よくある人間の感情として、自然なものではないか、と私も思うのです。己の親や子が逃亡中の殺人犯だとして、それをかばったり、かくまったりするのはむしろ当然だと。子どもが病気なのに、忙しくて会社を休めないとか、気がねなく早引きできない、ということを、どこかおかしいと思えない社会は、狂っています。

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2007年5月27日 (日)

バグダード、2007年4月26日、午後5時03分、木曜日

Baghdad Burning

「もちろん、その壁は誰をも保護などしない。 私は時々、ヨーロッパで強制収容所が始まる時もこんなだったのではないかと思う。ナチ政府はおそらくこう言っただろう「いいかい、私たちはこの小さな壁でユダヤ人たちを保護しようとしているだけなんだよ。これで、誰もこの特別地域に入って彼らに危害を加えることはできなくなるだろう!」と。 しかし、それはまた、そこから出られなくなるということでもある。」

「壁が崩壊する前のベルリンや現在のパレスチナのように、今こそアメリカにとっては、物理的に分割して征服する時になった。このようにして、彼らは、「シーア派地区」からスンニ派を、「スンニ派地区」からシーア派を追い出し続けることができるというわけだ。 」

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2007年5月15日 (火)

「従軍慰安婦問題」関連資料のリンク集

 この問題で、ネットからアクセスできる政府発表、公文書、一次資料、他参考サイト等を以下にまとめてみた。

1)政府発表

朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表
(平成4年7月6日)

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
(平成5年8月4日)

「いわゆる従軍慰安婦問題について」内閣官房内閣外政審議室
(平成5年8月4日)

2)デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金 慰安婦関連歴史資料 

3)他

慰安婦・慰安所に関してオンラインで閲覧できる一次史料(追記あり)(Apes! Not Monkeys! はてな別館)

従軍慰安婦問題──何が問題なのか(モジモジ君の日記。みたいな。)

従軍慰安婦に向けての強制連行(激高老人のぶろぐ)

いわゆる「従軍慰安婦」問題について(タカマサのきまぐれ時評)

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2007年5月 8日 (火)

「明治維新」の帰結(2007.05.11追記)

「・・・、カトリック者は日曜日の労働を戒律で禁じられているので、ルロイ修道士が代表となって監督官に、「日曜日は休ませてほしい。その埋め合わせは、ほかの曜日にきっとする。」と申し入れた。すると監督官は、「大日本帝国の七曜表は月月火水木金金。この国には土曜も日曜もありゃせんのだ。」としかりつけ、見せしめに、ルロイ修道士の左の人さし指を木づちで思い切りたたきつぶしたのだ。」
 井上ひさし「握手」より

 P.M.アベが(たぶん)思い浮かべるたびに感涙に咽んでいるであろう明治の御世。その80年間の帰結がこれだ。そして、「美しい国」を目指す日本の、「美しくない」記憶、も。

 大日本帝国のパワーエリートたちはいまだ、大日本帝国「臣民」に敗戦の責任をなんらとっていない。「なぜ負けたのか」の説明責任もないし、国防に責任を持っているにもかかわらず、非戦闘員がうけた甚大なる被害に、なんら賠償もしていない。

「ニュルンベルグ裁判でナチの指導者が外国勢力に責任をとらされるのは、かれらがドイツ国民に責任を負うこととは別のことなのである。」
アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』御茶の水書房(1980)、p.281

 こんなふざけたことがまかり通っているマジックの元凶には、「明治維新神話」がある。いったい、日本の人文系の学者は、この半世紀なにをしていたのだろうか。

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2006年12月16日 (土)

天皇の菩提寺(2)

 この天皇家の菩提寺、泉涌寺(せんにゅうじ)には、霊明殿という建物がある。そこには、なんと、天智天皇の位牌があるという。これには、くりびつ・てんぎょう!(ガラパゴスさんとこのネタを拝借しました。^-^v)

 これはありえなーい。

 なぜなら、「位牌」という道具は、鎌倉期に禅僧が日本に持ち込んだ儒教アイテムだからだ*。その頃、入宋したものの中に、泉涌寺中興の祖、俊巣(しゆんじよう)もいる。

 儒教では、中国の後漢時代からその葬礼に用いられる神主(しんしゅ。死者の官位・姓名を書く霊牌。)というものがあった。それが、入宋した禅僧によって、先進国の先進思想の、最先端アイテムとして日本に持ち込まれ、たまたま、日本伝来の先祖供養儀礼における霊の依代(よりしろ)として、選択的親和性(M.ウェーバー)を示したのが、位牌である。もともと死者の官位を書くので、「位」牌と呼ばれるわけだ。つまり、仏教とは別起源。従って、↓のように、日本のピューリタニズム=浄土真宗は位牌を門徒に使わせず、過去帳を使わせる。

Q:なぜ、お寺では、「位牌」ではなく、「過去帳」をすすめられるのですか?

 天智は671年に死んでいる。少なくともその時、位牌などはない。また、泉涌寺が禁裏の菩提寺になった経緯をみると、

 俊巣滅後の1242年(仁治3)に没した四条天皇は,生前から俊巣の生れ変りと世に伝えられ,大葬も泉涌寺で執行され,遺骸は,表面に不可棄法師と刻された俊巣の石造卵塔墓のかたわらに葬られた。この由縁を契機に,こののち幕末まで多くの天皇・女院の陵墓が,泉涌寺の後にある俊巣と四条天皇の妓所に接して営まれた。いわゆる天皇家の月輪(つきのわ)陵である。
平凡社世界大百科事典「泉涌寺」の項、藤井学 筆

とのことであるから、俊巣が天智の「位牌」を作ったとは考えにくい。おそらく、明治政府がでっち上げたものと思われる。無論、確証はないが。

 無理が通れば道理が引っ込む、嘘が通れば、真(まこと)が姿を隠す、よい例だろう。

*加地伸行『儒教とは何か』中公新書(1990年) で指摘されて、近頃では常識に属するか。
 この書を読むにあたっては、amazonレビュー中の、「あべまりあ」氏のものを読まれておくことは役に立つかも知れない。本書で展開されている仏教・キリスト教との比較宗教論には、私が以前に長いレビューを書いた「天下の愚書」との親近性を感じるのだ。

〔参照〕
天皇家の菩提寺

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2006年12月14日 (木)

天皇家の菩提寺

 京都市東山区に、泉涌寺(せんにゅうじ)がある。この寺、つい140年前、幕末の孝明天皇*まで、れっきとした禁裏様のお家の菩提寺だった。

 ん?、偉大なる神の国、日本国の、国家の柱石たる神道の親玉であるはずの禁裏様のお家に、なんで、菩提寺があるのか。いやいや、もともと禁裏様のお家が深く仏教に帰依していたことが先なんであって、なんかわけの分からない神主さんにでっち上げられたのが、その140年前の明治クーデタの歴史演出なわけだ。

 だいたい、最後に葬られた孝明天皇(1866年急死、明治クーデタのほぼ1年前)は、当時から毒殺説が巷間ささやかれていた。で、その主治医の日記から、「孝明天皇の毒殺は、すでに医学的に決着済みの事実である。」とまで言われている。そこでの下手人の推定は、岩倉具視の実妹、女官堀可紀子。ちなみに、手許にある『岩波日本史辞典』(1999年)では、病死、毒殺両論併記。また、『平凡社世界大百科事典』(1998年)では、毒殺説を支持している。これが史実として確定できるなら、《大日本帝国=明治constitution》は史上最高の、‘con game’(=お人よしにつけこむ信用[取り込み]詐欺)というべきだろう。日本人よ、「目をォ、覚ませェ」。**

 泉涌寺に関して、さらに詳しく知りたい方は以下のサイトに行かれたい。

1)泉涌寺

2)泉涌寺 御寺 京都通百科事典

3)御寺泉涌寺

*この忌まわしい「天皇」なる呼称も、明治の権力亡者どものからくり=捏造の一環である。これについては、禁裏様と呼べ!、をご参照戴きたい。

**どうしても、明治クーデタを「革命」と呼びたいなら、同意できるかもしれない事が1点だけある。それが、ピューリタン革命や、フランス革命と同じ、「王殺し」だ。謀殺なので、余計気が滅入るが。

〔参照〕
天皇の菩提寺(2)

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2006年11月29日 (水)

明治の立身出世主義の起源について

 この問題について、一つの見通しをつけるのに良い本がある。

竹内洋『立身出世主義(増補版)―近代日本のロマンと欲望―』世界思想社(2005年)

 

 ただ、この本は、「受験競争を巡る近代日本社会史」的なもので、「日本における立身出世の観念史」という出来上がりにはなっていない。

 「立身出世」なる言葉の概念史的分析は手薄で、どこの解説にもあるように、江戸期からのものだが、「立身」、「出世」と、ばらばらで使われることのほうが多く、前者は武士御用達で儒学から、後者は町人用で仏教から、という程度。

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2006年10月31日 (火)

「美しい国」を目指す日本の、「美しくない」記憶

 文芸の世界に遊びたいと思ったとき、ふらっと伺うブログに「かわうそ亭」さんがある。だが、折に触れて、おそらく温厚な紳士(?)であろう御亭主を怒らせることがこの世にはあるのだ。

ビルマに響くニッポン軍歌
「本書ではこのような軍による民間人の徴発を「ポーター狩り」と人々は呼んで恐れていることが書かれている。男の子には地雷原を歩かせ、女の子は従軍慰安婦にする、と聞いて、もちろんわれわれは顔をしかめるわけだが、これはこの地域を支配下においた日本軍がやっていたことを真似ているだけだと言われると、心が重くなる。まったく参謀本部の低能どもはバカな作戦立案で百年国を汚しやがった。」

 「己(おのれ)」が「己」であるのは、「己」についての記憶による。だから、記憶喪失は自己喪失として本人に現れる。国家が国家と自覚されるためには、その国家の記憶、すわなち歴史といかに自覚的に向き合うかによるのだ。

 アベ氏が靖国神社を熱心に通うところから見ると、現在の日本は美しくないが、かつての日本は美しかった、と思っているのだろう。しかし、美醜善悪を含めて、「己」に関するすべての記憶を直視しないものは、結局、自己喪失に至るだけだろう。自己を失った国民が国家を愛せるわけがない。

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2006年9月25日 (月)

我々の人口は世界の 6.3%に過ぎないが、世界の富の約半分を所有している ( ジョージ・ケナン George Kennan )

 以下、過去の記事だが、標題やらカテゴリー付けについての私のミスで、ほとんどアクセスされた形跡がない。ジョージ・ケナンが執筆した文書として一読の現代史的価値はあるし、現在、この文書を発見したリンク先サイトも削除されてアクセスできない状況なので、ここで再度掲載するものである。

Document PPS23, 24th February 1948
Written by George Kennan
Former Head of the US State Department Policy Planning Staff

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2006年5月29日 (月)

立憲主義(constitutionalism)をめぐって

 立憲主義(constitutionalism)について、少し考えてみたい。

■立憲主義とは?

 まず、手許にある資料から。

樋口陽一
 「政治権力の恣意的支配に対抗し,権力を制限しようとする原理」
       平凡社世界大百科事典1998より、「立憲主義」の項

長谷部恭男
 「立憲主義ということばには、広狭二通りの意味がある。本書で「立憲主義」ということばが使われるときに言及されているのは、このうちの狭い意味の立憲主義である。広義の立憲主義とは、政治権力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組みを一般的に指す。「人の支配」ではなく「法の支配」という考え方は広義の立憲主義に含まれる。古代ギリシャや中世ヨーロッパにも立憲主義があったといわれる際に言及されるのも広義の立憲主義である。
 他方、狭義では、立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みを指す。この意味の立憲主義は近代立憲主義ともいわれ、私的・社会的領域と公的・政治的領域との区分を前提として、個人の自由と公共的な政治の審議と決定とを両立させようとする考え方と密接に結びつく。二つの領域の区分は、古代や中世のヨーロッパでは知られていなかったものである。
 近代以降の立憲主義とそれ以前の立憲主義との間には大きな断絶がある。近代立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観・世界観を抱く人々の公平な共存をはかることを目的とする。それ以前の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提としていない。むしろ、人として正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっているという前提をとっていた。正しい価値観・世界観が決まっている以上、公と私を区別する必要もなければ、信仰の自由や思想の自由を認める必要もない。
 さらに、近代国家は、各人にその属する身分や団体ごとに異なった特権と義務を割り当てていた封建的な身分制秩序を破壊し、政治権力を主権者に集中するとともに、その対極に平等な個人を析出することで誕生した。人々の社会生活を規律する法を定立し、変更する排他的な権限が主権者の手に握られた以上、社会内部の伝統的な慣習法に依存する中世立憲主義はもはや国家権力を制約する役割を果たしえない。近代国家成立後になお意味を持つ立憲主義は、その意味でも、国家権力を外側から制約する狭義の立憲主義、つまり近代立憲主義に限られる。」
 『憲法とは何か』岩波新書2006、p.68-70

C.H.マクヮルワイン(C.H.McIlwain)
 「私は、この初期の、余り自覚的でない段階をもっと詳細に論じなければならない。しかしそうする前に、歴史的論究を通じて明らかにされる所ではあるが、全ての段階を通じて、立憲主義が一つの本質的性格を有していることを、換言すれば、立憲主義とは統治権に対する法的制限であり、恣意的支配のアンチテーゼであり、又専制政治、即ち法による統治ではなく意志による支配が、正に立憲政治とは反対概念であることを、前もって指摘して置いてもよいであろう。近代に於いては、国家の政策の自由裁量事項に於ける人民の代表の発議権の確立によって、これに政治的責任ということが加わった。しかしこれは比較的最近のことであるに過ぎない。しかし、立憲主義の最古の、又最も恒久的な特質は、法による統治権の制限であり、このことは、初めから現在まで変わることがない。「憲法的諸制約」は、我々の立憲主義の最も重要な要素ではないとしても、最古の要素である。」
 『立憲主義 その成立過程』森岡敬一郎訳、慶應通信1966、p.29-30
    (C.H.McIlwain, Constitutionalism, Ancient and Modern, Cornell UP, 1947)

関曠野
 「ユダヤ教に少々深入りしてしまったが、最後に近代の立憲議会制国家の論理にはカルヴィニズムを介したユダヤ教の影響なしには考えられない要素があることを指摘しておきたい。例えば、国家権力は支配者によって恣意的に行使されてはならず、市民社会によって正当と承認された法に即してのみ行使されるべき、とする立憲主義の原理である。立憲主義の起源は、王に対しあくまで神の僕としてモーセの法に服従することを要求した古代イスラエルの予言者にある。欧米の政治学者や歴史家でさえこの立憲主義の起源を古代のギリシャやローマ共和制に求めている例が多いのだが、共同体の存続と繁栄を至上の価値としたギリシャやローマには、個人の自由という観点から国家権力の統治範囲を明示的に制限するという思想はなかった。そして近代的な議会の論理も、予言者の伝統に関係がある。身分制等族会議の遺制である中世ヨーロッパの議会は、貴族層の特権を代弁する制度に過ぎず、それは戦争や課税についての王の決定を妨害することはあっても、自由な討論による真実の追求に従事することはなかった。その一方で神と盟約したイスラエル国家においては、いかなる人間でも偶然に神に選ばれ予言者という-往々にして苦悩にみちた-神の正義の代弁者となることができた。予言者は孤独だったが、権力者は彼らを迫害し口を封じることができなかった。」
 『歴史の学び方について』窓社1997、p.102-103

 引用が長くなり過ぎた。そろそろ、次週へ先送りすることにする。ただ、やはり、以下のことは言うべきだろう。立憲主義の核心には、現にこの世に在し、また、人間にとって必要でもある《権力》なるものは、その行使が人々によって正当と認められた《法》によって律せらたものでなければならない、という《法の支配》がある、ということ、これである。次週は、これらと、バーリンの《自由》の概念を結びつけることを試みる(予定)。

※下記も参照を乞う。

立憲主義と宗教改革(1)

立憲主義と宗教改革(2)

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2006年4月 4日 (火)

おまえの事は、おまえ以上に私が知っている

 かつて存在した、マルクス主義国家への批判として下記の書がある。

F.フェヘール
欲求に対する独裁―「現存社会主義」の原理的批判    岩波現代選書 (101)
岩波書店 ; ISBN: 4000047701 ; (1984/11)

 現代日本では、己の身体でさえも、知らないうちに他者にいじくられることが平気でまかり通っている。↓

金沢地裁が無断臨床試験に賠償命令
新薬以外の臨床試験にも説明義務がある
金沢大学医学部附属病院産科婦人科 打出喜義さんに聞く

論座 2006年4月(朝日新聞)

 マスコミも、金が回っているのかどうか、異国での以下のような出来事に耳をふさいでいるようだ。

日本では報道されない英国ニュース1

英国治験事件・その後

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2006年4月 2日 (日)

フランスにおける「権利のための闘争」*(追記4/2)

 フランスでの若者たちの大規模デモについてはあまり日本で積極的に報道されていない。

 そこで、現地の、リアルタイムの様子を知りたい向きには、下記のblogは極めて有用なので、一度、閲覧をされることをお奨めする。

ね式(世界の読み方)ブログ

 日本メディアの報道の新しいものは、下記。

<フランス>「CPEは合憲」憲法評議会が判断

*標題は、Rudolf von Jhering, Der Kampf ums Recht(権利のための闘争)1872、より。
また、イギリスでの報道の様子は、下記参照。

Chirac to sign France's job law

**追記(4/2)
米国滞在中のフランス人研究者が、フランスの若者たちの行動に対する、米国内での反応、理解に、憤懣やるかたなし、という興味深い記事を書いています。MLでご教示戴きました。公論に資するべく、追記致します。
French Protests: An Idealistic Fantasy or More?
by Frederic Mousseau

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2006年3月27日 (月)

19世紀後半の児童文学

 19世紀後半の西洋児童文学の、私にとってめぼしいとこだけを年譜化*してみた。単に雑然と時系列に並べただけなので、その解釈は後ほど。アイデアがあれば、コメントよろしく。

L. キャロル《不思議の国のアリス(アリス物語)》(1865)

L. M.オルコット《リトル・ウィメン(若草物語)》(1868)

ウィーダ Ouida 《フランダースの犬》(1872)

マーク・トウェーン《トム・ソーヤーの冒険》(1876)

H. H. マロ《家なき子》(1878)

J. シュピーリ《ハイジ(アルプスの少女)》(1881)

R. L. スティーブンソン《宝島》(1883)

コローディ《ピノキオの冒険 Le avventure di Pinocchio》(1883)

マーク・トウェーン《ハックルベリー・フィンの冒険》(1884)

デ・アミーチス《クオーレ Cuore》(1886)

J. ベルヌ《二年間の休暇(十五少年漂流記)》(1888)

*平凡社世界大百科事典「児童文学」の項、参照。

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2006年3月24日 (金)

アンデルセン生誕200年

 昨年は、アンデルセン生誕200年だった。 小学校の頃、『人魚姫』を読み、その残酷な結末に何度も涙した。今でも生々しい記憶だ。

 19世紀は、《近代》における様々な装置が、はっきりと姿を現した世紀だろう。学校(義務教育)、国民軍(徴兵制)、工場。実は、現今の《こども》像は、このときに作られたものだ、と言うことは、充分考えられることだ。イタリアの国家統一と同時に登場したのが、『ピノキオの冒険 Le avventure di Pinocchio』(1883)と、「母をたずねて三千里」を含む、『クオーレ Cuore』(1886)であったことは象徴的だ。

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2006年3月21日 (火)

大虐殺(1960年、小森白監督、天地茂主演)

 標題の映画は、1923年9月1日の関東大震災の直後におこった朝鮮人虐殺事件を描いたもの。で、私もまだ未見。もし、既にご覧の方は、ご感想などコメントして戴けると助かります。下記の 「all cinema」記事も参照。

大虐殺(1960年、小森白監督、天地茂主演)

 この事件の被害者数だが、平凡社世界大百科事典(「朝鮮人虐殺事件」今井清一執筆)によれば、

「朝鮮罹災同胞慰問班が10月末日までに調査し,これにもとづいて吉野作造がまとめたものでは2613人を数える。これにその後の調査をつけ加えたものは6433人に達している。」
という。うーん、実質的に一週間の出来事だから(なぜなら、9月7日あたりから、警察・軍は押さえにかかったから)、これは相当なものだ。

 虐殺ということでは、映画「ホテル・ルワンダ」での虐殺事件も記憶に新しい。映画は未見だが、NHKのドキュメンタリーは見ているので概要は承知している。

 どちらも、マス・メディア(朝鮮人虐殺は新聞、ルワンダはラジオ)がらみなのは共通か。

 朝鮮人虐殺事件については、民衆が加担している事もあって、日本人自身による検証が進んでいない気もする。ただし、この事件を、衆議院で政府の責任を追及し,最も人道上悲しむべき大事件として、その真相を明らかにして謝罪することを主張した政治家もいた。

田淵豊吉 ( 「いちず」WWW版 和歌山

 ルワンダについては、独立間もない、良き一時期を活写した、名著がある。

服部正也 『ルワンダ中央銀行総裁日記』 中公新書(No.290)、1972年

この本の後、何があって、あの大虐殺を生み出したのか。

 日本近代史上、国内最初の虐殺は、戊辰戦争における、官軍による会津城下でのものだろう。これは、朝鮮人虐殺事件関連のみすず書房の資料集などに眼を通せたら、あわせて再論したい。

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2006年3月 3日 (金)

シャツの第二ボタン

「えーっと、なんだな、女房ってぇのは、シャツの第二ボタンみたいなもんだな。」

「そりゃぁ、どうしてだい。」

「あっても無くても、同じ。」

 この、志ん生の小話なら、フェミコードには抵触しない?、だろう。

 私のは、《米国にとって、シャツの第一ボタンは China であって、Japan ではない》っていう小話。

「『脱亜論』の根底にあったのが、『文明化』していないにもかかわらず、依然として『大国』であるがゆえに、西洋においても、場合によっては日本以上に配慮が加えられる清国という存在であったとすれば、こうした状況は、実は形を変えながらも今日の欧米と中国、日本の三者の関係に置き換えて考えることができるであろう。天安門事件によって、現在、一時的に冷却期に入っているとはいえ、もともと欧米には中国への過大評価という傾向がある。今日の日本は明治期とは異なり、経済的には自他ともに認める『大国』であり、欧米における中国と日本との比較のイメージが日本人に意識される度合いは低いようである。しかしながら、例えば、アメリカが、ことパワーポリティクスのレベルにおいては中国に少なからぬ重点を置いて常時行動はしていることは、日本の頭ごなしになされたかつてのキッシンジャー外交による米中関係改善にも明らかである。」
坂本多加雄 『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房(1994年)*、p.58

 ここには、今の国権派が認めたくないであろう事実でもしっかりとらえ、理由を明らかにしようという明晰な知性がある。それにしても《大国》へのこだわ振りは少々奇異だ。この坂本氏にして対外コンプレックスを引きずっているのか。

*この本は近代日本政治思想史のものとしても、いわゆる保守系論客のものとしても優れている。そして面白い。良きインテリジェンスと対話する楽しみを与えてくれる。某数学者とはエラい違いだ。論者は《作る会》にも積極的に関わっていただけに、その早すぎる死は、保守派、国権派にとってだけでなく、市民派にとっても極めて痛い。なぜなら、公論が磨かれるためには、異なる立場の優れた討論者を必要とするからである。再論の予定。

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2006年2月 4日 (土)

言葉のない遺言*

 無言館、 それをあなたはご存知だろうか。

 大東亜戦争で没した画学生たちの遺作を収蔵している美術館のことである。

 その展覧会が全国巡回中で、明日(2/5)の尾道市立美術館で終了となる。もし、近くに住まわれているなら是非一度はご覧になるべきだと信じる。私はと言えば、NHKの番組で涙を流しただけだ。機会をつくり、信州上田の本館へ伺いたいと思っている。下記サイトもご覧戴きたい。

1)無言館のこと

2)ARCHITECTURAL MAP 無言館

3)無言館(戦没画学生慰霊美術館)

*アンデルセン童話の「絵のない絵本」を真似てみました。アンデルセンも昨年生誕200年。別に記事を書くつもり。毎晩、できるだけ0:15に掲載することにしていますが、この記事は急ぐ必要もあり、今(12:50)掲載します。そのため、今晩の記事更新の代わりとさせて下さい。悪しからず。明晩、藤原正彦『国家の品格』2005年の、ちゃんとした書評を掲載します。乞うご期待。

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他山の石

 文部科学省の《小学校で英語》というのはどうも支離滅裂、イミフメーだ。↓

平成18年度 小学校英語活動地域サポート事業の募集について

 「他山の石」「世間ずれ」も、意味を逆転させて使う世代が増えているのを見て、日本人の日本語能力に危機感を覚えないのだろうか。↓

平成16年度「国語に関する世論調査」の結果について

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2006年1月22日 (日)

徳川家康は《幕府》を開いていない

 渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会1997年
より。

p.3
 現在のように、「幕府」という語が一般化したきっかけは、明らかに、後期水戸学にある。・・・。とりわけ、〔藤田:引用者注〕東湖の『弘道館記述義』(弘化四・1847年、再稿完成)が、江戸時代末期に、「尊皇攘夷」の語とともに「幕府」という名称が流行語となる直接の原因になったと思われる。
 では、何故、後期水戸学者はこの語を用いたのだろうか。「正名論」の示すように、徳川政権があくまで京都から任命された「将軍」の政府であることを強調するためである。そして、正統性根拠を(一般に「皇国」の自己意識が強まる中で)明確化し、体制を再強化するためである。「幕府」とはそれを意図した、正に為にする政治用語だった。

p.4
 ・・・。そして、明治以降、学校教育の助けを得て「幕府」の語は完全に定着した。無論、それは、天皇が「日本」の歴史を通じて唯一の正統な主権者であり、徳川氏も、せいぜい天皇から「大政」を「委任」されて統治者たりえていたのだという(江戸時代の始めには無かった)歴史像と結合していた。
 このような意味で、「幕府」とは、皇国史観の一象徴にほかならない。

p.5
 では、何と呼べばよいのだろうか。「徳川政権」等も考えられる。しかし、当時最も普通の呼称を使うのが、自然であろう。それは、「公儀」である。・・・。
 江戸時代に現実に中央の政府として機能を果たしていた組織は、原則として「公儀」と呼ぶのが、少なくとも「幕府」よりは、適当であろう。

*下記も参照を請う

禁裏様と呼べ!

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2006年1月17日 (火)

明治天皇の戦争責任

 標題をもう少し詳しく言い直せば、「明治天皇の戦争に対する責任」である。それはまた、明治憲法下にあった大正天皇、1947年5月2日までの昭和天皇も同様だ。

 以下、軍を、明治憲法体制の一環として位置づけた、類希な研究書から引用しよう。

三浦裕史『軍制講義案』信山社1996年 p.36

続きを読む "明治天皇の戦争責任"

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2006年1月11日 (水)

「夜明け前」の星竹 (幕末明治50年間の日記が語るもの)

 以下は、東京、あきる野市のHPで掲載されていた、極めて興味深い記事です。既にHPがリニューアルされており、現在、読めなくなってしまいました。まことに惜しいので、私が保存していたファイルから、再び世に出すことにしました。当然、著作権の問題があります。もし、著者の方がご覧になり、削除を要請されるようなら致します。ただ、このまま埋もれさせるにはとても残念な、資料的価値の高い報告ですので、多くの方の目に触れる可能性のあるネット上で、掲示させて戴ける事を願います。


「夜明け前」の星竹 (日記が語る昔の暮らし)
元東京都網代母子寮適跡調査会調査員 宇佐美哲也

はじめに
 あきる野市戸倉に星竹という小さい集落がある。秋川はこのあたりから渓流が川幅を拡げ、ゆったりと蛇行し始める。岸辺には川原が広がり、ここは材木を筏に組む絶好の場所〔土場(どば)〕となった。星竹の集落は秋川の北岸で、背後には金比羅尾根の裾がせまって崖状をなしている。蛇行する川と崖の間に、三角形のおむすび状の平坦地ができ、そこに20戸余りの人家が集中し、猫の額ほどの畑や田を耕やしている。これが星竹で、こう書くと、いかにも貧しい集落を連想させるが、この星竹には戸倉でも有数の資産家が多い。なぜだろうか?答はやさしい、林業である。
 戸倉星竹の黒山儀一郎氏の曽祖父にあたる儀三郎は、当地方きっての林業家黒山家の基礎を築いた人物であり、厖大(ぼうだい)な日記を残された。五日市郷土舘が保管中の日記帳は13冊、安政6年(1859年)から明治41年(1908年)まで正味50年にわたる。
 黒山儀三郎は天保4年(1833年)9月15日に生まれ、明治45年(1912年)5月8日天寿を全うされた。満79歳8か月である。日記は、彼の26才の時に書き始め、亡くなる4年前まで書きつがれた。
 日記の内容は、日々の天候から農作業、林業関係の作業や人の出入、金銭の授受、家族や近隣の動静など、1日が見事な細字で3行に要約されている。一見面白味が少ないようであるが読みすすめていくうち、登場する人物の人間関係がわかってくる。身近な肉親から、出入する杣(そま)・筏(いかだ)乗りの行動まで謎解きのように解けてくる。そうして、儀三郎を中心に勤勉な勤労生活と緊密な近隣との連帯生活がドラマのように見えてくる。

1.落の構造
 上の集落図は、現在の道路図をもとにしているが、家家の位置関係は全く変らない。家は屋号で呼ばれる。この屋号は越後屋とか三河屋という商店の屋号と違って、集落内の序列や位置関係を示す呼び名である。まず原則をいうと、その集落の草分け(開創)の家を「お前(まえ)」と呼び、家格は一番上位である。その東隣りを「東」、西隣りを「西」と呼び、この東西がつく家はお前に次ぐ家格の家とされる。あとは地形や宮(森)・寺・堂との位置関係で呼ばれ、特に上下の関係はない。「上(うえ)坂」「下(した)坂」「堂の前」「森越」「森下」「寺向(むこう)」などがそれである。また、どこの集落にも食料雑貨を商う家がある。「見世(みせ)=店と呼ばれる。酒も売るので儀三郎はよく杣や筏乗りをつれて立寄り、元締(もとじめ)たちとの商談にも利用している。
 分家が「新家(しんやにや)」。隠居分家した家を「隠居(いんきょ)」と呼ぶ。これは全国共通のようである。
 集落の中央、いってみればおむすびの中心の梅干に当るのが「森」と呼ばれる神明社で、星竹の氏神様、毎年2月21日春祭りを行う。この森に儀三郎は父親忠蔵の名で庚申塔を献じた。また、森の空き地を商売用の杉皮干しによく使っている。寺は戸倉光厳寺の末寺、臨済宗建長寺派の普光寺で、儀三郎が世話人総代である。この寺は光厳寺の隠居寺らしく、住職は長老様と呼ばれているが、儀三郎をはじめ星竹の住民はみな筆子(読み書きの弟子)らしい。儀三郎と弟兵次郎は、暇をみては寺の薪こしらえにいっている。また、儀三郎は寺の桐堂金を管理し「寺金の利寄せいたす」と日記に定期的に書いている。星竹の北、集落を見渡す位置に「堂」がある。本尊は愛宕地蔵尊で火防せの神である。本来は「お前」の鬼門除けに建てられたものが、集落住民のお堂に変ったといわれている。

2.元締儀三郎
 集落図の南、川に面して「西」とあるのが儀三郎家で、右隣り屋号「西向」は分家の文蔵殿(日記の登場人物に儀三郎はほとんど「殿」をつける)、左隣り「田畑」は当主を周蔵殿といい筏乗りの親方で、この3軒は黒山姓の同族である。文蔵は儀三郎が元締として活躍するときの共同経営者に近い存在で、物堅く几帳面 (きちょうめん)な性格。一方周蔵は、漂々(ひょうひょう)とした好人物の風貌を日記に印している。
 儀三郎の元締業というのは伐期のきた山を買いとり、伐採し、筏に組み、六郷(大田区)まで運ぶ。一方江戸深川の材木問屋に交渉し、売買の約定(やくじょう)をかわす。商人としての才覚と、山林労務者の先頭に立って重労働をこなす両面性をもたなくてはならない.多くの職種〔杣(そま)・木挽(こびき)・筏 (いかだ)乗り〕を束ねるので元締と呼ばれる。これは才覚と同時に人間としての幅、厚みを必要としよう。日記に筏乗りの久二郎が結婚話をこじらせた時、嫁の集落に乗り込み、金と誠意を尽して話をまとめた一件が書かれているが、元結儀三郎の面目躍如(めんもくよくじょ)である。儀三郎家の日の前が田尻の土場 (どば)で、この土場の占有権を儀三郎が握っていることが大きな強みであった。秋川上流域の元締たちは筏の組立と輸送を、土場と筏乗りを握っている儀三郎に委ねるか、その協力を仰がねばならなかった。
 文久2年正月、儀三郎は自分も筏に乗っている。風と雪に悩まされながら、3往復している。これは専業の筏乗りでも尻込みする重労働である。府中、六郷の宿で乗子たちを「連れて遊ぶ」と書いているが、元締儀三郎の強味は常に身を挺して働くことで、褞袍(どてら)を着込み懐手(ふところて)をしている旦那衆の対極にいる人物であった。
 日記によれば星竹集落には、儀三郎の他元締が2人、「堂の前」の八百蔵、荻野の安五郎がいる。また、山持ちとして「寺向」の銀蔵、「森越」の周八が出てくる。山持ちは山の植林、育成、管理を本業とする。伐期が来た山は上木(うわき)を元締に売ってまた植林する。1、2年おきに伐採できる山をもつようになれば大山持であろう。
 以上が集落の富裕層だが、その他の住民の中にも手山(自分の山)の1つ2つは持っている者が多く、冒頭に星竹は貧村ではないといった理由である。

3.集落の暮らし
 安政6年(1859年)の日記の冒頭は儀三郎家の屋根替えの記事である。屋根職人を頼んでいるにも拘らず、手伝いが1日1人ずつ3軒からきている。先ず、東隣りより藤次郎(文蔵弟)、次の日は西隣りの周蔵、最後にこれも隣家の「お前」の若主人小重郎である。これは当然くるべき人達であった。ということは儀三郎家でも、この3軒に家普請(いえふしん)、冠婚葬祭その他事あれば出向く義務を負う間柄なのである。かつて、お前のおゑい(小重郎の母)が倒れたとき、儀三郎の弟兵次郎は今熊山へお百度詣をした。次に兵次郎が大病を患うと、小重郎が同じ今熊山詣をしている。こうした配慮が当時の集落生活の基礎であり、この土台のうえに星竹20余戸は数珠玉のように結ばれている。
 毎年11月1日は星竹の橋掛け日で、集落総出で秋川に木橋をかける。この時は、対岸の坂下・西戸倉からも人が出る。橋は現在の星竹橋より30メートル程上流に架ける。
「田畑」の西脇を通る旧道が川へ出た川原に大きな岩があり、よく見ると柱穴らしきものが2ケ所あいている。
これが橋の台石で、対岸にもやや小ぶりの石がある。毎年11月1日に橋をかけ、翌年4月1日に撤去する。夏秋は徒歩波りというのは星竹に限らず、秋川を挟む村々の慣行であるが、星竹に限っていえば9月に板橋をかける慣習がある。これは星竹の住民で対岸西戸倉地区に畑を持つ人々が、9、10月の収穫、麦蒔の為に橋が必要だからで、日記では「畑持ちの橋かけ」と称している。畑持ちの黒山家ではいつも兵次郎が人足に出ているが、面白いことに畑を持たない家からも毎年2戸ずつ当番で人足に出る。粗末な板橋でもあれば皆が使う。この慣習なども集落内の融和を考えながら、長い年月をかけて育てた暮らしの知恵であろう。

4.「有(あり)」と「拵(こしらえ)」の世界
 儀三郎の日記の表現は簡潔である。一番よく出る言葉が「何々有」、次に「何々拵」である。前のつづきでいえば、11月1日には「橋かけ、日待有」と書かれている。有の中で頻度が多いのが「日待」=飲食会、次に「念仏」である。
 日待は「軍道山取上仕舞(じまい) 日待有」「お前にてかいこ始メ日待有」など仕事の始め終りに行う日待が多い。とくに山仕事は仕事の区切りを日待でつけているといってもよい。曜日制のない昔、日待は勤労にリズムを付け、生活に節目と慰安を与えるものらしい。日記から目につく日待を拾うと「獅子仕舞日待」「若衆うどん日待」「麦蒔仕舞、内日待」等。内日待は個人的なものだが、手伝った人は呼ばれる。酒好き、社交好きな儀三郎は日待が好きで、出席率きわめて良好のようである。
 念仏は、女念仏請中が集落内を順ぐりに、月に幾回となく集りをもつ。葬式があるとその晩は入(いり)念仏か百万遍が行なわれ、月念仏、男念仏というのもある。明治も近いというのに星竹の夜の基調音は地を這うような念仏の称名(しょうみょう)であった。いや、星竹に限らず、念仏は大方の集落の闇を覆う音声であったようだ。
この日記は当時の民衆娯楽の状況も伝えてくれる。祭文(さいもん)・人形・相撲・芝居・手踊り・写絵(うつしえ)等が「何々有」と出てくる。祭文語りや人形芝居などの門付(かどつけ)芸人が「西戸倉一落合一星竹」と川添の小集落を廻ってやって来る。星竹の場合「見世」などを借りて興行する。20戸程の小集落でも人々は娯楽に飢えている。時には瞽女(ごぜ)や比丘尼(びくに)も廻ってきた。彼女らは遠い異郷の歌を披露する。儀三郎宅にも泊めている。相撲は伊奈村、芝居も伊奈や五日市等戸数の多い所で行なわれるが、儀三郎へは使いがくる。彼は必ず花(祝儀)を届ける。儀三郎・兵次郎兄弟はそろって芝居好きで、兵次郎は小屋掛けから手伝い、時には次の巡業先までついてゆく。この兄弟に限らず当時の人々は芝居の中から娯楽以上のもの、人間としてのあり方-人倫(ひとのみち)とでもいったものを吸い取っていたように思える。儀三郎は雨にとじ込められた日、「さいもん写す」と日記に書いている。祭文語りの台本を筆写したのであろう。祭文も人形浄瑠瑞も儀三郎には学びとるべき人生の教本であった。
 次に儀三郎日記に頻出する「拵(こしらえ)」について話そう。拵は文字通り造ることだが、日記には、肥持・粟掃・もみ好等の農事、臼・鋸・鍬・押切等の道具類、屋根・とよ・垣のうね・わらじ・草履・下駄・足袋果ては幼い長男太郎吾の股引にまで及ぶ。何をどのようにするのか頭をひねってみた。例えば臼拵は石臼の目立、鋸も同様、鍬は鍛冶屋から届いた鍬頭に柄をつけることと推察した。 日記に車持とあり、始めは手車を造るのかと驚いたが、儀三郎家が水車をもっていることを知り、水車修理と判った。消費経済にとっぷり漬かった我々には想像外の手作りの世界である。
 当時の家の屋根(星竹地区)は大方麦から(麦わら)だが4年に一度は修理を要する。母屋の大屋根以外はすべて儀三郎・兵次郎の内人数でやるが、竹とよ、杉皮のひさしなど4年は持たない。また、食料を例にとっても、小麦もソバも石臼で粉にする。米はもみがらを取って玄米にし、更に精白しなければならない。手のかかるものばかりといってよい。
 儀三郎の一日をみると農閑期の12月でも午前中は麦に掛け肥をして、昼から檜原の奥の山を見にゆき、帰り道袖に連絡をとって帰宅、夜は帳面付けである。細工仕事は雨の日か、風邪で休んだ日に行う。当時の標準からみても儀三郎はいささか細工好き、仕事好きの部類であったろう。彼は六郷の帰り道、よく砂川の田裾の穀屋によって粉を買って帰る。石臼を廻すのは女の仕事だが、儀三郎の母は出好き、女房おりんは子育て最中、儀三郎は男として本当の意味で強者であると思うが、強い男ほど女、子供にやさしい。

5.儀三郎の家族
 儀三郎の父忠蔵は、文久2年(1862年)9月に死去している。この日記にはその働く姿は書かれていないが、「父、印を借りにあるく」と儀三郎の借金(運転資金)の保証印を貰いに歩いたり、嫁ぐ娘おひろ(儀三郎の妹)を連れ、江戸見物に出かけたりする愛すべき老父の姿が見える。
 思うに、星竹を生涯の地として働き通した人物であったろう。儀三郎に20余ケ所の田畑と、いくばくかの手山を残している。本格的な元締となったのは儀三郎が初代で、母イチの実家高尾村の高尾家(秋川筏師仲間惣代)より
手引きをうけたようである。  *技師=元締 母イチは明治14年迄存命し、この日記では最も活催する女性の1人である。イチの行動をみると、当時の女衆の日常が意外に自由闊達なものであることがわかる。彼女は儀三郎の上下に何人かの娘を産んだらしく、その嫁ぎ先を次々に泊りあるいている。その間実家の高尾家にもちょくちょく泊りにゆく。姐たちも何かにつけ実家に泊りに戻る。日記には誰それが「行く」「来る」「泊る」「帰る」という記事がしきりに出る。儀三郎の妻おりんも実家の深沢村の南沢家へ繁々と帰り、戸吹に嫁入りした妹おひろも実家星竹へ来ては長逗留している。おりんの妹たちもよく泊りに来る。人の来やすい家と来にくい家とあるものだが、儀三郎家はまことに解放的で檜原の親戚の神官はお札くばりの足場にしている。既婚の女衆は外泊によって心に風穴をあけ、未婚の娘たちは見聞を広めるのであろう。儀三郎家の女衆は養蚕をやるが農業には
ほとんどかかわらない。
 文久元年(1861年)5月の日記に「おりん深沢へ桑貰いにゆく」と出て、8月「おりん安産」とあり,改めて桑を背負ったおりんのお腹のふくらみを想像した。母イチはよく五日市の市に行くが、それは糸相場やまゆ相場をみるためらしい。幕末期の生糸は安政の開港から、またたくまに約3倍騰貴 (右:儀三郎、左:太郎吉)した。儀三郎は栗林を切り、桑畑に変え、台所を改造して糸取場をひろげている。幕末の動乱期、尊皇壊夷にさわぐ人々より、経済の動向をみつめ、それに機敏に対応する儀三郎一家のような存在が、日本の近代化の実質的な担い手となったことは論をまたない。

おわりに
 この日記は農作業・山仕事・筏商いの記録簿であるが幕末の動乱が迫るにつれ、月末や月始めに時勢に関する見聞が書き込まれるようになった。妹の夫戸吹の喜一郎が千人同心で、文久3年(1863年)2月、将軍家筏の上洛にお供することになり、儀三郎の関心も昂(たか)まったように見える。しかし、彼は経済人であり、政治人間ではない。時局に対する判断も極めて冷静である。慶応2年6月五日市を襲った打ちこわし(武州一揆)も当日の日記に事実のみを客観的に記録している。慶応4年の幕府の倒壊にも全く動揺を示していない。4月末「旗本同心衆扶持上りになる也」と書いている。御一新を武士の失業と割切っている。「俺たち働く者の時代が来た」といっているように見える。地に根をはやした儀三郎の当然の感慨であろう。
 私たちはこの日記によって島崎藤村の名作『夜明け前』の時代を追体験することができる。また、主人公儀三郎の生き方は、本当の人間の価値とは何かに気付かせてくれる。

 

【あきる野市教育委員会 平成10年1月15日発行】

私のblogでの初出記事は下記です。

磯田道史『武士の家計簿』(2)

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2006年1月 9日 (月)

トレンチコート、ラグラン袖、戦争

 戦争とファッションは因縁が深い。

 まずはトレンチコート trench coat 。trench とは戦場における塹壕のこと。つまり、第一次世界大戦の西部戦線で繰り広げられた長期の塹壕戦 trench warfare に対応するため、イギリス軍が兵士に支給した悪天候用の防水レインコートが、現在のトレンチコートの起源である。アルプス以北のヨーロッパの秋冬は、どんよりと重く雲が垂れ込めて寒い。戦後、その防寒・防水用コートを、兵士たちが戦場から持ち帰りファッションとして定着したのが、トレンチコートだったわけである。

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2006年1月 7日 (土)

厚生労働省は二度赤ちゃんを殺す

再び、「ハンセン病療養所における胎児等標本に関する要望書」に賛同のお願いです。

 標題の賛同申し込み期限は、本日(1月7日)です。まだご存じない方、また、迷われている方、是非ご検討の上、ご賛同戴きたくお願い申し上げます。

要望書の賛同のご連絡ならびにお問い合わせは下記事務局へ。
メール: sandosha@hotmail.co.jp
TEL:   080-3130-8028

要望書は下記です。
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2005年12月20日

厚生労働大臣 川崎二郎様
ハンセン病問題に関する検証会議・座長 金平輝子様

ハンセン病問題研究会
世話人代表 村岡潔
連絡先
京都市北区紫野北花ノ坊町96
佛教大学社会福祉学部村岡研究室気付

ハンセン病療養所における胎児等標本に関する要望書

 本年1月、「ハンセン病問題に関する検証会議」(金平輝子 座長)は、全国の
国立ハンセン病療養所など計6施設で、114体(邑久光明園49体、多磨 全
生園35体、星塚敬愛園17体、駿河療養所10体、松丘保養園1体、国立 感
染症研究所ハンセン病研究センター2体)の胎児標本、そして2000体 を超
える病理標本、さらに多くの手術摘出材料が放置・残さ れていたことをまとめ
た「胎児等標本調査結果報告書」を厚 生労働省に提出しました。
 114体のホルマリン漬けにされた新生児や胎児らは、90年にわ たる「ハ
ンセン病者」への強制隔離・絶滅政策という人間の尊厳を根底から奪う極限の
差別への証言者です。
新生児や胎児らが、どのような経過で「生まれる」ことを拒まれたの か、その
事実をつまびらかにし検証すること、そして、責任の所在を明らかにし国公立療
養所内で行われていた組織犯罪の全容を解明すること、さらに、このような理
不尽な人権侵害を二度と起こさぬよう具体的方策を講じることは、国や療養 所
関係者のみならず、私たちすべてにとっての責務と考えま す。
 しかしながら、発表された「調査結果報告書」を見る限り、最も被 害を受け
た当事者(とりわけ女性)の声が反映されておらず、調査・検証作業は全く不十
分です。「胎児等標本調査結 果報告書」とは別の「ハンセン病問題に関する被
害実態調査報告書」(95頁)には、1942年に療養所に入所した女性 の声で 「堕
胎されて30年後、医局に行くとホルマリン漬けの我が子と、知り合いの子