自然法・国際法

2008年6月 5日 (木)

「法の支配 rule of law 」考

 「法の支配 rule of law 」とは、

「統治される者だけでなく統治する者も、(統治者が定めた〈法律〉ではなく)統治者と被統治者の上にある〈法〉に従うべきであるという観念」*

であり、歴史的には

「〈法律〉から区別される〈法〉は、自律的諸権力から成る政治社会を法共同体として存立させた法、自律的諸権力がそれぞれ自己の実力によって実現する権利の総和としての伝統的な法にほかならなかった。」*

 以上を、一般論ではなく具体的な歴史的文脈、特にイングランドの史的文脈で語ると以下のようになる。

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2007年11月22日 (木)

再び、関曠野『歴史の学び方について』窓社(1997年)、から

 下記の記事は、すでに、

藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(8)

として掲載していたものだ。今回、「社会契約論」のカテゴリーを作成するに当たって、どんなものが引っかかるか調べたら、そう言えばこういう記事もあったと思い出した次第。

 ただ、読み返してみると、関曠野の文は本当にすごい、と思い直した。このたった527字、原稿用紙一枚半の中に、ロックの「自然権」概念とそこから社会契約が導き出される論理を示して間然するところがない。そして、なによりも、「政治的権威による統治」は人間にとり必然なもので、それゆえにその「正しさ」は常に弁証されねばならず、近代以降においてそれが意味するところは、つまるところ、われわれ朋輩隣人たちの社会契約によるしかないことを、この上ない力強さで語りきっていることだ。

 この清々しい強さの源泉はなんだろうか。それは、関曠野は、もの書くとき、業績を上げるために paper を積み上げているのではなく、政治的権威を創造すべく定められている、朋輩隣人の一人として、つまり、現世に生を享けている一個の人間の義務として書いているからだろう。己の頭脳で考え、納得のいった、書かねばならないことだけを書く。余人の真似し得るところではないが、良き模範としてせめて心にとどめておきたいと思う。

以下、再掲( Collingwood 関連は若干加筆)。

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2007年11月 7日 (水)

理非の判断権分有の原理

 この表題は、西洋法思想史になじみのある方なら、一瞬、「自然法」のことではないか、と思われるだろう。

 ところが、これは鎌倉時代の武士の法意識をあらわしたものなのだ。

「このように「道理」なり「理非」なりは、権力や実定法によって動かされるものでなく、逆にこれらのあり方を規定するものだという観念が、この時代の武士社会には厳として存在していたのである。」
  石井紫郎『日本人の国家生活 -日本国制史研究Ⅱ- 』東京大学出版会(1986)、p.84

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2007年10月27日 (土)

権力起源論としての「社会契約説」に対する二つの批判(1)

■「社会契約説」とは何か

「 政治社会の成立を個人間の契約に求め,それによって政治権力の正統性を説明する理論。すでに古代ギリシアのソフィストにその端緒が見られるが,17~18世紀のヨーロッパにおいて全面的に展開され,国家を個人の作為とし,政治的義務の根拠を個人の選択に求めることによって,権力による事実的支配であった主権国家を,被治者の自発的結社に組みかえる近代国家の構成原理として,巨大な歴史的役割を果たした。」
 福田歓一筆「社会契約説」、平凡社世界大百科事典、1998年

■ Hume の convention 論による批判

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2007年10月13日 (土)

「あなたも死刑員!」(^^v

 少々旧聞に属するが、自由民主党福田内閣の鳩山邦夫法務大臣は、下記のような戯(たわ)けたことを閣議後、全世界に向けて発言していた。

 え?、なんで全世界にむけて? それは、いかなアメリカ合衆帝国の属国とはいえ、我が大日本皇国の国家的なプレゼンスはいまだ大きく、閣議後の大臣会見は、無論、東京駐在の外国報道機関記者から世界中に配信されるからである。

 よかったぁ、1941年6月の司法大臣・柳川平助の閣議後談話が世界配信されてなくて。これが外電に載っていたら、ただでさえ悪い大日本皇国の評判が一段と落ちたのは間違いないもんね。

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2007年10月11日 (木)

♪あなたも私も犯罪者♪

 あまりにも常識ハズレ(少なくとも私の)な冤罪事件が10月10日、一つ決着した。関連記事を三つ挙げておく。↓

1)冤罪男性、再審で無罪判決=検察控訴せず確定-女性暴行誤認逮捕・富山地裁支部
10月10日15時31分配信 時事通信
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 女性暴行事件で富山県警に誤認逮捕され、実刑判決を受け服役後に無実と判明した柳原浩さん(40)の再審判決公判が10日、富山地裁高岡支部で開かれ、藤田敏裁判長は「被告人が犯人でないことは明らか」と述べ無罪を言い渡した。検察側は控訴しないことを決め、逮捕から5年半かかって柳原さんの無罪が確定した。
 藤田裁判長は、再審公判に提出された大津英一被告(52)=公判中=の調書や、事件現場に残された足跡に関する資料などの証拠から、柳原さんが起訴された2事件について「各犯行の真犯人は大津被告と認められる」と認定した。
 さらに、犯行時刻に柳原さんが自宅で電話をかけていたことを示す通信記録などから、アリバイが成立するとして、犯行を自白した柳原さんの供述調書は「信用性がないことは明らか」とした。 
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2007年9月24日 (月)

イラク・シリア国境、2007年9月6日、木曜日、午前0時6分

Baghdad Burning

「・・・。

シリア国境もほとんど同じくらい混雑していたが、ずっとリラックスした雰囲気だった。人々は車の外に出てストレッチしていた。お互いに気づいて手を振ったり、悲惨な話や噂話を車の窓越しにやりとりしている人もいた。なにより重要なのは、私たちはみんな平等だということだった。スンニもシーアも、アラブ人もクルド人も・・・シリア国境要員の前では私たちはみな平等だった。

私たちはだれもが難民だった―金持ちも貧乏人も。難民はみな同じように見えた。どの顔にも独特の表情があった。悲しみの混ざった、不安を帯びた安堵の表情。どの顔もほとんど同じように見えた。

国境を越えてから数分の間、心は極限に達した。安堵と悲しみがいちどきにどっと押し寄せて私を圧倒した・・・たった数キロ、たぶん20分くらい離れただけで、こんなにもはっきりと生と死が分かれるとは。

だれひとり見ることも触れることもできない国境が、車両爆弾や民兵や殺し屋集団と・・・平和と安全の間に横たわっているなんて。今も信じるのがむずかしい。ここでこの文を書きながら、どうして爆発音が聞こえてこないのかしらとふと思ってしまう。

飛行機が頭上を通過する時に窓がガタガタいわないのが不思議だ。黒装束の武装集団が今にもドアを破って入ってきて私たちの命を奪うのではという思いからなんとか抜け出そうとしているところだ。道路封鎖や早期警戒機[レーダーを取り付けた軍用機]やムクタダの肖像画などなどがない街路に目を慣らそうとしている。

車でほんのちょっと行った先には 、こういったものすべてがあるというのに。

午前0時6分 リバー

(翻訳:いとうみよし) 」

*参照
バグダード、2007年4月26日、午後5時03分、木曜日

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2007年5月27日 (日)

バグダード、2007年4月26日、午後5時03分、木曜日

Baghdad Burning

「もちろん、その壁は誰をも保護などしない。 私は時々、ヨーロッパで強制収容所が始まる時もこんなだったのではないかと思う。ナチ政府はおそらくこう言っただろう「いいかい、私たちはこの小さな壁でユダヤ人たちを保護しようとしているだけなんだよ。これで、誰もこの特別地域に入って彼らに危害を加えることはできなくなるだろう!」と。 しかし、それはまた、そこから出られなくなるということでもある。」

「壁が崩壊する前のベルリンや現在のパレスチナのように、今こそアメリカにとっては、物理的に分割して征服する時になった。このようにして、彼らは、「シーア派地区」からスンニ派を、「スンニ派地区」からシーア派を追い出し続けることができるというわけだ。 」

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2007年5月21日 (月)

自然法 natural law の日本語訳としての、「天地ノ公道」

蝋山 「・・・。それを歴史にさかのぼれば、十七世紀のイギリスの憲政が自立した、たとえば権利章典の出たころ、名誉革命のあったころの思想がずっと尾をひいていると思う。そういう意味において、日本は明治百年を経験して、自然法が日本的に評価されたのは、五ヶ条の御誓文だと思う。これは吉野(作造)先生から習ったけれども、自然法の思想を日本的に訳すと、天地の公道になるという。日本人が国際性のある思想をもたなければならない時代が来ているのではないか。・・・。」
「変動期のなかの政治思想」〈鼎談〉宮沢俊義、蝋山政道、辻清明
『世界の名著』第60巻 付録42、昭和44年12月5日 虎の門「福田家」にて

 ちなみに、「五ヶ條ノ御誓文」の全文を掲げると以下のようになる。法令全書明治元年第百五十六のもの。

引用開始 ****************************************************

御誓文

一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ

一上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ

一官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

一舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此趣旨ニ基キ協心努力セヨ
年號月日 御 諱

勅意宏遠誠ニ以テ感銘ニ不堪今日ノ急務永世ノ基礎此他ニ出テカラス臣等謹テ 叡旨ヲ奉載シ死ヲ誓ヒ黽勉從事冀クハ以テ 宸襟ヲ安シ奉ラン
慶應四年戊辰三月
    總裁     名印
公卿     各名印
緒侯

引用おわり **************************************************

 引用の、Wikipedia によると、第4条の元来の木戸案では、「旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし」となっていた由。すると、

「宇内の通義」 → 「天地ノ公道」

となったわけだ。宇内は、「天下、世界」の意で、通義は、recht(法、権利)、ないし、right(権利)の訳だから、木戸案を直訳すると、旧来の遅れた悪い習慣を破棄し、世界の法(権利)にしたがうべし、というもの。前半は、徳川将軍批判だから政治的意図丸見えなのでどうかと思うが、後半は素直に解釈すれば、国際法、ないし自然法に従え、となろう。これなら後半だけは悪くはない。ただ、天皇が神前で発する誓詞に、翻訳語が入るのは好ましからず、とかなんとかと言うことで、多分、「天地ノ公道」に差し替えられたのだろうな。まあ、「宇内の通義」よりは、「天地ノ公道」のほうが、江戸人には通りが良かったろうと思われる。で、この言い換えも悪くはないと思う。

 ただ、総じて言えば、「舊來ノ陋習」が徳川政権にすべて押し付けられ、「天地ノ公道」がすべて新政府という名の明治軍事クーデタ独裁政権に回収されてしまっているので、最終的な効果は、薩長のプロパガンダと堕していることだけが問題か。

〔註〕原本。明治元年3月13日(旧暦)、明治天皇の勅命によって有栖川宮幟仁親王が揮毫したもの。

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2007年5月14日 (月)

Meiji Constitution の賞味期限

 簡略に、Meiji Constitution の命脈が、80年間(1868-1945)で尽きた理由を述べてみよう。

1)近代主権国家を作れなかったこと。
 薩長クーデタ集団は、結果的に分権的な「幕藩体制」を武力で清算した。しかし、兆民の「多頭一身の怪物」、丸山の「無責任の体系」、ウォルフレンの「権力構造の謎」、といわれ続けてるように、中央(=東京)集権にも関わらず、その中央部で、最終的に統治に関する権力と責任が一人の人間ないし一つのポストに集約されていなかったこと。これは、民主政とか君主政、などとは別次元の事であることに注意。妙な表現だが、いわば「アナーキーな権力」、であったことになろう。

2)「(合理的)法の支配」がないこと。

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2007年4月 1日 (日)

嫁の持参金は夫のものか?(古代ローマの場合)、参照追加4/5

 31  Ibi dos esse debet, ubi onera matrimonii sunt.
    (パウルス・学説彙纂第2巻第4章第5法文)
 婚姻の負担が存在するところに嫁資が存在するべきである。

 嫁資 dos というのは聞きなれない言葉であるが婚姻のさいに、社会的な慣行にしたがって、女の側が男の側に持参する金銭その他のもののことである。婚姻にあたって妻が家長である夫または家長の夫権に服属する場合には、その女は実家における相続権を失うので、その代償として、財産をもたせてやるのが本来の意味であった。ところが、夫権に服属せず、従前のように実家の家長の家長権に服したまま婚姻に入る場合は、夫婦が家を別にしているのに、夫の側が婚姻費用を負担するという関係が生ずるので、嫁資はもとの意味を失って、その費用の分担という意味をもつようになった。これがこの格言の趣旨である。最初、嫁資は完全に夫の所有に帰した。

“ Dotis causa perpetura est. ”(パウルス・学説彙纂第23巻第3章第1法文)
「嫁資の性質は永久的である。」

 しかし、共和政の終り頃から、離婚が日常茶飯となりはじめると、そのような取扱いは、再婚しようとする女にとってきわめて不利であったし、また夫が婚姻中に死亡した場合にも、妻が相続の上で優遇されなかったためもあって、嫁資が、婚姻解消後女やその設定者に返還されるように配慮され、その結果、嫁資は、夫の利得であるというよりも、むしろ、婚姻継続中に夫に信託されている財産にすぎないと考えられるようになった。そして、その返還を安全・円滑に行うために何種類もの巧妙な技術が何世紀にもわたって考案されている。妻の法律上の地位が劣悪であったにもかかわらず、社会的にはかならずしもそうでなかったのは、この嫁資の支えによるところが多い。

**************************************************

  以上すべて、柴田光蔵 『 ローマ法の基礎知識 』 有斐閣双書(1973年)、pp.133-4、より。

*参照
磯田道史『武士の家計簿』
箪笥に封印

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2007年3月 8日 (木)

責任観念の多義性(2)

「ニュルンベルグ裁判でナチの指導者が外国勢力に責任をとらされるのは、かれらがドイツ国民に責任を負うこととは別のことなのである。」
アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』御茶の水書房(1980)、p.281

 さしずめ、我々日本国民が言えるのは、
「極東軍事裁判で陸海軍の指導者が外国勢力に責任をとらされるのは、かれらが日本国民に責任を負うこととは別のことなのである。」

 1945年からすでに62年。日本国民は、当時の統治責任者たちの敗戦責任を、まともに問うてきたのだろうか。それが今でも尾を引いている気がしてならない。

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2007年2月 5日 (月)

責任観念の多義性(1)

 このマトリクスで、「自己責任」なる自己撞着な言葉の不条理を論証しようというも目論見なのだが、少々疲れてきた。この装置の具体的な稼動は(2)へ、続く。

                 
 

 

 
 

誰に対する?

 
 

何についての?

 
 

私の(主観的)

 
 

 

 
 

 

 
 

彼の(客観的)

 
 

 

 
 

 

 

 

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言葉と暴力

 今、「体罰」が熱いらしい。国立の右翼団体、文部科学省が通達を流したそうな。↓

 この件については、再論しよう。それにしても、教室内でもコミュニケーション⇔「法」の放棄を勧めるというのはどういうことか。「法の支配」ではなく、「力の支配」ということなのだろう。「この世は万事、力次第」。アベが好きそうな話だ。

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<体罰>文科省が「考え」通知へ 容認の判例も例示
2月2日21時39分配信 毎日新聞
 体罰に関する許容範囲の見直しを求めた教育再生会議の第1次報告や深刻ないじめ問題を受け、文部科学省は2日、初めて体罰の考え方をまとめ、来週中にも都道府県・政令市教育長らに通知する。居残り指導や授業中の起立指示などは肉体的に苦痛が伴わない限り体罰ではないとし、教師が用いる強制力も認める方向だ。いじめや暴力を繰り返す児童・生徒に対する「毅然(きぜん)たる指導」を支援する狙いがある。
 学校教育法は「体罰を加えることはできない」と規定。旧法務庁の意見書(1948年)でも限定付きながら、「児童に授業を受けさせないという処置は、懲戒の方法としては許されない」と退出などを否定していた。
 今回の通知は、(1)生徒指導の充実(2)出席停止処分の活用(3)懲戒・体罰の3項目について考え方をまとめた。
 体罰については「身体への侵害を与える懲戒と肉体的苦痛を与える懲戒は与えてはいけない」と従来通り禁止した。その上で、体罰か否かは「受けた側の主観ではなく、児童・生徒の年齢、健康状態、行為の場所・時間などを考え、個別のケースに応じて判断するべきだ」などと盛り込み、教師側の強制力を容認する方針だ。
 さらに、生徒をたたいた教師の行為が体罰として認定されなかった過去の判例を例示する。判例への受け止め方は現場教員の判断に任せるものの、暗に「許される体罰の範囲」を示しているとも言えそうだ。
 このほか、放課後の居残り指導▽授業中に教室内で立たせる▽清掃活動や学級当番をさせる――などは肉体的な苦痛がなければ体罰ではないとし、教室外への退出も「別途指導が行われれば、差し支えない」などと明記する。
 出席停止処分については、「粘り強い指導を行ったうえで、正常な環境を保持することが困難な場合に適用する」と従来の考え方を示し、出席停止を受ける児童・生徒用の個別の指導計画を作成するよう求める。
 会見した伊吹文明文科相は「子どもを預けられた限りは、保護者が安心できる態勢を作るようにしたい」と語った。
 教育再生会議は1月24日に発表した第1次報告で、「暴力など反社会的行動を繰り返す子どもに対する毅然たる指導、静かに学習できる環境の構築」を掲げ、旧法務庁の意見書の見直しなどを求めていた。【高山純二】
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上記、記事中にいう「旧法務庁の意見書(1948年)」が下記↓。

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児童懲戒権の限界について

昭23.12.22 調査2発18
国家地方警察本部長官・厚生省社会局・文部省学校教育局あて
法務庁法務調査意見長官回答

 本年6月16日附及び7月27日附,別紙高知県警察隊長の照会に対し,当職は左のとおり,意見を回答するから,同警察隊長に伝達方取り計られたい。

第1問

 学校教育法第11条にいう「体罰」の意義如何。たとえば放課後学童を教室内に残留させることは「体罰」に該当するか。また,それは刑法の監禁罪を構成するか。

回 答

1 学校教育法第11条にいう「体罰」とは,懲戒の内容が身体的性質のもので
 ある場合を意味する。すなわち

(1) 身体に対する侵害を内容とする懲戒-なぐる・けるの類-がこれに該当することはいうまでも  ないが,さらに

(2) 被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。たとえば端坐・直立等,特定の姿勢を長時間にわたって保持させるというような懲戒は体罰の一種と解せられなければならない。

2 しかし,特定の場合が右の(2)の意味の「体罰」に該当するかどうかは,機械的に制定することはできない。たとえば,同じ時間直立させるにしても,教室内の場合と炎天下または寒風中の場合とでは被罰者の身体に対する影響が全く違うからである。それ故に,当該児童の年齢,健康・場所的および時間的環境等,種々の条件を考え合わせて肉体的苦痛の有無を制定しなければならない。

3 放課後教室に残留させることは,前記1の定義からいって,通常「体罰」には該当しない。ただし,用便のためにも室外に出ることを許さないとか,食事時間を過ぎて長く留めおくとかいうこと があれば,肉体的苦痛を生じさせるから,体罰に該当するであろう。

4 右の,教室に残留させる行為は,肉体的苦痛を生じさせない場合であっても,刑法の監禁罪の構成要件を充足するが,合理的な限度をこえない範囲内の行為ならば,正当な懲戒権の行使として,刑法第35条により違法性が阻却され,犯罪は成立しない。合理的な限度をこえてこのような懲戒を行えば,監禁罪の成立をまぬかれない。

  つぎに,然らば右の合理的な限度とは具体的にどの程度を意味するのか,という問題になると, あらかじめ一般的な標準を立てることは困難である。個々の具体的な場合当該の非行の性質,非行者の性行および年齢,留め置いた時間の長さ等,一切の条件を綜合的に考察して,通常の理性をそなえた者が当該の行為をもって懲戒権の合理的な行使と判断するであろうか否かを標準として 決定する外はない。

第2問

 授業に遅刻した学童に対する懲戒として、ある時間内、この者を教室に入らせないことは許されるか。

回 答

 義務教育においては、児童に授業を受けさせないという処置は、懲戒の方法としてはこれを採ることは許されないと解すべきである。
 学校教育法第26条、第40条には小・中学校の管理機関が児童の保護者に対して児童の出席停止を命じ得る場合が規定されているが、それは当該の児童に対する懲戒の意味においててはなく、他の児童に対する健康上または教育上の悪い影響を防ぐ意味において認められているにすきない。ゆえに遅刻児童についても、これに対する懲戒の手段として、たとえ短時間でも、この者に授業を受けさせないという処置を採ることは許されない。

第3問

 授業中学習を怠り、または喧騒その他、ほかの児童の妨げになるような行為をした学童を、ある時間内、教室外に退去させ、または椅子から起立させておくことは許されるか。

回 答

1 児童を教室外に退去せしめる行為については、第2問2の回答に記したところと同様、懲戒の手段としてかかる方法をとることは許されないと解すべきである。ただし児童か喧騒その他の行為によりほかの児童の学習を妨げるような場合、他の方法によってこれを制止し得ないときは、-懲戒の意味においててはなく-教室の秩序を維持し、ほかの、一般児童の学習上の妨害を排除する意味において、そうした行為のやむまての間、教師が当該児童を教室外に退去せしめることは許される。

2 児童を起立せしめることは、それが第1問回答1(1)よび2の意味で「体罰」に該当しないかぎり、懲戒権の範囲内の行為として、適法である。

第4問 略
第5問

 ある学童が学校の施設もしくは備品、または学友の所有にかかる物品を盗み、またはこわした場合に、これに対する懲戒として、この者を放課後学校に留め置くことは許されるか。

回 答

 盗取、毀損等の行為は刑法上の犯罪にも該当し、したがって刑罰の対象となり得べき行為でもあるが、同時にまた、懲戒の対象となり得べき行為でもある・刑罰は、もちろん、私人がこれを課することはできないが、懲戒を行なうことは、懲戒権者の権限に属する。ゆえに懲戒のために所間のごとき処置をとることは、懲戒権の範囲を逸脱しないかぎり、差し支えなく、これについては第1問回答の3,4と同様に解してよい。

第6問

 間5のような事故があった場合に、誰がしたのかをしらべ出すために容疑者および関係者たる学童を教職員が訊問することは許されるか。また、そのために、放課後、これらの者を学校に留め置くことは許されるか。

回 答

1 所問のような、学校内の秩序を破壊する行為があった場合に、これをそのまま見のがすことなく、行為者を探し出してこれに適度の制裁を課することにより、本人ならびに他の学童を戒めてその道 徳心の向上を期することは、それ自体、教育活動の一部であり、したがって、合理的な範囲内においては、当然、教師がこれを行なう権限を有している.したがって教師は所問のような訊問を行なっても差し支えない。ただし、訊問にあたって威力を用いたり、自白や供述を強制したりしてはならないことはいうまでもない。そのような行為は強制捜査権を有する司法機閥にさえも禁止されているのであり(憲法第38条一項、第26条参照)、いわんや教職員にとってそのような行為が許されると解すべき根拠はないからである。

2 前記のような訊問のために放課後児童を学校に留めることは、それが非行者ないし非行の内容を明らかにするために必要であるかぎり、合理的な範囲内において許されるもっとも、これは懲戒権の行使としてではなく、前記のごとき教育上の目的および秩序維持の目的を達成する手段として許されるのである。どのくらいの時間の留め置きが許されるかは、第1問回答の4に準じて考えられるべきである。

第7問

 学童に対する懲戒の方法として、その者に対して学校当番を特に多く割当てることは許されるか。

回 答

 懲戒として学校当番を多く割当てることは、差し支えない。ただし、この場合にも、懲戒権の行使としての合理的な限度をこえてはならないのであって、その限度をこえて、不当な差別待遇、または児童の酷使にわたるようなことはもちろん、許されない。

第8問

 遅刻児童を防止するため、遅刻者を出した部落等の区域内の学童に誘い合わせの上、隊伍を組んで登校することを命じることは許されるか。

回 答

 遅刻防止のため一定の区域内の児童に対し、誘い合わせて一緒に登校するように指示することは、差し支えない。もっとも、軍事教練的色彩をおびないよう注意すべきである(文部省体育局長発通牒昭20・12・26発体100「学校体練科関係事項ノ処理徹底二関スル件」参照)。
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 上記引用のソースは、資料室  児童懲戒権の限界についてである。

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2007年1月22日 (月)

生きている殺生戒(せっしょうかい)

 ある時、老婦人とそのお孫さんのことで話す機会があった。

私 「お孫さんは活発なお子さんでいいですねぇ。魚釣りなんかも好きでよろしんじゃないですか。」

老婦人 「いやね、私は孫がそういう殺生するのは嫌なんですよ。私はね、自分の親からそう言われて育ったんでね。漁師が魚を釣るのはいい。仕事だからね。だけど、自分一人の楽しみで殺生するのは、どうも嫌でね、やめてもらいたいんだ、ほんとはね。でも、母親が別に止めないんでね。」

 ここに見られるのは、仏教の十悪とされる殺生の戒めである。西洋の自然法にも通じるところの、誰にでも普通にありうる、無益な殺生はしないという倫理感、道義感だろう。細々とながら、日本人の倫理感を支えてきた仏教の在りし日の姿を垣間見る機会となった。

 ただ、話の流れが、嫁姑問題に行きそうな雲行きだったので、話の向きを変えるため、
私 「そういえば、剣道もやってらっしゃいますよね。結構強いみたいですよ。」

老婦人 「それもね、頭をあの竹刀っていうので叩くでしょ。頭が悪くなりゃしないか、と心配なんだけど、母親が勧めるんで。」

 あれ、まずい。ますます話が嫁姑問題へ行っちまう。私がここが潮時と、適当に話を切り上げ退散することとしたのは言うまでもない。

 明治軍事独裁政権が行った施策でも、神仏分離、廃仏毀釈、ほど、近代日本人を immoral にしたものはないだろう。仏教、ないし寺院が徳川政権下でどれほど支配の末端組織として機能し、そのため腐敗したため、庶民の反感を買っていたとしても、この列島に千年もの間、この世には、王法と異なる仏法というものがあることを教え、王も含めて全ての人間が守らねばならない法があることを庶民に知らしめていたのは、紛れもなく仏教である。これを徹底的に破砕、破却したのは、明治の権力亡者どもなのだ。近代日本人が兵として一歩この列島を離れたとき、また異なる国の人間とぎりぎりの関係を持たざるを得なくなったとき、普通の人間が想像を絶する野蛮性を示したのは、この明治の《文革》が大きく影響していたという疑いが私には拭えない。

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米国のいう《自由と民主主義》とは、人を裁判もなしに拘束し、拷問にかけることである

 昨日、18:10から放送してた「NHK海外ネットワーク 裁判なしに無期限拘束・米のテロ容疑者収容所・高まる批判」をたまたま見た。

 むむ、なんという・・・。《自由と民主主義を守るため》が聞いてあきれる。以前から話には知っていたが、これでは、かつてのわが大日本帝国や、《自由民主党》政府の下の、法務省(Ministry of Justice、正義省!?)・入国管理局の外国人取り扱い、軍事独裁政権下の人権抑圧と同じじゃないか。ま、コイズミやアベなら、「よくやってくれているなァ。」と、わが事のように深く頷くだろうが。

 たとえ、キューバにあるグアンタナモ米海軍基地が、米国本国外であり、米国の法律が適用されないとしても(昨年、6/29に米最高裁でそれ自体が違法との判断が出ている)、法律以前の法、「人道に対する罪」すなわち、自然法は存在するのだ。“故”大日本帝国政府および帝国陸海軍は、「人道に対する罪」=自然法で裁かれた。それなら、全く何の根拠もなく、人を拘束し、収容所にぶち込み、あまつさえ拷問までしている米国政府も、たとえ実定法下になくとも、「人道に対する罪」=自然法によって裁かれるべきである。

関連リンク

1)無実の罪で収容されていた人たちを映画化
映画「グアンタナモ、僕達が見た真実

2)経緯、内実に関する情報は、アムネスティ日本のサイトへ。
グアンタナモにNO!  *米国大統領に抗議メールが送れます。

3)グアンタナモ基地の歴史的経緯、地理に関する情報は下記を参照。
敵国の中に堂々と居座る米軍基地 グアンタナモ湾 アメリカ領

*グアンタナモ基地の位置を確認するには下記の地図がわかりやすい。
キューバ・グアンタナモベイ海軍基地 -”敵国”の中の軍事基地

4)関連ニュース・リンク
<グアンタナモ基地>対テロ戦争の拘束者収容開始から5年
1月12日12時4分配信 毎日新聞
「 米国によるグアンタナモ米軍基地への対テロ戦争の拘束者の収容開始から5年に合わせ11日、ワシントンなど世界20カ国以上の都市で収容所の閉鎖と公正な裁判を求める抗議行動があった。息子をイラク戦争で亡くした米国の「反戦の母」として知られるシンディ・シーハンさんらはグアンタナモ基地周辺で閉鎖を求めた。」
最終更新:1月12日12時4分
毎日新聞

潘事務総長が就任後初の会見
1月13日8時32分配信 フジサンケイ ビジネスアイ
「 また、テロ容疑者への人権侵害が指摘されるキューバのグアンタナモ米軍収容施設について「閉鎖されるべきだ」と明言。来週ワシントンで行われるブッシュ大統領との会談で、この問題が直接話し合われる可能性も出ている。」(ニューヨーク 長戸雅子)
最終更新:1月13日8時32分
フジサンケイ ビジネスアイ

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2006年11月13日 (月)

中世日本における、selfishとしての「自由」

吉田兼好、徒然草(1317年・文保1から1331年・元弘1の間に成立?)より

〔60段〕
この僧都、みめよく、力つよく、大食(たいしょく)にて、能書、學匠、辯説人にすぐれて、宗の法燈〔一宗の光明たる中心人物〕なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を輕く思ひたる曲者にて、よろづ自由にして、大かた人に隨ふといふ事なし。
(1) 1-60

〔187段〕
萬の道の人、たとひ不堪なりといへども、堪能の非家の人にならぶ時、必ずまさることは、たゆみなく愼みて輕々しくせぬと、偏に自由なるとの等しからぬなり。藝能所作のみにあらず、大方の振舞、心づかひも、愚かにして謹めるは得の本なり、巧みにしてほしきまゝなるは失の本なり。
(4) 181-243

 この徒然草、もともと貴人むけ読物として企図されたが、まあ余り世人には受けず、細々と中世知識人たち(歌人、僧など)に読み継がれていた。

 ところが、江戸期になって町人層にブレーク。いくつも注釈書が出回り、当然、目端の利く物書きは本歌取りを狙うわけで、井原西鶴に『西鶴俗つれづれ』(没1693年の遺稿)なんていうのもある。

 とすると、江戸期の「自由」用例に、この徒然草刊本類(と言っても二箇所しかない)がある程度の影響を与えていたことは推測可能かも。

 そう言えば、研究書で、日本における「自由」を博捜した本があったっけ。

宮村治雄『日本政治思想史――「自由」の観念を軸にして』放送大学教育振興会(2005年)

 これを読んでから、書けばよかった。(-_-; そのうち、ということでご容赦。

註 Wikipedia、および、平凡社世界大百科事典(1998)、の該当箇所を参考にしました。

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2006年10月20日 (金)

重大情報!共謀罪は10月24日法務委員会法案審議冒頭に強行採決か!?

>転載歓迎<
重大情報!共謀罪は10月24日法務委員会
法案審議冒頭に強行採決か!?

共謀罪の行方に関心を寄せるすべての方へ
                        海渡 雄一(弁護士)

本日18日、日弁連主催の共謀罪反対集会が開催されました。私はパネルディス
カッションのコーディネーターをつとめたのですが、次のような情報を総合すると、
共謀罪は10月24日法務委員会の法案審議冒頭に強行採決される可能性が高い
と結論づけるに至りました。
みなさん、直ちに、強行採決を許さないという声をあらゆるところから上げて下さ
い。まだ、時間は残されています。

根拠1
民主党の平岡議員(法務委員会理事)が、今国会では自民党が法務委員会でどの
法案を審議するか、順番を決めようとしない。順当に行けば、信託法から審議にはいる
というのが普通だが、そのような話が一切ない。
平岡議員は、与党は、共謀罪から審議すると通告するのは間違いないだろうと
言われている。

根拠2
与党理事が平岡議員の来週月曜の行動予定をしつこく聞いていたと言うことであ
る。
これは、月曜日23日に法務委員会理事会を開催して、24日の開催日程から強行して
くるためである可能性があることを示している。

根拠3
採決予定を明らかにしないのは、22日の補選までは、強行採決の意図を隠し、
市民の反発を避けて、補選での与党勝利の障害要因をなくしたいためだというのが、平岡議員の分析だ。

根拠4
政府与党がこれまで、強行採決に失敗してきたのは、事前のノーティスがあり、
市民側がこれに反対する準備をすることができたためである。この経過に学んで、政府与党は事前の計画を徹底して隠し、逆に今国会の成立は困難という情報を流して、市民の油断を誘い、一気に準備不足のところを襲おうとしているのではないか。

根拠5
法務省と外務省のホームページでのこの間のなりふり構わない日弁連攻撃は、日
弁連の疑問にはホームページで既に応えたとして、国会審議を省略して強行採決を正当化する口実づくりとも考えられる。日弁連は既にこのホームページにも反撃しているが、
http://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/complicity.html
政府側は、論理的な説明は不可能であろうから、問答無用の正面突破を図る可能
性がある。

根拠6
政治力学的にも、もし、補選で与党が勝利した場合には、この瞬間をおいて、共
謀罪の一気成立をはかるタイミングは考えられない。このときを外せば、次の参院選が焦点化し、また、条約起草過程の解明や世界各国の条約実施状況の問題など、与党側は追いつめられていく一方だ。

確かに、このシナリオには、弱点もある。このような乱暴なことをすれば、野党
の反発を招き、国会が中断されてしまい、他の重要法案の審議に差し支える可能性があるという点である。
また、補選で与党が一敗でも喫するようなことがあれば、状況は変わるだろう。

しかし、今日の集会で、ジャーナリストの大谷さんが、今週末には予備選だけでな
く、核実験もありうることを指摘し、二度目の核実験を背景に、安部政権による国内には北朝鮮の工作員が3万人もいるのだから、共謀罪は当然必要 だ、不要だなんて言う奴は非国民だというムードが作られ、一気に共謀罪を成立させようとしてくる可能性があるという予言をされていた。
大谷さんは10月15日に予定されていたサンデープロジェクトの共謀罪特集が
北朝鮮特集に飛ばされ、放映が11月に延期されたという事実も報告された。北朝鮮情勢は、補選にも共謀罪の行方にも大きな影を投げかけている。

とにかく、来週火曜日は最大の警戒警報で迎えなければならない。後で泣いても
手遅れなのだから。

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       弁護士 海渡 雄一
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自民政調会長と外務大臣を〈共謀罪〉でしょっぴけ!

 与党幹部が、北朝鮮のヘナチョコ失敗核実験に事寄せて、核保有を示唆する発言をすると、そのすぐ後で、安倍ちゃんが〈非核三原則〉を持ち出して否定しにかかった。と思っていたら、現職の外務大臣まで言い出しちゃった。↓

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<北朝鮮核実験>「日本の核保有議論も大事」麻生外相が発言
 麻生太郎外相は18日の衆院外務委員会で、北朝鮮の核実験問題に関連し「隣の国が(核兵器を)持つことになった時に、(日本が核保有の是非を)検討するのもだめ、意見の交換もだめというのは一つの考え方とは思うが、議論をしておくのも大事なことだ」と述べた。「非核三原則を維持する政府の立場は変わっていない」と前置きしたうえでの発言だが、現職の外相の発言だけに今後国内外で波紋を呼びそうだ。
 笠井亮氏(共産)の質問に答えた。
 日本の核保有論をめぐっては、自民党の中川昭一政調会長が15日、テレビ番組で「選択肢として核(兵器の保有)ということも議論としてある。議論は大いにしないと」と指摘。政府・与党内からも批判が相次ぎ、安倍晋三首相は翌16日「非核三原則は国是として守り続ける。(核保有を)政府で議論することはない」と強調。17日には「もう終わった話だ」と述べるなど、火消しに努めていた。外相発言はこうした問題を再燃させるとともに、野党などから「閣内不一致」との批判を受ける可能性もある。
 北朝鮮の核実験を受け、米国などからも日本を含めた周辺国が核保有に走るのではないかという懸念が出ている。ブッシュ米大統領は16日のテレビインタビューで、日本の核武装論について「彼ら(中国)が懸念していることを知っている」と述べていた。【中田卓二】
(毎日新聞) - 10月18日13時29分更新
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 この問題が、日本には、外交原則の〈非核三原則〉があるから、ダメだというのはおかしい。なぜなら、〈非核三原則〉があろうがなかろうが、日本政府は、下記条約を1970年2月に署名、76年6月に批准しているからだ。

核兵器の不拡散に関する条約 Treaty on the Non‐Proliferation of Nuclear Weapons〉、略称←NPT

 例えて言えばこういうことだ。与党政調会長が、「最近、外国人がうろうろして物騒だ。だから、私は拳銃を持ちたいと思っている。そういう議論があったっていいじゃないか。言論の自由だ。」しかし、「拳銃を所持すべきだ」と発言することは、現在の法体系からすれば、明らかに銃刀法違反をしたっていいじゃないか、ということに相当する。それに重ねて、現外務大臣が「日本の核保有議論も大事」と言い出す始末。

 この2人の発言は、外務省文書でいう「NPT体制への挑戦」だ。日本が核保有するということは、NPT体制からの離脱であり、究極的には条約の破棄を意味せざるを得ない。

 条約は国家間の〈法〉である。つまり彼らの発言は、日本国の違法行為の遂行を合意していることに他ならない。現在、自民党、法務省がその成立を画策している、「共謀罪」は、予備行為もなされていない犯罪遂行の合意だけで、犯罪を犯すことになってしまうのだ。

 だから、私も言おう。「共謀罪」とその刑法概念を支持するなら、他国から日本の条約違反(=違法行為)の猜疑心を起しかねない発言をする、これらの大物政治家をサッサと逮捕しろ!、と。それこそが、「共謀罪」の精神だ。

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2006年10月10日 (火)

ジョゼフ・ニーダム「人間の法と自然の法」(1)

 表題は、下記からのもの。

ジョゼフ・ニーダム  『文明の滴定』法政大学出版局1974(叢書ウニベルシタス)
第八章「人間の法と自然の法則」(p.327)

原本は、
NEEDHAM, Joseph. The Grand Titration : Science and Society in East and West.  Allen & U (1979/11/1)
8. Human Law and the Laws of Nature

 一応、読了したのだが、今一つ、よく理解できない。前半部のゴタゴタのせいだが、これは訳者が若干混乱していて、ニーダムの文脈をとり損ねているからではないか、と少々疑っている。

 ということで、再度、読んでから、論評を書くことにする。羊頭狗肉。ごめんなさい。

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2006年10月 9日 (月)

「難民認定、在留特別許可を求める署名」を求めます 法の裁きを受け入れない法務省って、何だ?

 難民認定を巡る行政訴訟において、高等裁判所で、原告勝訴、被告国が敗訴し、最高裁への上告も断念して、判決が確定しているにも関わらず、法務省がなかなか法に服従しようとしない。

 いったい、確定判決を実質的に受け入れない、法務の担当行政官庁ってなに?

 詳細は下記へ。署名へご協力ください。

アリジャンの難民認定、在留特別許可を求める署名

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2006年9月22日 (金)

最悪の人権抑圧国家 Japan

「被害者も排除されるというのは理解されにくいかもしれませんね。実際に、親族が殺された人が職を失うこともあります。「殺される理由があったんじゃないか」などと言われたりして居づらくなるのです。悲しんでいれば「いいかげんに気持ちを切り替えろ」と言われるし、笑っていれば「もう忘れたのか」と言われる。被害者も孤立させられるのです。」

加害者は許せない、だけど死刑には反対です
犯罪被害者の遺族として 原田正治

(2ページ目からの引用)

 いったい、犯罪の被害者が、寄ってたかってイジメられる、嫌がらせを受ける、社会がまともな社会か? 私は、絶対、まともじゃないと考える。これは権力者から受けた仕打ちではなく、どこにもいる我々と同じ隣人たちの行ったことなのだ。ずいぶん前、某論者が、「日本人は生まれながらのファシストだ。」と言い放ったことがある。私はいくらなんでも暴言だろうと思った。だが、上の事実を知って、今では心底からは否定できない。

 日本には、犯罪被害者が「なぐさめを受ける権利」(ルソー)さえもないのだ。最悪の人権抑圧国家 Japan。

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2006年9月21日 (木)

The Imperial Household Agency as the breeder of Emperor's family

 まずは、皇位継承第3位の皇族男子誕生を言祝(ことほ)ぎたい。しかし、己の身体一つでさえ自由に処置できない世界に登場したことは、彼にとって祝福すべきことなのかどうか。昭和天皇の身体(body)を巡る唖然とする逸話を、Dead Letter Blog氏が紹介してくれている。

君に幸あれ(by Dead Letter Blogさん)

 赤ちゃんは天からの贈り物といったのは、初期社会主義者ロバート・オーエンだった。にもかかわらず、彼の「人間」としての行く末を思うとき、暗澹となるのはわたしだけではあるまい。この赤ちゃんの人権を、なるべく近い将来、改善ないし回復するのは、日本国民の、人間としてのせめての義務ではなかろうか。

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2006年9月15日 (金)

伝えたこと≠伝わったこと(1)

 コミュニケーションにおいて、ギャップはどうしても避けられない。伝え手の内容10が伝わり手に5しか届かない場合がある。また、伝え手の内容{ a, b, c, d }が、{ b, c, d, e }として伝わり手に受け取られる場合もあろう。

 しかし、コミュニケーションにおけるギャップは、多かれ少なかれ必然的に存在するのだから、それを失敗とは言えない。コミュニケーションの失敗とは、伝え手のコミュニケーションの意思を、伝わり手が気が付かないときに発生する。

 そして、この手の失敗が深刻なのは、失敗に伴う全ての負荷を結果的に伝え手が引き受けることになることだ。「伝わらない」という失望感と、「この失望感も伝わらない」という絶望感、という二重の負荷である。

 この問題が軽症の段階では、伝え手は伝わり手に voice する(=文句を言う)だろう。しかし、これが重症段階になると、コミュニケーションの断念にとなり、コミュニケーション関係からの exit を帰結する。つまり、物理的に近くにいても、無視か無言(=内面的 exit )となるか、物理的に距離を置く exit 、つまり「去る」ことになる。

 一方で、このコミュニケーション失敗に懲りて、自己防衛に走る場合もある。つまり、コミュニケーション関係を、その失敗の可能性の低い、安全性の明らかなものだけに限定し、一方で、物理的に近くにいるその他の人間とは適当に「流す」。この意図的不感症タイプは、元来は繊細な神経を持つ人物に多いと思われる。

 人間性の奥底に、人類共通のvulnerability(傷つきやすさ)があるとするならば、それは、共感と相互理解の可能性の担保であり、かつ、コミュニケーション・ギャップを、コミュニケーションの失敗に転化させる端緒でもある。

 意図せざるコミュニケーションについては次回以降に。

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2006年8月26日 (土)

国家の‘上格’、‘下格’

「学生たちと話をしていて思うのは、日本は大金持ちで、世界一力の強いアメリカとくっついているので海外の評判、とくにアジアの国々のいうことなど気にする必要はないと彼女たちが考えているということです。アジアの国々との友好的な関係なしに日本の未来はないというと、「え、だって格下の国でしょう?!」という発言がありました。」*

 これは、某大学におけるゼミの一こまである。某教授の推測では、この手の思考が、N国K首相の、国家非理性的行動を支持しているのだという。確かに。

 でも、こういう国民や個人は、一つ不都合なこと直面せざるを得ない。

 たとえば、いま日本が大金持ちだとしても、いつ零落するかわからない。そのときには別の国が(例えば中国や韓国が)、大金持ちだろう。そのときは、中国人や韓国人から「格下」とみなされても当然だし、彼らから非礼なことを言われても、黙っているべきということになる。

 また、世界最強の米国が日本を見限って(例えば日米安保破棄)、東アジアの政治的パートナーとして、全面的に中国を選択したとき、大日本国の国際的な価値は極小化してしまうが、それは仕方ないことになる。

 史上最強の人間がいたとして、その彼(彼女?)も、人間である以上、睡眠をとらざるを得ない。そのとき、寝首をかかれたら、おしまいなのだ。それで護衛つけるのだが、その護衛が、やはり力のみしか信じない者であれば、いつか寝首をかくだろう。これでは安んじて寝ることなど不可能だ。

 人間と人間の関係を、なんらかの「力(ちから)」のみで律せられると考えることは、究極的に、非現実的で無理なことなのである。

 「法」は弱者のみが必要とするか。いや、そうではない。なぜなら、強者も人間である以上、所詮、人間としてのvulnerability(傷つきやすさ)から逃れられないのだから。「法」とは、己の隣人に対する信頼の、別の名なのである。

*千鳥が淵に立つさざ波
のコメント欄、参照。

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2006年8月17日 (木)

自然法(natural law)から自然法則(natural laws)へ、あるいはブルジョアジーの頽廃について

 18世紀以降、急速に自然法の観念が色褪せてしまったのはなぜか。それは、「社会」の理論家達が、17世紀末のニュートンによる力学的宇宙観の大成功に幻惑され、我こそは、「社会」における法則を発見するニュートンたらん、としたことに負う。2人の論者の言を引こう。

続きを読む "自然法(natural law)から自然法則(natural laws)へ、あるいはブルジョアジーの頽廃について"

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2006年6月19日 (月)

立憲主義と宗教改革(2)

 前回の続きです。

1)立憲主義と「公-私の分離」について

 長谷部恭男氏(東大の憲法学教授)はこのように考えているようです。多くの人間が暮らすこの社会で、人はそれぞれ異なる多様な価値観を持って生きている可能性が高い(価値の多元性)。で、場合によっては、これらの価値観は、互いに最終的に比較不能で、調和し得ないかもしれない(比較不能な価値観の対立、「神々の闘争」)。それだとしても、社会生活の便益とコス