書評・紹介

2008年7月18日 (金)

思想史研究における生産者主権と消費者主権

 思想史の研究には、大別して二つのアプローチ、ないし目的があるだろう。

 一つは、「思想」史である。つまり、歴史的に実在したある特定の人間の思惟の過程、その帰結、達成、影響を、できる限り内在的、詳細に理解した上で、研究者の立場から現代的意義を考えること。

 二つめは、思想「史」である。ある特定の時、場所に芽生えた、ある個人の思惟が、いかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで誕生し、そしていかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで人々に受け入れられ、流通し、変容していったのか、を可能な限り理解したうえで、その一連のプロセスが、研究者の生きる現代にとっていかなる歴史的意味を有しているのか、を考えること。

 以上の二つである。そして、いささか唯物的(「唯物論」的ではない!)謂いにはなるが、前者を、「思想の生産者主権」アプローチ、後者を「思想の消費者主権」アプローチ、と名づけてみよう。

続きを読む "思想史研究における生産者主権と消費者主権"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月14日 (月)

若い衆に入ったら、子供心でいるんじゃありません

 下記の本が面白い。

高橋敏『江戸の教育力』ちくま新書(2007)

 本書は、近世日本の教育・社会史の専門家が、その三十年来のフィールドワークの歩みを総決算したもので、内容はすべて著者自身の調査・研究に基づくという。興味深く、新書ながら力作であると思う。

 特に印象深かったことは五つある。

続きを読む "若い衆に入ったら、子供心でいるんじゃありません"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月20日 (金)

なぜプロテスタンティズムは異端として殲滅されずに済んだか

 ヨーロッパにおける宗教改革については、以前にも触れたことがある。

立憲主義と宗教改革(1)

立憲主義と宗教改革(2)

 ただそれは、宗教改革のもたらした思想史的影響を、関曠野のガイドラインに沿って簡略にまとめただけで、史実としての宗教改革がいったいなんであったのか、ということにはほとんど触れていない。今回改めて、歴史学の対象としての宗教改革の全体像を知りたくて、下記の書をひも解いてみた。

小泉 徹『宗教改革とその時代』山川出版社(1996)
(世界史リブレット27)

続きを読む "なぜプロテスタンティズムは異端として殲滅されずに済んだか"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年6月17日 (火)

安丸良夫『神々の明治維新 -神仏分離と廃仏毀釈- 』岩波新書(1979) (ver.2)

 著者は令名の高い思想史家である。特に、近世から近代にかけて、西暦で言えば、1800年代の日本についての考察で、ベーシックな業績を幾つも出している。

 本書は、その優れた書き手によって、いわゆる「廃仏毀釈」として高校日本史で教えられてきたものが、文明開化における単なるエピソードではなく、日本人の心性に甚大な痕跡を残したものであることを、史実に沿って叙述したものだ。「廃仏毀釈」についてその全体像をコンパクトにまとめたものは、本書が初めてだったように思うし、現在でもおそらく新書レベルでは唯一ではないか。「その時、いったい何がおきていたのか」を知るには、とりあえず、本書で十分だろう。また、明治維新、すなわち近代日本を再考するために、読んでおかねばならない一冊と言ってもよい。

続きを読む "安丸良夫『神々の明治維新 -神仏分離と廃仏毀釈- 』岩波新書(1979) (ver.2)"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月14日 (土)

日本思想の通史として(ver.2)

 己が普段の生活の中で志向し、無意識に呼吸して脳細胞を満たしている思想というものを見直すことは難しい。しかし、時折そういう精神のオーバーホールをする必要は誰にでもあろう。そんなときは、歴史に徴してみるに若(し)くはない。それも長いスパンで概観を与えてくれるものがありがたい。

 ただし、一気に読めるものがいい。どれほど詳細でも、単なる事実の羅列は、読み手を歴史の迷宮へと向かわせるだけだ。それならばいっそ、枝葉を捨てて、本質に直入せざるを得ない類の物理的軽さのほうが好ましい。なにしろ読むこと自体が目的ではなく、己の頭脳の分解掃除用の道具として、使わせてもらうのが狙いだから。その意味からすれば、しっかりとした著者独自の図式(シェーマ)のあるほうが実は役に立つ。

続きを読む "日本思想の通史として(ver.2)"

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年6月12日 (木)

A Historical Survey of Knowledge Theory

 以前の記事で「知識 knowledge」について書いた。その極めてコンパクトな理論史的概観は、下記で得られる。

野中郁次郎、竹内弘高『知識創造企業』東洋経済新報社(1996)
Ikujiro Nonaka,Hirotaka Takeuchi,The Knowledge-Creating Company,Oxford Univ Pr(1995)
第二章 知識と経営(2. Knowledge and Management)

 西洋哲学史や思想史に関心や知識のある方には、その記述の粗っぽさに不満が残るだろうが、たまには経営学書なるものをのぞき見ることも無駄ではあるまい。 また、西洋、及び日本の知識理論(認識論)をたかだか16ページでダイジェストするなどという冒険は、その道の専門家においてはかえって容易になされないだろう。そ の意味で、異分野の著者たちの勇気を玩味しない手はない。ある種、文句を言いつつの頭の整理には都合がよいといえる。

続きを読む "A Historical Survey of Knowledge Theory"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 5日 (木)

「法の支配 rule of law 」考

 「法の支配 rule of law 」とは、

「統治される者だけでなく統治する者も、(統治者が定めた〈法律〉ではなく)統治者と被統治者の上にある〈法〉に従うべきであるという観念」*

であり、歴史的には

「〈法律〉から区別される〈法〉は、自律的諸権力から成る政治社会を法共同体として存立させた法、自律的諸権力がそれぞれ自己の実力によって実現する権利の総和としての伝統的な法にほかならなかった。」*

 以上を、一般論ではなく具体的な歴史的文脈、特にイングランドの史的文脈で語ると以下のようになる。

続きを読む "「法の支配 rule of law 」考"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 1日 (日)

セコイアはいかにして水を100m以上持ち上げるか?

「 道管の中につまっている水は、結束力が強く、上から強い力で引き上げられても、決して水柱が切れる(気泡が入る)ようなことはない。そしてまた、蒸発によって水を吸い上げる力は、われわれの想像をはるかに越えるものであり、この蒸発を防ごうと思えば、数百気圧の力が必要である。逆にいえば、数百気圧の圧力で押し上げるのと同じ力で、水は吸い上げられる。だから、五〇メートルや一〇〇メートルの木といえども、水は難なく吸い上げられるのである。」
 瀧本敦『ヒマワリはなぜ東を向くか』中公新書(1986年)、p.111
 1998年3月15日付21版

続きを読む "セコイアはいかにして水を100m以上持ち上げるか?"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月29日 (木)

あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(5・完結)

「 ***** 様                               2008年5月26日

 このたびはブルーバックス『新装版 集合とはなにか』をお読みいただき、ありがとうございます。

 ご指摘の件でございますが、確認したところ、たしかに誤植でございました。申し訳ありません。

 次回重版の際には、訂正させていただきます。

 今後は、このような誤りのないよう、細心の注意を払って本づくりをしてまいります。

 これからも、ブルーバックスをどうぞよろしくお願いいたします。

                          講談社ブルーバックス出版部 堀越俊一」

続きを読む "あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(5・完結)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月25日 (日)

あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(4・結語)

T_NAKAさん、他の皆さん、どうも。再説です。

■対角線論法におけるカントールの意図、戦略

 カントールの論証の意図は、

「ある集合とそのべき集合は、異なる濃度をもっている」

または、

「ある集合とそのべき集合は、一対一対応しない」

とうことです。

 そのうえで、「ある集合とそのべき集合は、一対一対応する」と仮定して、矛盾を引っ張り出す、という戦略です。

 そして、一対一対応原則の言い換えが、先のイ)とロ)に他なりません。

■なぜ、この表がまずい、あるいは合理的でないか

続きを読む "あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(4・結語)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月24日 (土)

あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(3)

 対角線論法に基づいて、この表を読んでみます。

            A1     A2       A3     A4

  1  1∈A1  1∈A2   1∈A3   1∈A4

    2  2∈A2  2∈A2   2∈A3   2∈A4

    3  3∈A3  3∈A3   3∈A3   3∈A4

  ・・      ・・      ・・             ・・           ・・

この表は、

 イ)同じ部分集合を二度数えない。すなわちiとjとが異なっていればAi≠Ajである。

 ロ)数えもれがない。つまり、すべてのAの部分集合は必ずA1、A2、A3、・・・のなかに出てくる。

という条件に従って、読まなければなりません。

続きを読む "あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(3)"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年5月23日 (金)

あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(2)

T_NAKAさん、かがみさん、どうも。

1)用語法について

この場合、「積集合」とあるのは、著者竹内外史氏のマイナーな用語法のようです。

本書、pp.70-71
「集合Aがあたえられたとき、Aのすべての部分集合全体からなる集合をAの積集合といってP(A)で表します。」

とありますので、通常の用語法では、「べき集合」と表現されているものです。

続きを読む "あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・(2)"

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年5月20日 (火)

あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・

 重箱の隅を楊枝でせせる風なことは、元来趣味ではないのだが(いや、ホントに)、知った以上、捨て置くこともできないので、一言書いておこう。

 今、中学生と下記の書を読んでいる。

 竹内外史『集合とはなにか』講談社ブルーバックス(2001年)

 名著の誉れ高いが、御多分に洩れず私も長い間、積ん読状態。そのうち何処にか消えてしまった。新装版を買い直し、どうせ読むならしっかり読もうと、件の中学生と1頁づつ読んでいる。

 そうしたら、あろうことか、最初の山場、「カントールの対角線論法」の箇所に間違い、ないし誤植(と思われるもの)があった。

続きを読む "あのぉー、まちがってる(みたいな)んですけど・・"

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2008年5月17日 (土)

あなたはダメな奴である

 確かに、あなたはダメな奴である。しかし、その苦悩ゆえにあなたは自由なのだ。

「たしかにギリシアの古典的哲学からストアに至るまで、あるいは東洋の諸宗教の中でも、人間が死を重大に考えるということを鎮静せしめる多くの試みがなされてきた。そしてその度合いに応じて、歴史的世界の否定も相当の現実性をあらわしてきたといってよいと思う。しかしこの道は肉体をもって生存する自由な存在としての人間に真に対応できなかったといえるのではないか。もちろんインド的救済の道が、あるいはギリシア的救済の道が、全然成り立たないということはできないであろう。しかし痛苦をもつ肉体と関わりをもつ人間的自由は、おのずと歴史的救済を志向するのではないだろうか。肉体がなければ苦悩は苦悩とならない。しかし自由がなければこの苦悩の意味やその解決は求めないであろう。」
 大木英夫『終末論』紀伊国屋新書(1972年)、p.50

「旧約聖書をその源泉とする終末論は、人間を常に未来を志向するがゆえに人格的に学び成長する存在として捉える。それは一定の論理というより、希望を失わず未来を志向するがゆえに自己の対し批判的であろうとし、罪や過ちを反省する態度を意味している。ゆえに終末論は罪の論理と不可分のものである。」
 関曠野『歴史の学び方について』窓社(1997年)、p.24

〔注〕フォントカラーは引用者による。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 4日 (日)

太閤検地の再検討

 少し前に、石高制について四回ばかり記事(下段・注参照)を書いた。今回気になり、その記事を自分で読み直したら、幾分おかしいことに気付いたので、再述する。

 中身は、池上裕子『織豊政権と江戸幕府』(日本の歴史15)、講談社(2002年)、第五章、「1 太閤検地の再検討」、pp.172-190、のリライトである。

 同著のその節における池上氏の本来の意図は、これまで、戦後マルクス主義経済史学の強い影響力の下で、結果的に日本近世史上、特権視されてきた‘太閤検 地’を、もう少し長いスパンで見直すことで、中世、または戦国期からの連続性の中で‘太閤検地’を妥当に評価し直そうというものである。しかし、私の目的 は、その内の‘石高制とはなにか’という部分に限定される。ただ、その限定した目的だけでも、事が少々ややこしいので、頭の整理には役立つと思う。

■斗代、ほかの再定義

続きを読む "太閤検地の再検討"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 3日 (土)

「文明」再考

「 以上のようにチベットでは仏教は深く根を下ろし、社会的な拡がりを持ち民衆の間に浸透して行くとともに、高い哲学的発展をとげ、ここに世界で特異なチ ベット仏教、俗にいうラマ教が形成されたのである。この意味で、・・、チベットは仏教が現在にいたるまで常にその文化の主流を形成して来た唯一の国であ る。このチベット仏教はチベット内部のみならず、十三世紀から、特に十六世紀以来蒙古に伝播し、ヒマラヤ山中の小国であるブータン、シッキム、そしてネ パールの北部をも含む内陸アジアの中部にチベット仏教圏を形成している。また、今はほとんどなくなってしまったインド仏教の原典の忠実な翻訳の数々をもつ チベット仏教は、仏教学においても重要な位置をしめている。
 このような歴史的・宗教的背景をもつチベット人に接してみると、日本人などには見られないほどの強い宗教的バックボーンがあることを感ずる。それはラマ 僧ばかりでなく、乞食をしながらインド巡礼にくるチベット人にも感じられるものである。これはヨーロッパのキリスト教諸国、モスレム教のアラブ諸国、ヒン ドゥ教のインドの人々に共通する宗教に鍛えられた精神の強さである。
 日本人が高度の文化をもち、その知識においては比類ないほどのすぐれたものを持ちながら、強い精神的バックボーンを持たず、常に落着きがないのは、いず れの宗教、哲学も強い根をおろさず、また日本独特の、道徳までも規制する宗教的・哲学的発展がなされなかったためではなかろうかと、チベット人に接したと きに感じたのである。」(1)

続きを読む "「文明」再考"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月30日 (水)

無知のヴェール(veil of ignorance)

「・・、各当事者は、人間についての一般的な事実 - 世の中には、健康な者もいれば病弱な者もおり、裕福な者もいれば貧乏な者もいるというような事実 - は知っているものの、自分自身の属性 - 自分自身が健康か病弱か、裕福か貧乏か、有職者か無職者か、自分はどのような生き方を善いとするか - についての情報はまったく与えられていないのである。」
平野仁彦・亀本洋・服部高宏『法哲学』有斐閣(2002年)、第1章、p.15

 上記は、ロールズ(John Rawls)の正義論において、人々が原初状態(original position)から、契約状態に移行する際、ロールズのいう「正義の二原理」をもし採択するならば、こういう条件がなければならないだろう、として掲げた、仮定ないし条件の一つだ。それを「無知のヴェール veil of ignorance 」という。

 ただ、上記教科書の説明の仕方はちとどうかと思う。「自分自身が健康か病弱か」、「裕福か貧乏か」なんて判断できないなら、そもそも意思能力、民法第7条の「事理を弁識する能力」(事理弁識能力)がない状態としか言えないだろう。それでは契約もできまい。

続きを読む "無知のヴェール(veil of ignorance)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月26日 (土)

ある書評

 下記は、私が勧めて、知人に書評を書いてもらったものである。この人物については、本記事の最後に種明かしをするので、まずは、全文を読んで戴きたい。

書評
戸田山和久『科学哲学の冒険 -サイエンスの目的と方法をさぐる-』NHKブックス(2005年)
********************************************
 この本は、主に大学一、二年生向けの「科学哲学」の入門書だ。まず、「科学哲学」という言葉を聞いて、理系の「科学」と文系の「哲学」が一緒になったこの言葉に疑問を持つ、あるいは難しそうだ、とどこか敬遠しがちになってしまうかもしれないが、本書は対話形式で、なかなか読みやすく書かれている。

続きを読む "ある書評"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月16日 (水)

リマの江戸人

網野:
 ・・・。
 先ほどアメリカの話が出ましたが、十七世紀の初頭にペルーのリマに日本人が二十人いたことは確実なのですよ。これはペルー史をやっている私の長男(注・網野徹哉氏)に聞いたのですが、メキシコにも相当いたらしいですね。彼らは、宮城県の金華山沖から北回りで行ったようですね。私は南からではないかと思っていたのですが。

川勝:
 黒潮→北太平洋→カリフォルニアの海流のルートでしょう。スペインのガレオン船がアカプルコからマニラに来て、どうやってアカプルコに戻るかというと、同じ海流のルートです。

網野:
 明治時代、伊予の漁民がこのルートで、毎年のようにカナダのバンクーバーに行ってるのです。難破したことなどないと言っていました。

川勝平太/濱下武士 編著『海と資本主義』東洋経済新報社(2003年)、pp.198-199

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月12日 (土)

開発援助“帝国主義”(さらに少し追記)

 あるコメントへのresから敷衍して記事化しておくことにする。

 これまで、開発途上国への援助は、主に旧宗主国を主体として、アフリカなら西欧諸国、中南米ならアメリカ合衆国、アジアなら日本、という具合に分担化されてきた。

 この動きは、第二次大戦終了後から延々と続いてきた。「延々と続いてきた」ということは、開発援助は大抵失敗していた、ということに等しい。なぜなら、「開発」援助がうまく行っているなら、途中で経済的に自立し、先進国からの援助なしで自立できているはずだからである。

■なぜ、先進国の開発援助は失敗しつづけたのか

続きを読む "開発援助“帝国主義”(さらに少し追記)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月10日 (木)

ロゴスという名のエコノミスト(A economist of the name to call Logos)

 久しぶりに再読して、その見事さに感じ入ったエッセイが下記。所収されている単行本も品切れなので、短いこともあり、全文、掲載することにした。著作権の問題はできれば目をつぶって戴きたい。所収本は、アマゾンのマーケットプレイス(古書)でもごく安価だ。興味をもたれた方は、購入されてしまうことをお勧めする。小見出しは、renqingが付けた。blogという媒体上、比較的長い文にはマイルストーンが必要と感じたためである。著者の意図をいささかでも損なわないことを願う。

〔補註2008/04/10〕「ロゴス」に関しては、下記もご参照戴ければ幸甚。
教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演 信仰、理性、大学――回顧と考察 (2006.09.12) (2)


関曠野「欲望を思考する」(1985年) 
 〔 同著『野蛮としてのイエ社会』御茶の水書房(1987年)所収、pp.345-347 〕

続きを読む "ロゴスという名のエコノミスト(A economist of the name to call Logos)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 5日 (土)

徳川期における法人化、紀律化を巡って(1)

「わが近世の「家」は、ヨーロッパの(そしてある程度まではわが中世の「家」もそうであったと考えられるが)私的・自立的な Haus とちがって、上位者への奉仕から切り離しては観念されてなかった。いいかえれば近世の「家」は、「家職」= 「奉公」という目的のための一種の目的団体に他ならない。」
 石井紫郎『日本人の国家生活』(日本国制史研究Ⅱ)東京大学出版会(1986年)、p.175

「同族、ならびに、その基礎にあるイエなるものは、目標志向団体(goal oriented corporations)であって、そのおのおのは、自己の活動の成果、およびそれ自身の無際限な永続化に関心を抱いている。」
 F.L.K.シュー『比較文明社会論』培風館(1971年)、p.315

 ここで、ガス欠となった。次回へ続くことにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 2日 (水)

日本初期近代(徳川期)における「勤勉革命 Industrious Revolution 」(2)

■社会的紀律化 (Sozialdisziplinierung)とはなにか

「社会的紀律化とは、近代ヨーロッパの成立過程を「紀律 (disciplina)」」の深化と拡大という観点から描き出した概念である。類似の概念としてはマックス・ヴェーバーの「合理化」やノルベルト・エリアスの「文明化」があるが、これらは社会経済的諸関係の長期変動のプロセスを外在的・社会学的に記述したものであった。
 これに対して、社会的紀律化の概念的特徴は、客観的要素にとどまらず同時代人の意思や行動といった主観的要素までも含めた形で、政治・経済・社会・文化のあらゆる局面で進行した秩序形成と自己抑制のプロセスを内在的・歴史的にとらえようとする点にある。その意味において、社会的紀律化の概念は、精神史・国制史・社会史を綜合し、国家権力から中間的諸権力をこえて民衆の心性までも射程におさめた包括的な分析枠組といえる。」
勝田有恒/森征一/山内進編著『概説西洋法制史』ミネルヴァ書房(2004年)、p.226

続きを読む "日本初期近代(徳川期)における「勤勉革命 Industrious Revolution 」(2)"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年3月29日 (土)

日本初期近代(徳川期)における「勤勉革命 Industrious Revolution 」(1)

■「勤勉革命 Industrious Revolution 」とはなにか

「江戸時代の農業生産力の上昇は、間作・裏作や二毛作による土地利用頻度の高度化という点ではイングランドに似ていたが、経営規模の縮小、家畜利用の減少という点では正反対の方向に向かっていた。労働節約的ではなく、牛馬の代わりに家族労働力を惜しみなく注ぎ込む、労働集約的な発展経路を進んだのである。
 このような変化を速水融氏は「勤勉革命」(Industrious Revolution)と呼ぶ。密植に耐える水稲農耕が土地節約的農業を可能にしていたという生態学的な条件を前提にして、人口密度が高く、耕地・人口比率が低かったことが、土地利用の高度化と投下労働量の増大からなる労働集約的農業を生んだのである。産業革命 (Industrial revolurtion)の労働節約的な性格と対比させて「勤勉」を強調したのであるが、その内実は、長時間の激しい労働であった。」
鬼頭宏『文明としての江戸システム』日本の歴史19、講談社(2002年)、p.275

続きを読む "日本初期近代(徳川期)における「勤勉革命 Industrious Revolution 」(1)"

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2008年3月27日 (木)

変ることの難しさ

「・・・。先入観は、それを植えつけた人々にも、そもそもこうした先入観を作りだした人々にも、いわば復讐するのである。こうして公衆の啓蒙には長い時間がかかることになる。
 おそらく革命を起こせば、独裁的な支配者による専制や、利益のために抑圧する体制や、支配欲にかられた抑圧体制などは転覆させることができるだろう。しかし革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。新たな先入観が生まれて、これが古い先入観ともども、大衆をひきまわす手綱として使われることになるだけなのだ。」
カント「啓蒙とは何か」pp.13-14、永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)所収

続きを読む "変ることの難しさ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月24日 (月)

儒家思想における voice or exit

 Albert O. Hirschman の提起した、社会集団を考察するための、voice or exit  という二分法は、普遍的な分析装置である。

 例証として、一つの儒家テキストのを挙げておこう。

為人臣之禮:不顯諫。三諫而不聽,則逃之。子之事親也:三諫而不聽,則號泣而隨之。
禮記 曲禮下 113

 そして、このコンセプトが、Max Weber の Anstalt と Verein にピッタリ対応するものであることは、明敏なる読書子なら、容易に気付かれる事だろうと思う。

 このことから、様々なアイデアが導出できるのだが、身辺多忙のため、ここで続く、ことにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月16日 (日)

共和制と「法の支配」

 某MLで共和制のことが話題になった。

 以前から、すっきりした語義がないか、と探してはいたのだが、改めて探すことにした。その某MLでは、共和制のキモは、「法の支配」であると指摘されていた。なぁーるほど。その線で探してみようと思い立った。すると、人間、考えればなんとかなるもので、以前読んでいた、カントの著書が心に浮かんだ。あぁ、これ、これ、と早速飛びついたら、案の定ありましたね。

 それが、下記である。

 ちなみに、私が愛用する二つの工具書、平凡社世界大百科事典「共和制」、岩波哲学・思想事典「共和主義」、各項目には、この肝心の「法の支配」には一言も触れていなかった。一方、Republicanism (Stanford Encyclopedia of Philosophy) には、共和主義と「法の支配」の関連についてしっかり書かれていたことを付言しておく。

続きを読む "共和制と「法の支配」"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年3月 8日 (土)

「石高制」ってなに?(4・結語)

 私は、戦国期の最新通史として池上裕子氏の著作を読んだのだが、前回記事の箇所を読んで仰天してしまった。確かに、池上氏自身が少数派だとは書いている が、事はかつての「太閤検地論争」を含めて、太閤検地や徳川期の「石高」の前提をすべて根底から揺るがすものだ。私が注目評価する、日本近世経済史研究を 一新した Hayami school の研究蓄積でさえその例外ではない。彼等も「石高」を生産高と認識しているのだから。

続きを読む "「石高制」ってなに?(4・結語)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月 7日 (金)

「石高制」ってなに?(3)

 身辺多忙で記事を書くのが間遠くなってしまっている。

 池上裕子氏(成蹊大)の議論はこうである。

 戦国期から太閤検地期における史料での斗代の使用法をみると、

 斗代 = 本年貢 + 加地子(一種の小作料)

となっている。「斗代」を「年貢」と表記している史料もある。こういうことが一般的になると、これらを負担する側でも、取る側でも、両方込みで、「年貢」「斗代」とみる意識が成立する。

続きを読む "「石高制」ってなに?(3)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月28日 (木)

「石高制」ってなに?

古井戸さんのコメントがらみから。

>米自体が貨幣の役割

 はい、そうだと思います。そしてこれには重要な理論的問題が秘められています。

 かつて、カール・ポランニー(Karl Polanyi)は、貨幣を論じて、多目的貨幣 all purpose money と、特定目的貨幣 special purpose money という概念を提出*しました。

続きを読む "「石高制」ってなに?"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

武士と変動相場制(2)

古井戸さん、コメントありがとうございます。

>米自体が貨幣の役割

これは大事な論点なので、別記事にします。

>米で給料をもらう武士が相場、と睨めっこ、して何ができるのでしょうか?

これについては、私が語るより、参考文献から引用しましょう。

続きを読む "武士と変動相場制(2)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月22日 (金)

武士と変動相場制

 「士族の商法」という言葉がある。たいていは揶揄として使われる。しかし、これは本当なのだろうか。

 徳川期、武士の禄は、米で支給された。その一方で、武士を取り囲む経済生活は、実質的に貨幣経済である。したがって、武士も支給された米を換金しなければならない。しかし、現代の米価と異なり、当時の米価は相場品である。その上、幣制が、金遣い、銀遣い、銭使いと複雑で、取引のオーダーによって、支払い貨幣は異なっていたのだ、金⇔銀⇔銭、にもそれぞれ相場がたち、日々変っていた。

続きを読む "武士と変動相場制"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

ヘルプとサポート

 あるとき、ある場所で、岸辺から川面を見つめている人物Aがいるとする。どうもそのAは空腹の様子で、川を泳いでいる魚が欲しいらしい。そこに、魚釣りの技術と知識を持つもう一人の人物Bが通りかかる。通りかかりのBは、ぽつねんと所在なさげに佇んでいる件(くだん)の人物に親切にも声をかけた。

B「どうしたんだい。」
A「私は魚が欲しいのだ。」
B「そうか。俺は魚の釣り方を知っているぞ。では、私が釣ってあげよう。」

こうして、初め、Bは己の技術と知識を使って、川から魚を釣って、Aに与えた。Aは非常に喜び、腹が減っていたので、すぐ平らげてしまった。そこで、またAは言った。

続きを読む "ヘルプとサポート"

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年1月14日 (月)

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫(1989年)(その2、1/16追記)

■2)t-maru氏の2008.01.09付けコメントの前半部分について

「ヴェーバーがルターを取り上げているのは、あくまで「トポス」としてであり、問題設定の開設、導入部に過ぎません。
羽入氏を含め多くの人がそこが本論であるように誤解しています。」

 この点については、羽入氏に対する折原氏の反論などもあり、以前よりは理解は深まっていると思う。そもそも、第二章を読めばこれが中心だということは、学部学生時代の私でも一応了解できた。それゆえにかえって第一章の位置づけが私の中では長く不明瞭だったわけだ。

続きを読む "マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫(1989年)(その2、1/16追記)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月13日 (日)

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫(1989年)(その1)

〔目次〕
****************
訳者序文
文庫版への序
著者序言
第1章 問題
1 信仰と社会層分化
2 資本主義の「精神」
3 ルッターの天職観念―研究の課題
第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
1 世俗内的禁欲の宗教的諸基盤
2 禁欲と資本主義精神
訳者解説
主要索引
****************

 Weberが遺した巨大な仕事の中で、この論文のみに執着することはあまり生産的ではない。なぜなら、安藤英治によって明らかにされたように、"Archiv"に発表した原論文に対して、彼の晩年に刊行された現論文は徹底した改訂が施されているからである。

続きを読む "マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫(1989年)(その1)"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月 3日 (木)

マックス・ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫(1980年)(リンク追加)

 羽入氏の Weber に関する病跡学的(pathographic)な著書について3回()ばかり記事を書いた。

 Weber の精神疾患の発症については、これまで「父殺し」の側面から触れられる事ばかりで、今ひとつ私自身として釈然としなかった。その中で、 Emmy Baumgarten 恋愛問題との関連を一つの契機として示唆していたのは、故安藤英治氏だけだったように思う。

続きを読む "マックス・ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫(1980年)(リンク追加)"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年12月31日 (月)

羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ』PHP新書(2007年)(余計なお世話編)

 列島の戦国期から徳川初期の変遷を、社会組織原理の変遷で再解釈するために、戦国期に関する概説書を今日明日で読み切らねばならない、というのに、みすず書房版大久保訳の Marianne Weber"Max Weber: Ein Lebensbild" をチラチラ拾い読みをしてしまった。

 そこで少々気になった点があるので、注記しておこう。

 この羽入氏の著書で一つ勉強になった点は、みすず版の「ウェーバー伝」には訳出されていない部分がチョコチョコあるということである(本書、p.38、pp.56-57)。正直、これはひどいと思った。羽入氏の指摘するとおり、訳者としては越権行為である。

続きを読む "羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ』PHP新書(2007年)(余計なお世話編)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)