思想史

2008年7月18日 (金)

思想史研究における生産者主権と消費者主権

 思想史の研究には、大別して二つのアプローチ、ないし目的があるだろう。

 一つは、「思想」史である。つまり、歴史的に実在したある特定の人間の思惟の過程、その帰結、達成、影響を、できる限り内在的、詳細に理解した上で、研究者の立場から現代的意義を考えること。

 二つめは、思想「史」である。ある特定の時、場所に芽生えた、ある個人の思惟が、いかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで誕生し、そしていかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで人々に受け入れられ、流通し、変容していったのか、を可能な限り理解したうえで、その一連のプロセスが、研究者の生きる現代にとっていかなる歴史的意味を有しているのか、を考えること。

 以上の二つである。そして、いささか唯物的(「唯物論」的ではない!)謂いにはなるが、前者を、「思想の生産者主権」アプローチ、後者を「思想の消費者主権」アプローチ、と名づけてみよう。

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2008年7月14日 (月)

若い衆に入ったら、子供心でいるんじゃありません

 下記の本が面白い。

高橋敏『江戸の教育力』ちくま新書(2007)

 本書は、近世日本の教育・社会史の専門家が、その三十年来のフィールドワークの歩みを総決算したもので、内容はすべて著者自身の調査・研究に基づくという。興味深く、新書ながら力作であると思う。

 特に印象深かったことは五つある。

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2008年6月23日 (月)

幕末の危機意識は誰のものか?

 「明治維新」イデオロギーを強く彩る「危機」意識。これは対外的な意識だけではなく、徳川社会そのものへの危機意識でもある。つまり、内と外の「危機」への認識である。

 例えば、開国を巡る「危機」を論じるのは、丸山真男「国民主義」論であり、橋川文三「ナショナリズム」論であった。

 近年の代表的論者は安丸良夫であり、彼の、『神々の明治維新』(1979)・Ⅰや、『近代天皇像の形成』(1992)・第四章「危機意識の構造」、などで、平田篤胤の国学や会沢正志斎の『新論』に注目し、説得的に論じている。

 そこで、平田や会沢の危機意識はよくわかるのだが、ではそれに共鳴したのは一体どのような人間集団だったのか、ということが、一つ引っかかる。

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2008年6月17日 (火)

安丸良夫『神々の明治維新 -神仏分離と廃仏毀釈- 』岩波新書(1979) (ver.2)

 著者は令名の高い思想史家である。特に、近世から近代にかけて、西暦で言えば、1800年代の日本についての考察で、ベーシックな業績を幾つも出している。

 本書は、その優れた書き手によって、いわゆる「廃仏毀釈」として高校日本史で教えられてきたものが、文明開化における単なるエピソードではなく、日本人の心性に甚大な痕跡を残したものであることを、史実に沿って叙述したものだ。「廃仏毀釈」についてその全体像をコンパクトにまとめたものは、本書が初めてだったように思うし、現在でもおそらく新書レベルでは唯一ではないか。「その時、いったい何がおきていたのか」を知るには、とりあえず、本書で十分だろう。また、明治維新、すなわち近代日本を再考するために、読んでおかねばならない一冊と言ってもよい。

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2008年6月14日 (土)

日本思想の通史として(ver.2)

 己が普段の生活の中で志向し、無意識に呼吸して脳細胞を満たしている思想というものを見直すことは難しい。しかし、時折そういう精神のオーバーホールをする必要は誰にでもあろう。そんなときは、歴史に徴してみるに若(し)くはない。それも長いスパンで概観を与えてくれるものがありがたい。

 ただし、一気に読めるものがいい。どれほど詳細でも、単なる事実の羅列は、読み手を歴史の迷宮へと向かわせるだけだ。それならばいっそ、枝葉を捨てて、本質に直入せざるを得ない類の物理的軽さのほうが好ましい。なにしろ読むこと自体が目的ではなく、己の頭脳の分解掃除用の道具として、使わせてもらうのが狙いだから。その意味からすれば、しっかりとした著者独自の図式(シェーマ)のあるほうが実は役に立つ。

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2008年6月12日 (木)

A Historical Survey of Knowledge Theory

 以前の記事で「知識 knowledge」について書いた。その極めてコンパクトな理論史的概観は、下記で得られる。

野中郁次郎、竹内弘高『知識創造企業』東洋経済新報社(1996)
Ikujiro Nonaka,Hirotaka Takeuchi,The Knowledge-Creating Company,Oxford Univ Pr(1995)
第二章 知識と経営(2. Knowledge and Management)

 西洋哲学史や思想史に関心や知識のある方には、その記述の粗っぽさに不満が残るだろうが、たまには経営学書なるものをのぞき見ることも無駄ではあるまい。 また、西洋、及び日本の知識理論(認識論)をたかだか16ページでダイジェストするなどという冒険は、その道の専門家においてはかえって容易になされないだろう。そ の意味で、異分野の著者たちの勇気を玩味しない手はない。ある種、文句を言いつつの頭の整理には都合がよいといえる。

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2008年6月 7日 (土)

justified true belief

 表題は、「知識 knowledge」のよく使われる定義である。プラトンから連綿と続く西欧哲学の共通項として最も簡潔なものだ。それを前提することで、下の文の指摘がどれほど画期的ものであるかがよく分かる。

「「知識」の仕事への適用
 「ダーウィン、マルクス、フロイト」と言えば、「近代社会をつくった人間」としてよく引き合いに出される三人組である。しかし世界に公正さというものがあるならば、マルクスの代わりにテイラーが入れられるべきである。
 とはいえ、テイラーが正当な評価を受けなかったことは、小さな問題にすぎない。
 深刻な問題は、最近100年間における生産性の爆発的な向上をもたらし、先進国経済を生み出したものは、「知識」の仕事への適用だったという事実を、ほとんどわずかの人間しか認識していないところにある。」
 P.F.ドラッカー『ポスト資本主義社会』ダイアモンド社(1993)、pp.82-83

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2008年5月27日 (火)

日本文藝の歴史的特質

「結語  日本文藝の歴史的特質について言うべきことは、少なくないであろうが、いまは、ひとつの愚感をしるすに止めたい。それは、分裂とか対立とかいった性格が、あまり濃厚でないことである。精神と自然との分裂はもともと日本には無く、シナ文化の影響によって分裂現象を生じたのちでも、外国におけるような両極性が明瞭ではない。それはまた、貴族文化と庶民文化とが、はっきりとした対立を示さない事実とも、関係づけて考えられよう。貴族的←庶民的という上昇現象は、猿楽においてその典型的な例が見られ、今様歌謡や連歌などにも、類似の事例がある。しかし、同時に、貴族的→庶民的という下向現象も見のがしてはならぬ。貴族化した藝術が、その貴族性ゆえに、かえって民衆に歓び迎えられるという面も、あきらかに存在するのである。貴族と共に貴族的な能楽を賞翫する庶民もあれば、繁瑣きわまる連歌法式を習得することに価値を感ずる町人もあった。そこには、貴族文化と庶民文化とのかなり親近な交流関係が認められるのであって、どうも「おれたちの階級の文化」を主張するような態度は見受けられない。かように分裂性や対立性の希薄なことが、日本の文藝にとって、是であるか非であるかは、断定いたしかねる。本格的な近代化がなかなか進まない原因の ひとつは、その辺に在るのかもしれぬ。しかし、批判はいかようにもあれ、そうした事実自身は、あくまで厳然たる事実だと思うのである。」
 小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫(1993年)、pp.204-205

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2008年5月19日 (月)

惟天地万物父母、惟人万物之霊

「・・伝統的な解釈によればこの言葉は、人間がもっともすぐれた「気」からなり、かくて「五常の性」という徳性が、人心に具備しているとして説かれることが多かった。そうした道徳的本姓の所在に、禽獣と異なる人類の尊厳性が見出されていたのである。」
 平石直昭「近世日本の〈職業〉観」、東京大学社会科学研究所編『現代日本社会第4巻・歴史的前提』東大出版会(1991年)所収、p.43

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2008年4月30日 (水)

無知のヴェール(veil of ignorance)

「・・、各当事者は、人間についての一般的な事実 - 世の中には、健康な者もいれば病弱な者もおり、裕福な者もいれば貧乏な者もいるというような事実 - は知っているものの、自分自身の属性 - 自分自身が健康か病弱か、裕福か貧乏か、有職者か無職者か、自分はどのような生き方を善いとするか - についての情報はまったく与えられていないのである。」
平野仁彦・亀本洋・服部高宏『法哲学』有斐閣(2002年)、第1章、p.15

 上記は、ロールズ(John Rawls)の正義論において、人々が原初状態(original position)から、契約状態に移行する際、ロールズのいう「正義の二原理」をもし採択するならば、こういう条件がなければならないだろう、として掲げた、仮定ないし条件の一つだ。それを「無知のヴェール veil of ignorance 」という。

 ただ、上記教科書の説明の仕方はちとどうかと思う。「自分自身が健康か病弱か」、「裕福か貧乏か」なんて判断できないなら、そもそも意思能力、民法第7条の「事理を弁識する能力」(事理弁識能力)がない状態としか言えないだろう。それでは契約もできまい。

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2008年4月22日 (火)

Republicanismは、共和主義か?

 まつもとさんから貴重なコメント戴いた。

 そこで、資料的なことを書いておこうと思う。

■「共和」の出典

「現在 republic の訳語として用いられる共和という語も、昔も今も細かい内容においてはちがうけれども、大体枠は同じであって、これは中国の古典においてもかなり古くから用いられて来たところで、周の国が乱れて後、共和という政治時代になっている。これは『史記』の「周本紀」に明記されているところである。」
新村出『語源をさぐる』旺文社文庫(1981年)、p.203

■訳語経緯

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2008年4月18日 (金)

ダーウィン進化論の本質(The essence of Darwinism)

**********************************
 プラグマティスト、ジェームスはダーウィン進化論の良き理解者でもあった。彼は、当時広く流布していた、ハーバート・スペンサー流の「まちがったダーウィン主義」を批判していた。スペンサーは、進化が自然環境(風土)、祖先の条件などに起因するとして、社会が変化を決定するという主張がダーウィニズムの本質なのだとしていた。ダーウィンはあらゆる自然の変異が、無方向で無目的であることを積極的に肯定していた。またダーウィンの「選択」の概念には起こったことを後から(ア・ポステリオリ)記述する以上の意味は含まれていない。ダーウィンは、誰も選択しない、ただ結果としての選択が起こるだけなのだ、と言ったのである。しかしスペンサーはダーウィニズムを社会決定論的に読みかえていた。

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2008年4月10日 (木)

ロゴスという名のエコノミスト(A economist of the name to call Logos)

 久しぶりに再読して、その見事さに感じ入ったエッセイが下記。所収されている単行本も品切れなので、短いこともあり、全文、掲載することにした。著作権の問題はできれば目をつぶって戴きたい。所収本は、アマゾンのマーケットプレイス(古書)でもごく安価だ。興味をもたれた方は、購入されてしまうことをお勧めする。小見出しは、renqingが付けた。blogという媒体上、比較的長い文にはマイルストーンが必要と感じたためである。著者の意図をいささかでも損なわないことを願う。

〔補註2008/04/10〕「ロゴス」に関しては、下記もご参照戴ければ幸甚。
教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演 信仰、理性、大学――回顧と考察 (2006.09.12) (2)


関曠野「欲望を思考する」(1985年) 
 〔 同著『野蛮としてのイエ社会』御茶の水書房(1987年)所収、pp.345-347 〕

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2008年4月 6日 (日)

17世紀科学革命と「紀律化」

「ドイツの歴史学において「紀律化」の問題として扱われる過程が、トゥールミンによって別の側面から、十七世紀的合理主義の形成と展開の問題として論ぜられていることは、明らかであろう。トゥールミンは「紀律化」の過程を科学史と連動させ、「紀律化」に伴う「コスモポリス」観の転換を跡づけているのである。」
村上淳一『仮想の近代 - 西洋的理性とポストモダン -』東京大学出版会(1992年)、p.152

 村上氏も述べるように、このトゥールミンの記述はなかなか示唆的である。ここからいくつかの問題群を呼び出せるのだが、それにはしばらく時間を戴くこととしよう。

〔注〕引用文中、トゥールミンと述べているのは、下記の文献である。

スティーブン・トゥールミン『近代とは何か』法政大学出版局(2001年)

Cosmopolis: The Hidden Agenda of Modernity

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2008年3月24日 (月)

儒家思想における voice or exit

 Albert O. Hirschman の提起した、社会集団を考察するための、voice or exit  という二分法は、普遍的な分析装置である。

 例証として、一つの儒家テキストのを挙げておこう。

為人臣之禮:不顯諫。三諫而不聽,則逃之。子之事親也:三諫而不聽,則號泣而隨之。
禮記 曲禮下 113

 そして、このコンセプトが、Max Weber の Anstalt と Verein にピッタリ対応するものであることは、明敏なる読書子なら、容易に気付かれる事だろうと思う。

 このことから、様々なアイデアが導出できるのだが、身辺多忙のため、ここで続く、ことにする。

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2008年3月16日 (日)

共和制と「法の支配」

 某MLで共和制のことが話題になった。

 以前から、すっきりした語義がないか、と探してはいたのだが、改めて探すことにした。その某MLでは、共和制のキモは、「法の支配」であると指摘されていた。なぁーるほど。その線で探してみようと思い立った。すると、人間、考えればなんとかなるもので、以前読んでいた、カントの著書が心に浮かんだ。あぁ、これ、これ、と早速飛びついたら、案の定ありましたね。

 それが、下記である。

 ちなみに、私が愛用する二つの工具書、平凡社世界大百科事典「共和制」、岩波哲学・思想事典「共和主義」、各項目には、この肝心の「法の支配」には一言も触れていなかった。一方、Republicanism (Stanford Encyclopedia of Philosophy) には、共和主義と「法の支配」の関連についてしっかり書かれていたことを付言しておく。

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2008年2月28日 (木)

「石高制」ってなに?

古井戸さんのコメントがらみから。

>米自体が貨幣の役割

 はい、そうだと思います。そしてこれには重要な理論的問題が秘められています。

 かつて、カール・ポランニー(Karl Polanyi)は、貨幣を論じて、多目的貨幣 all purpose money と、特定目的貨幣 special purpose money という概念を提出*しました。

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武士と変動相場制(2)

古井戸さん、コメントありがとうございます。

>米自体が貨幣の役割

これは大事な論点なので、別記事にします。

>米で給料をもらう武士が相場、と睨めっこ、して何ができるのでしょうか?

これについては、私が語るより、参考文献から引用しましょう。

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2008年1月25日 (金)

未来を予言する最良の方法は、未来を作ってしまうことだ(2)

 一年ほど前、以下の記事を書いた。

未来を予言する最良の方法は、未来を作ってしまうことだ

 この点について参考になる章句があったので、備忘として記しておく。

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2008年1月14日 (月)

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫(1989年)(その2、1/16追記)

■2)t-maru氏の2008.01.09付けコメントの前半部分について

「ヴェーバーがルターを取り上げているのは、あくまで「トポス」としてであり、問題設定の開設、導入部に過ぎません。
羽入氏を含め多くの人がそこが本論であるように誤解しています。」

 この点については、羽入氏に対する折原氏の反論などもあり、以前よりは理解は深まっていると思う。そもそも、第二章を読めばこれが中心だということは、学部学生時代の私でも一応了解できた。それゆえにかえって第一章の位置づけが私の中では長く不明瞭だったわけだ。

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2008年1月13日 (日)

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫(1989年)(その1)

〔目次〕
****************
訳者序文
文庫版への序
著者序言
第1章 問題
1 信仰と社会層分化
2 資本主義の「精神」
3 ルッターの天職観念―研究の課題
第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
1 世俗内的禁欲の宗教的諸基盤
2 禁欲と資本主義精神
訳者解説
主要索引
****************

 Weberが遺した巨大な仕事の中で、この論文のみに執着することはあまり生産的ではない。なぜなら、安藤英治によって明らかにされたように、"Archiv"に発表した原論文に対して、彼の晩年に刊行された現論文は徹底した改訂が施されているからである。

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2007年12月30日 (日)

A Letter from Sir Isaiah Berlin (追記)

HEADINGTON HOUSE
OLD HIGH STREET, HEADINGTON
OXFORD, OX3 9HU

30 April 1992

Dear Mr. *******

  Thank you for your letter of 9 April.  I wish I could answer you as fully as you request, but I cannot do it, for the questions are too large, too general.  Thank you for your kind words about my works.

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2007年12月28日 (金)

Weberだけがビョーキじゃない

「画家を志しながら、父との葛藤のなかで科学者となることを選んだことが、ジェイムズの生涯につきまとう深刻な憂鬱症をもたらしたことは多くの伝記作家たちの格好の題材となってきた」
W.ジェイムズ『純粋経験の哲学』岩波文庫(2004年)、p.267、解説(伊藤邦武氏筆)

 いやー、親による子への人格的抑圧とその身体的応答としてのdepressionっていうのはよくあるものだ。

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2007年12月27日 (木)

「羽入-折原論争」への、ある疑問

 日本における、Max Weber 業界に、「羽入-折原論争」なるものがある。この記事は、その彼らの文献学上の初歩的ミスを指摘するためのものだ。

 コメント欄は何らのアクセス制限はしていないので、ご意見のある方はそこを利用して戴いて結構。ただ、それへの応答はあまり期待されぬようお願いしたい。私自身、この問題に少々倦んできたこと、それ以上にこの年末から年始にかけての私自身のわずかばかりの余暇を利用して、近世国制史研究をなんとしても進めたいと考えているので、私の頭脳、体力という資源を割くことが出来ない可能性が高いためである。

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2007年12月24日 (月)

羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ』PHP新書(2007年)

 私は、これまで邦訳ではチョコチョコ Max Weber を読んできた。

 学部1年の「社会科学入門」なる講義で、大塚久雄『社会科学における人間』(1977)、の存在を教えられ読んだ。芋ずる式に大塚久雄『社会科学の方法』(1966)にたどり着き、そこから導かれて、どうしても読みたくなり、岩波文庫旧版の梶山・大塚訳『倫理』に向かった。

 恐らく、学部時代に旧訳で2回読み、学部卒業後、往復の通勤時間を利用して、新訳で2回読んだと思う。あとは時に応じて拾い読み。

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2007年12月19日 (水)

Anstalt と Verein

 Max Weber が団体を議論するときの重要な2類型、Anstalt と Verein。通常の英語との対応を見るとこうなる。

 Anstalt ⇔ institution

 Verein  ⇔  club, association

 Weber は、近代国家は、Anstalt であるという。だから、社会契約説による国家設立という story に、Weberは組しない。

 一方、日本中世の結社原理「一揆」。さて、この「一揆」は果たして、Anstalt か、Verein か。おそらく、Verein なのだろう。そして、幾つか観察から、戦国大名も「一揆」の構造を持っているらしい。すると、その延長線上に構築された徳川国家は、 association ? 

 もう少し、息の長い考察が必要のようだ。捲土重来。

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2007年12月16日 (日)

議論は「競技」である

 私の病臥中、二つのコメントを戴いていた。

足踏堂さんのコメント
「私は、この列島の人たちが議論において、感情を切り離せないでいるのを度々経験してきました。感情に引っ張られて、なにやらわからない「口喧嘩」のようなものになっていく。議論を詰めるということの大切さこそ、近代議会制の要諦だと思います。それなのに、この国のかたちをつくった薩摩なるところでは、「議を言うな」と言った物言いがなされていたようです。ちょっとそういう雰囲気残っていませんかね?」

まつもとさんのコメント
「さらに悪いことには、それが「議論」というものの範型として相続されているように思います。ネット右翼の(たぶん)若者の議論は、彼らの親たちの世代の戯画でもあるのではないでしょうか。」

 幾つか興味深い点を含んでいるので、記事として敷衍してみよう。topic は二つある。

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2007年12月11日 (火)

「地球温暖化は商売道具」という論法

 うーむ、「地球温暖化は商売道具」っていうのは、巧妙なレトリックですね。ある種の「ホンネによるタテマエの暴露」=「イデオロギー暴露」のレトリックです。「地球温暖化」という、正誤の決着可能な事実問題を、「話者の動機」という、価値問題にすり替えるわけです。話者を道徳的に劣化することで、事実問題の「価値(重要性)」を劣化させる論法です。

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2007年12月 8日 (土)

homo homini lupus.「人間は人間にとって狼である」(ver.1.2)

 homo homini lupus. (ただし、動詞 est は普通、省略されている。)

 Man is a wolf to man.

「人間は人間にとって狼である」

 表題の言葉は、Hobbes の言として人口に膾炙している。

 それで、本当に Hobbes がそう書いているのか確認してみることにした。とりあえずは、下記で調べた。

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2007年12月 7日 (金)

自然状態(state of nature)について(2)

 大道安次郎「近代自然法」、新版 社会思想史事典 新明正道編著 創元社(1961年)、pp.114-115、より
*************************************************************************
自然状態(State of nature, natural state)

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2007年12月 6日 (木)

自然状態(state of nature)について(1)

世界の大思想9 ホッブズ リヴァイアサン(国家論)水田洋・田中浩訳
河出書房新社、1980年(新装版第3版)、p.85上段、より

第十三章人類の至福と悲惨にかんするかれらの自然状態について
「こうして次のことが明らかとなる。すなわち、人びとは、すべての人を威圧しておく共通の力をもたずに生活しているあいだは、かれらは戦争と呼ばれる状態にあるのであり、そして、かかる戦争は、各人の各人にたいする戦争なのである。」

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2007年12月 4日 (火)

Himmelfarb vs. Skocpol

 少なくとも、米国東部における政治言説の先鋭な対立は、この二人を機軸にして回転しているように思う。ま、勘だけど。いろいろ調べたいが時間がない。

Gertrude Himmelfarb

Theda Skocpol

* Himmelfarb については下記参照。

橋本努『帝国の条件』弘文堂(2007年)

** Skocpol については下記参照。

シーダ・スコッチポル『失われた民主主義』慶應義塾大学出版会(2007年)

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2007年12月 3日 (月)

現代思想11月号臨時増刊号「総特集マックス・ウェーバー」青土社(2007年)(ver1.1)

 本屋でたまたま目撃してしまい、買ってしまった。優先順位の高い事が他にあると言うのに・・・。

 まだ、ほんの一部にしか眼を通せてないが、早速「これは」という収穫があったのでアイデアがらみのメモ程度だが記録しておこう。

 小谷汪之 「ウェーバーの比較社会学と歴史研究 アジア=インド認識を通して」pp.46-60

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2007年11月30日 (金)

カテゴリー「Stephen Toulmin」作成

 カテゴリー「Stephen Toulmin」を作成した。

 彼を含む、イギリス戦間期の知識人社会、特に、オックスブリッジは実に興味深い。Berlin 、Wittgenstein 、Collingwood 、Keynes  、・・・。

 彼、Toulmin の、『近代とは何か Cosmopolis 』1990(邦訳2001)については、絶えず触れることになる。

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2007年11月29日 (木)

思考モデルとしての法

「決定や行動、発話や議論における時機についての問題は、昔の哲学にとっては中心的なトピックであった。「合理的なことを企てる rational enterprise」際の当のモデルは、十六世紀の学識者にとっては、科学ではなく法律であった。法律学は「実践的合理性 practical rationality」と「時機 timeliness」とのつながりのみならず、地域的多様性のもつ意義、特殊性との関連、および口頭で行う議論におけるレトリックの効力などをも明るみに出す。これと比較してみると、普遍的な自然哲学を目指すすべてのプロジェクトは、人文主義者には疑わしいものに思われた。100年後、事態は逆転していた。デカルトと彼の後継者たちにとっては、時機的な問題とは哲学とは何の関わりもないものであった。かわりに、彼らの目的は、変りやすいすべての現象の背後にある造化の神の永遠の構造を明るみにだすことであった。」
  スティーブン・トゥールミン『近代とは何か』法政大学出版局(2001年)*、pp.53-54

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2007年11月28日 (水)

Adam Smith による反社会契約論

 以下、

 大道安次郎「近代自然法」、新版 社会思想史事典 新明正道編著 創元社(1961年)、pp.116-117

からの引用。

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2007年11月26日 (月)

エロスの饗宴

「 しかもウェーバーもこのエロスの饗宴と無縁ではなかった。彼はグロースとエルゼの子ペーターの父親代わりになるが、エルゼ*との友情は続き、1910年ヴェニスで関係を結んだ。これは五十年間秘められていたのである。さらにウェーバーはスイスのアスコナで、フリーダ・グロースの次の愛人、アナーキストのカールが捕らわれた時、釈放のために働いているのである。」
 上山安敏 『神話と科学』 岩波書店(1984)、pp.224-225、「Ⅴ 精神分析と社会科学」、「エロスの饗宴」、より、

*「妻のマリアンネはハイデルベルクで婦人解放運動にたずさわっており、ウェーバーとは女性問題が論じられていた。エルゼは、ウェーバーの下で国民経済学の博士を獲得し、カールスルーエで工場の監督官として女工の権利を守ることをバーデンから資格づけられた女性第一号である。」
 同上、p.221

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2007年11月22日 (木)

再び、関曠野『歴史の学び方について』窓社(1997年)、から

 下記の記事は、すでに、

藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(8)

として掲載していたものだ。今回、「社会契約論」のカテゴリーを作成するに当たって、どんなものが引っかかるか調べたら、そう言えばこういう記事もあったと思い出した次第。

 ただ、読み返してみると、関曠野の文は本当にすごい、と思い直した。このたった527字、原稿用紙一枚半の中に、ロックの「自然権」概念とそこから社会契約が導き出される論理を示して間然するところがない。そして、なによりも、「政治的権威による統治」は人間にとり必然なもので、それゆえにその「正しさ」は常に弁証されねばならず、近代以降においてそれが意味するところは、つまるところ、われわれ朋輩隣人たちの社会契約によるしかないことを、この上ない力強さで語りきっていることだ。

 この清々しい強さの源泉はなんだろうか。それは、関曠野は、もの書くとき、業績を上げるために paper を積み上げているのではなく、政治的権威を創造すべく定められている、朋輩隣人の一人として、つまり、現世に生を享けている一個の人間の義務として書いているからだろう。己の頭脳で考え、納得のいった、書かねばならないことだけを書く。余人の真似し得るところではないが、良き模範としてせめて心にとどめておきたいと思う。

以下、再掲( Collingwood 関連は若干加筆)。

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