言葉

2007年11月29日 (木)

思考モデルとしての法

「決定や行動、発話や議論における時機についての問題は、昔の哲学にとっては中心的なトピックであった。「合理的なことを企てる rational enterprise」際の当のモデルは、十六世紀の学識者にとっては、科学ではなく法律であった。法律学は「実践的合理性 practical rationality」と「時機 timeliness」とのつながりのみならず、地域的多様性のもつ意義、特殊性との関連、および口頭で行う議論におけるレトリックの効力などをも明るみに出す。これと比較してみると、普遍的な自然哲学を目指すすべてのプロジェクトは、人文主義者には疑わしいものに思われた。100年後、事態は逆転していた。デカルトと彼の後継者たちにとっては、時機的な問題とは哲学とは何の関わりもないものであった。かわりに、彼らの目的は、変りやすいすべての現象の背後にある造化の神の永遠の構造を明るみにだすことであった。」
  スティーブン・トゥールミン『近代とは何か』法政大学出版局(2001年)*、pp.53-54

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2007年11月 5日 (月)

却初より

 却初(ごふしよ)より作りいとなむ殿堂にわれも黄金(こがね)の釘一つ打つ

              与謝野晶子『草の夢』、日本評論社(1922年)*

 いやはや、かっこいい。学芸の世界で己を顕そうなどと考える者は、ここまでの覚悟と勇気がなくてはいかんですねぇ。私も晶子の心意気の万分の一でも刻む所存であります。

* 与謝野晶子歌集:巻頭歌 18:草の夢、より

** 意に反して、↓のようになることがあろうとも。芝木好子「湯葉」(1960)の導入部分から知りました。

わが草木(さうもく)とならん日に
たれかは知らむ敗亡の
歴史を墓に刻むべき。
われは飢ゑたりとこしへに
過失を人も許せかし。
過失を父も許せかし。

萩原朔太郎『宿命』創元社(1939年)、より

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2007年9月28日 (金)

「啓蒙」雑考(補遺)

 一点、重要な主題のすり替えがあった。お恥ずかしい。(-_-;

 最初の質問は、enlightenment が誰によって「啓蒙」と訳されたのか、だった。しかるに、(2)での結論は、Aufklaerung → 啓蒙 の初訳は、どうも大西祝らしい、とまでしか迫れていなかった。申し訳ない。

 結局、今の段階では、enlightenment → 啓蒙 の初訳者が大西であるかどうかは不明としかいえない。私には。

 うーん。憶測すれば、たぶん、Aufklaerung → 啓蒙 がアカデミズムで定着するにしたがって、enlightenment → 啓蒙 も収斂したのではないか、というところだが、ま、どうかな? もうこれ以上探求する資源(元気、時間)が私にはないので、あきらめます。すみません。

〔参照〕

「啓蒙」雑考(1)

「啓蒙」雑考(2)

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「啓蒙」雑考(2)

 諸家の著書探索などという面倒なことをしなくとも、OEDのように、初出の出典を明記してある可能性がある日本語辞書としては、以下がある。

 小学館「日本国語大辞典 第二版」2001年

 あたってみると、翻訳語としての「啓蒙」の用例はなかった。これには、かなりガックリ。ここらへんが、OEDとの底力の差かな。

 そうこうするうちに、この件につき、最近何か読んだことがあるような気がしてきた。「ハハァーン」と思い当たったのが、下記の書。

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2007年9月27日 (木)

「啓蒙」雑考(1)

 知人より、一つ尋ねられたことがあった。ただ、恥ずかしながら私も俄かに答えることができなかったので、ざっと調べてみた。そこで、少々興味深いことが分かったので、自blogで開陳しておくことにする。

1)〔質問内容〕「enlightenment」を、「啓蒙」と日本語訳したのは誰か。西周か。

 明治前半の翻訳事情を調べるのに第一次接近として有効なのは、当時の辞書の記載を探ることである。手許に、

J.C.ヘボン、和英語林集成、1886年、講談社学術文庫版(1980年)

があるので、まずはそれを引いてみる。すると、こうある。

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2007年7月27日 (金)

長谷川三千子 『民主主義とは何なのか』文春新書(2001年)

 一定の見方からのものであり、言葉遣いに少々首を傾げたくなる部分も散見されるが、本書の前半三分の二ぐらいまで、つまりホッブズまでは、それなりに文献を押さえ議論されていて参考にはなった。

 しかし、ロック以降結語までの部分は、書き飛ばした観があり、どうもいただけない。気持はわからんでもないが。少なくとも、著者が「自らの主張を自分から疑ってみよう」(本書p.217)としているようには思えなかった。

 また、本書全体の論調からして、政治的にも知的にも、著者が、現代においては、所詮、己も民衆(デーモス)の一人に過ぎない、という冷めた認識を持たれていないように見受けられるのは、知的(理性的?)読者をして著者の知的成熟度に一抹の不安を感じさせるに十分なものがあると思われる。

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2007年7月11日 (水)

intuitionism 雑考

 intuitionism を巡って、いくつか記事を書いた。私がこの語を日本語で表記する際は、「直観主義」と記したが、戴いたコメントには、幾度か「直感主義」とあった。私は、自分の表記が正しいと思い込んでいたので、コメント氏が気付いてくれないかなぁ、と考えていた。

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2007年7月 2日 (月)

「孫の手」は、美女の手

 人間に関することで、renqing の関心をひかないものはない、はずの renqing にして知りませんでしたぁ。この世はどこでどうつながっているのか、計りしれない、とは、かの山口昌男が漏らした言葉(危うく、“故”という接頭語を使うところだった^-^;)。無論、renqing もhalf-truthだもんね。あたりまえだ。

「麻姑とは、鳥のように長い爪をもっていたので、これで背中などのかゆいところをかくと気持がよかろうと思われたところから、日本語の「孫の手」(麻姑の手のなまり)の語源となったとされる仙女である。」
合山究『故事成語』講談社現代新書(1991年) 、p.43

麻姑 → 若く美しい仙女の名

ついでに。

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2007年7月 1日 (日)

追いかけて、「桐一葉」

 碧梧桐から、「桐一葉」が気になりまして、ついつい調べちゃいました(-_-;。以下はその成果*。

 関連する出典を、時代順に箇条書きしました。

1)『淮南子』(紀元前2世紀)、「巻十六 説山訓」

見一葉落
而知歳之將暮
睹瓶中之冰
而知天下之寒
以近論遠

一葉落つるを見て、
歳の将(まさ)に暮れんとするを知り、
瓶中(へいちゅう)の氷を賭(み)て
天下の寒きを知る。
近きを以て遠きを論ずるなり。

淮南子(中文)

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2007年6月16日 (土)

心情倫理は、信条倫理?(2)

 ウェーバー社会学の日本語の訳は、当然なことにカント哲学の語彙の影響下にある。そして、カント哲学の語彙は、じつは、徳川後期から明治全般にかけての19世紀、隆盛を見た日本陽明学の影響下で語彙構成されたものである。

 ということは、“gesinnungsethisch”の日本語訳にも、その影響が及んでいると推論することは無理ではない。つまり、この語が「信条」ではなく、「心情」と訳出されたのも、日本的「陸王心学」の痕跡かもしれない。

 それなら、不適切な訳というよりは、日本近代史の文脈(context)からいえば、ある意味自然なものとも考えられる。つまり、この語も、陽明学=カント的な影響下にあったということになろう。

 以上の議論は、後日、

 小島毅 『近代日本の陽明学』講談社選書メチエ (2006年)
 小島毅 『朱子学と陽明学』放送大学教育振興会 (2004年)

の書評をこのblogに収める際に、触れることになると思う。

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2007年6月10日 (日)

心情倫理は、信条倫理?(1)

 以前から気になっていることがある。これは、先年物故した森嶋通夫が主張していたことでもある(他に同様の論者がいたかどうかは不明)。

 「心情倫理(的)」と訳されている Gesinnungsethik , gesinnungsethisch は、「信条倫理(的)」と訳されるべきではないか、ということである。

 独英辞典などで、この語 Gesinnung の対応物をみると、

attitude, opinion, disposition 、

とか、

Fundamental attitude

とある。

 しかし、日本語で「心情」というと、

心の中にある思いや感情。「被災者の―を察する」「―的には賛成だ」
  『大辞泉』より

となっている。で、「心情」からドイツ語に逆引きしてみると、

Gemüt ; Gefühl ; Herz

や、「心情を察する」では、

jmds. Gefühle verstehen; jmdm. etw. nachfühlen; sich in jmds. Lage versetzen.

といった訳が与えられていたりする。

 念のため、「心情」から、英語に逆引きしてみると、

one's feelings

・ 彼の心情を察して言葉もなかった
I felt so sorry for him [for him so deeply] that I could say nothing.

といった具合だ。

 以上、一通り、準備運動は出来た。そこで、ドイツ語原文で、 Weber が最初にこの議論を導入した部分を引いてみる。

1) es kann “gesinnungsethisch”oder “veranwortungsethisch” orientiert sein.

Gesammelte Politische Schriften
p.441  439/449
Politik als Beruf (1919)

※このドイツ語版「政治論集」は、PDFファイルで提供されており、自由にdownload可能(す、すごすぎる)。

 では、.この部分の英訳の(代表的)一例を掲げる。

2) conduct can be oriented to an 'ethic of ultimate ends' or to an 'ethic of responsibility.'

Politics as a Vocation
Max Weber
(Politics as Vocation: From Max Weber: Essay in Sociology. Translated by Hans H. Gerth and C. Wright Mills. New York: Oxford Univ. Press. 1946.)

 日本語で「心情倫理(的)」と訳されている部分は、「 ethic of ultimate ends 」と英訳されていることがわかる。これをさらに、日本語に重訳すれば、「究極的な目的の倫理」か。

 「心情倫理」で、わからないでもないが、日本語として受容する側からすると、原意からかなりズレていそうな気がする。というか、危険を感じる。

 結果がどうであれ、己が信じたことを実行することに価値がある、という倫理に方向付けられた態度・生き方、というのが Weber の使用文脈だろう。それからすると、日本語文脈に埋め込まれた「心情(的)」では、信念に裏付けられた行為、というよりは、感情的な一時の気の迷い、のように受け取られないだろうか。

 「信条(的)」のほうが、誤解を生む危険性をより減らせると思う。

 ちなみに、米国版の「反・九段の母」シンディ・シーハンの行動は、「心情的」か「信条的」か。下記を読むと、始まりは「心情的」なものだったろうが、徐々に「信条的」なものへ成長していったのだと思われる。

※シーハンさんが引退表明後受けたインタビューの中で、「九段の母」として初めて、ブッシュと会ったときのことを回想した部分(これは、renqing が参加しているMLで教えてもらったものです)。

Cindy Sheehan Steps Down as the Face of the Antiwar Movement
By Amy Goodman, Democracy Now!. Posted May 30, 2007
.
上記の2頁目↓の下部。
http://www.alternet.org/waroniraq/52654/?page=2

 そして彼女の「信条倫理」は、以下のような「責任倫理」としてまた生まれ変わっている。

シンディ・シーハン「私達はもっと強くなって戻ってきます」(sometimes a little hope )

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2007年6月 8日 (金)

「鼻くそ」は、なぜ「鼻うんこ」とは言わないのか(6/8追記)

 今、手許にある、『広辞苑』第二版、第五刷、昭和46年(1971)では・・・、

1) くそ 糞・屎 (名詞)動物が消化器で消化した食物の残滓が、肛門から排泄されるもの。大便。ふん。

2) うんこ (幼児語。ウンはいきむ声、コは接尾語)大便。うんち。

とある。

 なぜ、「鼻うんこ」「耳うんこ」「目うんこ」ではなく、「鼻くそ」「耳くそ」「目くそ」かと言えば、「うんこ」が幼児語だからのようだ。また、五感の名称がそれぞれ、1字から2字だから、「くそ」なら語呂があうが、「うんこ」だと合成する語としては長すぎるという点もあるだろう。

 一方で、「ばば」というのもある。

3) ばば 糞・屎 (幼児語)大便、またはきたないもの。

3´) ばばっちい (形容詞)(幼児語)きたない。

4) ねこばば 猫糞 (猫が脱糞後、脚で土砂をかけて糞を隠すからいう) 悪行を隠して知らぬ顔をすること。落し物などを拾ってそのまま自分のものにしてしまうこと。

 トランプ・ゲームの「ばばぬき」を普通「婆ぬき」を表記するようだが、多分、「うんこ」の意の「ばば」からきているのではないか。あの、「ばば」を引き当てたときの、なんともいえない汚らしさ、恥ずかしさや、その「ばば」が他者に引き抜かれるときのあの高揚感はまさしく、「ばば 糞・屎」そのものだと思うのだが、さてどうだろう。

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2007年5月 7日 (月)

「書く」ということ

 書くということは、とても困難な作業だ。この連休で、ほぼ同時代を扱った史書を2冊、

小島毅 『靖国史観 - 幕末維新という深淵 -』ちくま新書(2007年)

井上勝生 『幕末・維新』シリーズ日本近現代史(1) 岩波新書(2006年)

読んでその感を強くした。ともに、好感がもてたし、充実した高度な内容でよかったのだが、読後感が異なるのだ。

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2007年5月 1日 (火)

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(1919)(3)

 遅ればせの追記。実は、(2)に註として書き込もうと途中までいったのだが、なんか長くなってしまったので、別記事とした次第。 

(2)の文中で、脇訳をお借りした際、訳文中のカタカナ表記してあったものは、原文のドイツ語に私が勝手に復した。私が翻訳を読んだとき、原文のドイツ語のニュアンスを知りたいと思ったためである。ドイツ語がわからなくても、独和辞典を引くことは難事ではない。面倒だが、このウェーバーという学者のものを読むときは、機会があるならそれくらいの手間はかけたいものだ。ヤスパース(Jaspers, Karl Theodor)の言によれば、この大学者は、新たな考察対象に向かうとき、それにどう名まえをつけるかを常に考えたという。彼が概念構成するとき、その名称が決定的に重要だ、というエピソードである。彼が概念語として何の変哲のない名辞を使用する場合でも、そこには当該のコンテンツに見合うほどの意図が込められていると承知しておくべきだろう。ここらへんは大塚久雄*の書から教えられた。

 例えば、「選択的親和関係 Wahlverwandtschaften」**なる概念の命名が、化学用語や、ゲーテの『親和力』(1809)(Die Wahlverwandtschaften)、から採られているのではないか、という読解は、大塚の慧眼だと思う(それとも、Weber業界の常識か?)。大袈裟だが、世代を超えた学恩を感じる。

*現在では毀誉褒貶もあるが、確かに大塚久雄も大学者といってよいのだろう。大塚久雄にまつわる興味深いエピソードについては、かわうそ亭氏の大塚久雄と中野正剛大塚久雄と中野正剛(承前)を、コメント欄も含めてご参照いただきたい。

**この概念は、社会科学方法論として極めて重要なものだ。私のヘボ修論も実はこれがキー概念になっている。このヘボ修論の内容については、おいおいこのブログでも埃を払って、お蔵から少しずつひっぱりだすつもりだ。乞うご期待。

〔注〕本シリーズ、(1)(2)、も参照。

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2007年4月29日 (日)

「普遍」を「特殊」に引きずりおろす方法

 「普遍」を「特殊」に引きずりおろすには、二つの方法がある。

1) その「普遍」を一つの「特殊」として含むような、新たな「普遍」を導入する。

2) その「普遍」を、イデオロギー批判なり、イデオロギー暴露によって、「ほらね、俺たちと同じ穴の狢じゃない!」として、「特殊」カテゴリーに編入してしまう。

 日本思想史のお家芸は、2)だ。その代表選手が、本居宣長の漢意(からごころ)批判。しかし、これだと、結局、「特殊」同士が自己主張(意地の張り合い)をしているだけで、なんら、新たな議論のステージに立てない。だから第三者の「特殊」などがそこに登場すると、単なる「特殊」の団子状態で、議論の収拾がつかず、実力行使により雌雄を決する、という陥穽にはまり込むこととなる。明治コンスティチューションがその誕生から77年後、幻の大東亜共栄圏として散華してしまったのはその必然的帰結とみなすことが可能だ。

 以上の議論は近日中に、一つの書評の一部として組み込み、記事化する予定。

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2007年4月27日 (金)

「恋愛」の新明解国語辞典的意味

【恋愛】
 特定の異性に特別の感情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。
 三省堂 新明解国語辞典第三版(1981年)

 これはまさに、黒井千次 『春の道標 』 新潮文庫(1984)、の明史の状態だ。『黄金の樹』で、紆余曲折の末、その恋は成就する。ご関心のある向きは、お近くの図書館でどうぞ。品切れ中。

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2007年4月21日 (土)

“旧型”インフルエンザに「タミフル」を使うべきではない(総括・事実編)

 ここらへんで、総括を書いておこう。

 現在のrenqingが、接し得たところの事実(報道)、知見と、それに基づくrenqingの意見をまとめると以下のようになる。

◎事実に関すること

1)「タミフル」について

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2007年4月16日 (月)

「タミフル」はインフルエンザ・ウィルスに効く(4/29リンク追加)

 このところ、専門外(といっても専門がある訳でもないが)のインフルエンザに関して2本の記事をこのblogへ掲載してきた。

インフルエンザに効く薬はない(リンク追加) 2007/04/14

「タミフル」は何に効くか          2007/04/15

 そして、参加するMLなどへも情報を流してきた。その記事中、完全に間違っているとまでは言わないが、少なくとも最新の情報に基づいてない不正確な情報を書いていることを、renqingなりに確認したので、ここに改めて、renqingの現在の見解を掲載しておきたいと思う。

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2007年4月15日 (日)

「タミフル」は何に効くか(4/29リンク追加)

 昨日の我がblog記事作成過程で、幾つか知ったことがあるので忘れないうちに記事化しておく。

1)Wikipedia関連

①「1996年にギリアド・サイエンシズ社(1997年から2001年まで元アメリカ合衆国国防長官のドナルド・ラムズフェルド氏会長を務めた)が開発、スイスのロシュ社がライセンス供与を受け製造、販売を行っている。日本においては2000年に厚生労働省が承認、2001年2月に保険適用承認後中外製薬が日本の代理店となり、タミフルカプセル75とタミフルドライシロップ3%として販売されている。 」
オセルタミビル(商品名「タミフル (Tamiflu)」)、より

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2007年4月14日 (土)

インフルエンザに効く薬はない(4/17リンク追加)

 現時点で、インフルエンザに効く薬はない。したがって、安静にして、人の体に備わる自然治癒の力に待つしかない。これがインフルエンザを研究している医学者の見解だ。一例を挙げておく。↓

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2007年4月11日 (水)

コーチングの人間観

「 そしてコーチには、コーチングの前提となる二つの「人間観」が求められます。

 それは、相手をまず「能力を有する存在であると捉える」ということです。次に、「人はよりよく生きること、よりよい仕事をすることを望んでいる」ことをコーチ自身が知るということです。」

菅原裕子『コーチングの技術』講談社現代新書(2003年)、p.29

 これは、自由主義の人間観ともいえる。自由主義の人間観とは以下のようなものと考える。

 「人間とは、自分で、他者から学び、成長することができる存在であり、またそれを求めている存在である。」

 つまり、社会とはそういう人間たちがお互いの成長のためにサポートしあう場であるべきだ、ということになろう。現状の日本の権力者たちが、上記とは全く正反対の人間観に立っていることは明らかだと思う。

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2007年4月10日 (火)

自己正当化の二つの道

 人が、己を肯定しながら生きていくことは当たり前のことだ。己を否定し始めたら、辛くて何のためにこの世に生まれたのか訳が分からなくなってくる。

 たとえ、この宇宙の誰も認めてくれなくても、自分だけは、「うん、大丈夫だ。なんという事はない。間違えたら、失敗したら、直せばいいじゃないか。行こう。」と己に声をかけていくべきだ。新しい自分になる勇気。これさえあれば、立ち直れる。

 自己正当化には、多分、二つの道がある。

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「人間に関わることで、私に無縁なものは一つとしてない。」

 これは、renqingが高校時代に現代国語の教科書で読まされた、なだいなだ、の「人間、この非人間的なもの」(訂正4/12)、というエッセイに引用されていた、古代ローマの賢人の言葉、だと記憶していた。

 含蓄のある句なので、若き日(私にもあった、-_-;)のrenqingの脳裏に焼きつき、あれから幾星霜も経た今日でも、ふと思い出す。

 ところで、このcoolな言葉を我がblogのサブ・タイトルに入れよっかなぁ、と思い立ち、出典を探し出すことに意を決した。

 心覚えの古代ローマの著作家の有名どころを思い出し、あれこれネットで検索したが埒が明かない。そうなれば、引用句辞典とか、ラテン名言集みたいなものに当るしかない。
 ということで、手頃なものがあった。↓

柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』岩波文庫(2003年)

 編者解説によると、原典は喜劇。劇中、何にでも他人(ひと)事なら首を突っ込みたがる老人が、首を突っ込まれた方に、余計なお世話と言われたとき、返す言葉がこれなんだそうだ。

 なんじゃこれは、という顛末だが、我がblogもローマの賢人より、多情の老婆ならぬ多情の老爺の方が似合っているので、このラテン語↓をサブ・タイトルに掲げることとする。この記事を読まれた方は、この扉の句を見るたびにクスクスして戴きたい。この本のどこに書いてあるかは内緒。薄っぺらいものなので、ご自分でお探し下さい。

 homo sum; humani nihil a me alienum puto.

*参照
我は人間。人間的なものにして我に無縁なるものはなしと思う

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2007年4月 8日 (日)

精神のぜい肉

 「精神のぜい肉」は、精神の躍動不足からおきる。

 精神が躍動しているとは、心が常に他者に開かれており、他者の、己にとっては未知である、思い、考えに触れることで、新しい自分に変るかも知れないことに躊躇しない、そんな心の構え、のことだろうと思っている。

 簡単に言えば、それが人間的成長ということなのだ。

 己が、他者的なものと触れることを通じて変貌する可能性を、己に許容し続けられなくなったとき、そのときが「精神のぜい肉」がつき始める兆し、と戒めるべきだろう。

*「精神のぜい肉」については、下記blogのコメント欄参照。
尾藤正英『日本文化の歴史』=通史としての日本史教育の政治性3

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2007年4月 1日 (日)

嫁の持参金は夫のものか?(古代ローマの場合)、参照追加4/5

 31  Ibi dos esse debet, ubi onera matrimonii sunt.
    (パウルス・学説彙纂第2巻第4章第5法文)
 婚姻の負担が存在するところに嫁資が存在するべきである。

 嫁資 dos というのは聞きなれない言葉であるが婚姻のさいに、社会的な慣行にしたがって、女の側が男の側に持参する金銭その他のもののことである。婚姻にあたって妻が家長である夫または家長の夫権に服属する場合には、その女は実家における相続権を失うので、その代償として、財産をもたせてやるのが本来の意味であった。ところが、夫権に服属せず、従前のように実家の家長の家長権に服したまま婚姻に入る場合は、夫婦が家を別にしているのに、夫の側が婚姻費用を負担するという関係が生ずるので、嫁資はもとの意味を失って、その費用の分担という意味をもつようになった。これがこの格言の趣旨である。最初、嫁資は完全に夫の所有に帰した。

“ Dotis causa perpetura est. ”(パウルス・学説彙纂第23巻第3章第1法文)
「嫁資の性質は永久的である。」

 しかし、共和政の終り頃から、離婚が日常茶飯となりはじめると、そのような取扱いは、再婚しようとする女にとってきわめて不利であったし、また夫が婚姻中に死亡した場合にも、妻が相続の上で優遇されなかったためもあって、嫁資が、婚姻解消後女やその設定者に返還されるように配慮され、その結果、嫁資は、夫の利得であるというよりも、むしろ、婚姻継続中に夫に信託されている財産にすぎないと考えられるようになった。そして、その返還を安全・円滑に行うために何種類もの巧妙な技術が何世紀にもわたって考案されている。妻の法律上の地位が劣悪であったにもかかわらず、社会的にはかならずしもそうでなかったのは、この嫁資の支えによるところが多い。

**************************************************

  以上すべて、柴田光蔵 『 ローマ法の基礎知識 』 有斐閣双書(1973年)、pp.133-4、より。

*参照
磯田道史『武士の家計簿』
箪笥に封印

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2007年3月15日 (木)

あきんどの倫理

「本を選ぶという行為は、いわば自分の思想をあからさまに表現するのである。お客は自分が見つけた本を帳場にさしだすことによって、売主におのれの心中をのぞかせてしまうわけだ。
 古本屋はそれを見て見ぬふりをする。
人の読書の好みをよそにもらさない。これは古本屋の鉄則である。客の立場をかばうのはすべての商売に共通したあきんどの倫理であるが、古本屋の場合はそれがわけても厳しい。戦前、社会運動関係の書物をとり扱った際に、苦渋をなめた経験則から発しているのではないかと私は推測している。」
猫阿弥陀、出久根達郎著『猫の縁談』収録
From http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2007/03/post_cb85.html#comment-12411981

 結局、あきんどが相手とする「客(きゃく)」も、我々の家を不意におとなう「客(まろうど=稀に来る人)」も、煎じ詰めれば、他者にほかならない。そして、あきんどが客に「いらっしゃませ(=よくいらっしゃった)」と微笑むのも、我々が珍しい客人を「よく来られた、上がられよ」とニッコリ迎え入れるのも、「もてなし、歓待 ⇒ hospitality」の心があればこそだ。

 赤の他人同士が支えあう近代人間社会が基本的にやっていけるのは、他者を喜んで迎え入れ、歓待する、という hospitality の精神によろう。それならば、近代社会で暮らす我々にまず必要なものは、あきんどの倫理ではなかろうか。

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2007年3月12日 (月)

論語の美しさ

問い「お好きな詩文は・・・。」

吉川「それはもう散文では論語、詩では杜甫です。・・・。
 ・・・。
 論語については、一応の私の考えを書きましたけれども(朝日『中国古典選』論語)、これは不充分なんですけれど、僕は論語はやっぱり中国の言語の中で一番美しい言語の一つじゃないかと思います。言語っていうのは、内容がなければ出来ませんよ。しかし、それを表現する論語の言語の美しさ、ことに論語の言語の音声の美しさっていうことはね、これは従来の日本の学者のあまり知らなかったところです。といっても、ただ聞いてるだけでわかるものでもないんだけれども。
 論語の方は、いままでに書いたものでもうよしにして、この頃は、専ら杜甫をやっているんです。杜甫にしても、論語にしても、それは日常性の偉大な哲学であり、偉大な詩である、ということですね。」

吉川幸次郎「中国文学のために」、より
『わが道をゆく ―人生随談話― 』吉川幸次郎、福原麟太郎ほか、p.105
 雷鳴社1974年

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文学の効用

問い「文学研究の心得についてひとこと・・・。」

吉川「文学研究は、本によるもんです。書物というものは言語で出来ているから、方法の初めは、その言語を著者の気持のとおりに読み、再体験するということで、まずそれが必要でしょうね。すべてはそこから出発する。そして著者の言語の奥に、著者自身でさえも自覚しなかったものを掘り出すということが、文学研究の目的だと思いますね。
 人間の現実の複雑さを教えるものは文学だと思います。だから、全然文学を読まない人のものの考え方は、往々にしてたいへん独断的です。独断的だけならいいですけれど、他人に対して冷酷になるんじゃないんでしょうか。人の美を成さない*ようになるんじゃないでしょうか。だから文学は皆さんお読み下さい、その方が人生に役立ちます、ということは自信をもって申せると思います。」

吉川幸次郎「中国文学のために」、より
『わが道をゆく ―人生随談話― 』吉川幸次郎、福原麟太郎ほか、p.116
 雷鳴社1974年

*子曰。君子成人之美。不成人之惡。小人反是。
子(し)曰(いわ)く、君子は人の美をなし、人の悪をなさず。小人(しょうじん)はこれに反(はん)す。
『論語』論語 顔淵第十二(16)

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2007年3月 9日 (金)

18世紀の「社会主義者」(3)

 私の操作ミスで、1年ほど前の記事を、新しい記事であるかのように表示してしまった。それを垣間見られた方は、何がおきたのか、と訝しんでおられる事と思うので、念のため、下記にリンクを張っておく。失礼した。

18世紀の「社会主義者」(1)

18世紀の「社会主義者」(2)

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2007年3月 8日 (木)

責任観念の多義性(2)

「ニュルンベルグ裁判でナチの指導者が外国勢力に責任をとらされるのは、かれらがドイツ国民に責任を負うこととは別のことなのである。」
アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』御茶の水書房(1980)、p.281

 さしずめ、我々日本国民が言えるのは、
「極東軍事裁判で陸海軍の指導者が外国勢力に責任をとらされるのは、かれらが日本国民に責任を負うこととは別のことなのである。」

 1945年からすでに62年。日本国民は、当時の統治責任者たちの敗戦責任を、まともに問うてきたのだろうか。それが今でも尾を引いている気がしてならない。

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2007年2月 5日 (月)

責任観念の多義性(1)

 このマトリクスで、「自己責任」なる自己撞着な言葉の不条理を論証しようというも目論見なのだが、少々疲れてきた。この装置の具体的な稼動は(2)へ、続く。

                 
 

 

 
 

誰に対する?

 
 

何についての?

 
 

私の(主観的)

 
 

 

 
 

 

 
 

彼の(客観的)

 
 

 

 
 

 

 

 

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2006年12月 9日 (土)

「こころ」は、heart か、mind か?(2)

 中国語の心 xin 。これ、なかなかわからん。中国語大辞典(角川書店1994)によっても、漠として捕まえ難い。多少、興味深い用例が、「心地 xindi 」。  こう書いてある。

「心地 xindi 」。①心根。心境。気持ち。心遣い。気心。;  ‘心’は考えを生み出すところ、‘地’は万物を生育するところから‘心地’という。

 角川 新字源から、「こころ」で訓んでいるものに、三種。「心」「情」「意」。

「心」。①心臓。②こころ。③人間の精神活動の根本となる、知・情・意の本体。精神。etc.

「情」。〔なりたち〕人間の生まれながらの美しい心、転じて、ありのままの意をあらわず。①こころ。心が物に感じて動くはたらき。etc.

「意」〔なりたち〕心におさえおぼえるの意を表す。憶の原字。ひいて、知・情のもとになる意識の意を表す。①こころ。②ここばせ。③おもい。考え。etc.

 また、

「心学」。心の本体をきわめて修養のもとにしようとする学問。陸象山・王陽明らが唱えたもの。陸王の学。

とある。

 また、Chinese-English Dictionaryなどでは、たいてい、「心 xin 」= heart, mind としているだけだ。

 以上、ざっと調べたみた暫定的結果としては、日本語の「こころ」は、heart>mind、中国語の「心 xin 」は、heart<mind、という、あまり冴えないものになってしまった。

*相良亨『一語の辞典 こころ』三省堂(1995)、という絶好の本をみつけた。しかし、「こころ」の多方面、意外な面ををあっちこっちと連れまわされた挙句、「心(こころ)」とはこうである、という確言に至らない。各種文献を知るためには役立つし、面白いが、結局のところ、日本語の概念語「心(こころ)」とはなんであるか、に関してはあまり明確な像を結ぶことはできなかった。

**そういえば、G.ライル『心の概念』みすず書房(1987)、っていう超有名な本もあった。このオリジナル・タイトルは、
Gilbert Ryle, The Concept of Mind, Univ of Chicago Pr(2003)

つまり、日本語訳者たちにとっては、mind ⇔ 心(こころ)、というわけだ。

**下記も参照。
「こころ」は、heart か、mind か?
「こころ」は、heart か、mind か?(道草篇)

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2006年12月 2日 (土)

「こころ」は、heart か、mind か?(道草篇)

「裸像の肉体は、いわば完全な肉体である。ギリシア語では肉体と人間とは、同じ単語で表現されていた。このような人間像は、ローマ人あるいはエトルリア人のような他民族の人間像ときわだった対照をなしている。ローマ人やエトルリア人にとっては、頭が人間の主要部であった。またラテン語では、頭という単語が、そのまま「人間」を意味することができた。われわれドイツ人もこのような人間観をうけ継いでおり、このことは、たとえばドイツ語に「(人)頭税」という単語があることからも理解できる。もっともギリシア人も、ある程度頭を他の部分よりも重要視していた故、ギリシア語においても感情に訴える演説では、「頭」あるいは「眼」でもって人間をいいあらわすことができた。しかしギリシア人には、頭以外に胴体や四肢も、高度に個人的なものを示すものであり、胸が、感情や思考の座であった。だがその後プラトンは、このような人間観に反対し、天国に向かって「アクロポリス」のように聳えている頭を、知力の座と記している。このプラトンの見解とともに人間像の新時代が始まった。そしてその後600年を経て、プロティノスは、この新時代の結語として、宇宙の如何なる生物においても、頭と顔は、下の部分つまり胴体や四肢より美しいと述べている。」p.20-21

リヒアルト・ハルダー『ギリシアの文化』北斗出版(1985)

**下記も参照。
「こころ」は、heart か、mind か?
「こころ」は、heart か、mind か?(2)

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2006年12月 1日 (金)

明治の立身出世主義の起源について(2)