「えーっと、なんだな、女房ってぇのは、シャツの第二ボタンみたいなもんだな。」
「そりゃぁ、どうしてだい。」
「あっても無くても、同じ。」
この、志ん生の小話なら、フェミコードには抵触しない?、だろう。
私のは、《米国にとって、シャツの第一ボタンは China であって、Japan ではない》っていう小話。
「『脱亜論』の根底にあったのが、『文明化』していないにもかかわらず、依然として『大国』であるがゆえに、西洋においても、場合によっては日本以上に配慮が加えられる清国という存在であったとすれば、こうした状況は、実は形を変えながらも今日の欧米と中国、日本の三者の関係に置き換えて考えることができるであろう。天安門事件によって、現在、一時的に冷却期に入っているとはいえ、もともと欧米には中国への過大評価という傾向がある。今日の日本は明治期とは異なり、経済的には自他ともに認める『大国』であり、欧米における中国と日本との比較のイメージが日本人に意識される度合いは低いようである。しかしながら、例えば、アメリカが、ことパワーポリティクスのレベルにおいては中国に少なからぬ重点を置いて常時行動はしていることは、日本の頭ごなしになされたかつてのキッシンジャー外交による米中関係改善にも明らかである。」
坂本多加雄 『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房(1994年)*、p.58
ここには、今の国権派が認めたくないであろう事実でもしっかりとらえ、理由を明らかにしようという明晰な知性がある。それにしても《大国》へのこだわ振りは少々奇異だ。この坂本氏にして対外コンプレックスを引きずっているのか。
*この本は近代日本政治思想史のものとしても、いわゆる保守系論客のものとしても優れている。そして面白い。良きインテリジェンスと対話する楽しみを与えてくれる。某数学者とはエラい違いだ。論者は《作る会》にも積極的に関わっていただけに、その早すぎる死は、保守派、国権派にとってだけでなく、市民派にとっても極めて痛い。なぜなら、公論が磨かれるためには、異なる立場の優れた討論者を必要とするからである。再論の予定。
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