社会契約論

2008年4月30日 (水)

無知のヴェール(veil of ignorance)

「・・、各当事者は、人間についての一般的な事実 - 世の中には、健康な者もいれば病弱な者もおり、裕福な者もいれば貧乏な者もいるというような事実 - は知っているものの、自分自身の属性 - 自分自身が健康か病弱か、裕福か貧乏か、有職者か無職者か、自分はどのような生き方を善いとするか - についての情報はまったく与えられていないのである。」
平野仁彦・亀本洋・服部高宏『法哲学』有斐閣(2002年)、第1章、p.15

 上記は、ロールズ(John Rawls)の正義論において、人々が原初状態(original position)から、契約状態に移行する際、ロールズのいう「正義の二原理」をもし採択するならば、こういう条件がなければならないだろう、として掲げた、仮定ないし条件の一つだ。それを「無知のヴェール veil of ignorance 」という。

 ただ、上記教科書の説明の仕方はちとどうかと思う。「自分自身が健康か病弱か」、「裕福か貧乏か」なんて判断できないなら、そもそも意思能力、民法第7条の「事理を弁識する能力」(事理弁識能力)がない状態としか言えないだろう。それでは契約もできまい。

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2007年12月19日 (水)

Anstalt と Verein

 Max Weber が団体を議論するときの重要な2類型、Anstalt と Verein。通常の英語との対応を見るとこうなる。

 Anstalt ⇔ institution

 Verein  ⇔  club, association

 Weber は、近代国家は、Anstalt であるという。だから、社会契約説による国家設立という story に、Weberは組しない。

 一方、日本中世の結社原理「一揆」。さて、この「一揆」は果たして、Anstalt か、Verein か。おそらく、Verein なのだろう。そして、幾つか観察から、戦国大名も「一揆」の構造を持っているらしい。すると、その延長線上に構築された徳川国家は、 association ? 

 もう少し、息の長い考察が必要のようだ。捲土重来。

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2007年12月 7日 (金)

自然状態(state of nature)について(2)

 大道安次郎「近代自然法」、新版 社会思想史事典 新明正道編著 創元社(1961年)、pp.114-115、より
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自然状態(State of nature, natural state)

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2007年12月 6日 (木)

自然状態(state of nature)について(1)

世界の大思想9 ホッブズ リヴァイアサン(国家論)水田洋・田中浩訳
河出書房新社、1980年(新装版第3版)、p.85上段、より

第十三章人類の至福と悲惨にかんするかれらの自然状態について
「こうして次のことが明らかとなる。すなわち、人びとは、すべての人を威圧しておく共通の力をもたずに生活しているあいだは、かれらは戦争と呼ばれる状態にあるのであり、そして、かかる戦争は、各人の各人にたいする戦争なのである。」

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2007年11月28日 (水)

Adam Smith による反社会契約論

 以下、

 大道安次郎「近代自然法」、新版 社会思想史事典 新明正道編著 創元社(1961年)、pp.116-117

からの引用。

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2007年11月22日 (木)

再び、関曠野『歴史の学び方について』窓社(1997年)、から

 下記の記事は、すでに、

藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(8)

として掲載していたものだ。今回、「社会契約論」のカテゴリーを作成するに当たって、どんなものが引っかかるか調べたら、そう言えばこういう記事もあったと思い出した次第。

 ただ、読み返してみると、関曠野の文は本当にすごい、と思い直した。このたった527字、原稿用紙一枚半の中に、ロックの「自然権」概念とそこから社会契約が導き出される論理を示して間然するところがない。そして、なによりも、「政治的権威による統治」は人間にとり必然なもので、それゆえにその「正しさ」は常に弁証されねばならず、近代以降においてそれが意味するところは、つまるところ、われわれ朋輩隣人たちの社会契約によるしかないことを、この上ない力強さで語りきっていることだ。

 この清々しい強さの源泉はなんだろうか。それは、関曠野は、もの書くとき、業績を上げるために paper を積み上げているのではなく、政治的権威を創造すべく定められている、朋輩隣人の一人として、つまり、現世に生を享けている一個の人間の義務として書いているからだろう。己の頭脳で考え、納得のいった、書かねばならないことだけを書く。余人の真似し得るところではないが、良き模範としてせめて心にとどめておきたいと思う。

以下、再掲( Collingwood 関連は若干加筆)。

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2007年11月13日 (火)

spontaneous generation ではなく、 historical generation としての liberal democracy(論理的時間と歴史的時間)

他所様のところへ書いたコメントの再述(すこし改変)と追記。

 禁欲的プロテスタンティズムは、共同体内-外の区別を破砕し、家族内-外、つまり、「身内の論理」をも無くした。これが、近代において、「個- 人」が共同体から析出されてくる、という意味でもあった。そして、その諸個人は、共同体の代わりに、自らを守るため、近代主権国家を「選択的」、つまり自らの意志によって構築する道(=社会契約)を選ばざるを得なくなる。

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2007年10月27日 (土)

権力起源論としての「社会契約説」に対する二つの批判(1)

■「社会契約説」とは何か

「 政治社会の成立を個人間の契約に求め,それによって政治権力の正統性を説明する理論。すでに古代ギリシアのソフィストにその端緒が見られるが,17~18世紀のヨーロッパにおいて全面的に展開され,国家を個人の作為とし,政治的義務の根拠を個人の選択に求めることによって,権力による事実的支配であった主権国家を,被治者の自発的結社に組みかえる近代国家の構成原理として,巨大な歴史的役割を果たした。」
 福田歓一筆「社会契約説」、平凡社世界大百科事典、1998年

■ Hume の convention 論による批判

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2006年8月17日 (木)

自然法(natural law)から自然法則(natural laws)へ、あるいはブルジョアジーの頽廃について

 18世紀以降、急速に自然法の観念が色褪せてしまったのはなぜか。それは、「社会」の理論家達が、17世紀末のニュートンによる力学的宇宙観の大成功に幻惑され、我こそは、「社会」における法則を発見するニュートンたらん、としたことに負う。2人の論者の言を引こう。

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2006年3月14日 (火)

ホッブズと自然法

 今、手元に、『リヴァイアサン』が見当たらないので、二次文献でご勘弁。

p.8
 「社会契約説」にみられる、もう一つの重要な原理は、専制権力に反対する権力制限的な思考である。人間がその生命・自由・財産を享受しようとするならば、当然、暴力的・権力的な支配に反対せざるをえないであろう。こうした専制政治を排除する最良の方法は、統治機関が民衆全体の意思にもとづいて選出されることにある。ホッブズの主権者は、全構成員の自発的な同意契約によって設立された全構成員の代表人格とされ、この主権者が立法者なのである。そこで、主権者の命令とはすなわち法律であり、ホッブズが主権者の命令に服せよ、という意味は、全構成員の意思や利益を代表する主権者の制定した法律に服するということであり、そのことは、とりもなおさず、契約当事者たる個々人が自分自身の意思に服することに等しい。ここから、ホッブズは、主権者の命令に服することのなかに、人間の自由の保障をみいだしていたことがわかる。ところで、この主権者は、自己保存という人間の自然権を保障するために必要なルール=戒律である自然法(理性によって発見され、その第一の基本的自然法は平和の確保にある)の要請にもとづいて設立されたために、主権者の行為には、自然権や自然法に違反しない範囲内でその制約がつけられている。したがって、ホッブズは、主権者の命令=法律であれば、その内容は問わないとするヴァイマル共和国期の最も代表的な保守主義者であるシュミット流の悪しき法実証主義者、法万能主義者ではない。実定法の背後に、その良否を審判する、より高次の法=規範である自然法がひかえているという権力制限的思考によって、ホッブズは、中世以来のイギリスに伝統的な「法の支配」観念を正しく継承していたものといえよう。
田中浩「序章-近代政治原理としての『社会契約説』」、より
飯坂良明、田中浩、藤原保信 編 『社会契約説』 新評論 1977、所収

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2006年3月 2日 (木)

人生の選択法

 「人生の選択マトリクス」、を作ってみた。
 以下問題とするのは、人生の岐路に立った人間の《行為》である。

       |         善              |           悪
----------------------------------------------------------
       |                         |           
  得 |      善 かつ 得    |   悪 かつ 得
       |         (Ⅰ)           |    (Ⅲ) 
       |                          |
-----------------------------------------------------------
       |                         |
  損  |      善 かつ 損   |   悪 かつ 損
      |        (Ⅱ)          |    (Ⅳ)
       |                         |

 人間行動を、善悪、損得、の2×2の次元にカテゴライズしたわけだ。ただし、これはいわば究極の選択であって、普段の行為では、特段意識もせず、善でも悪でもなく、損でも得でもない、ルーチンになっている行為が大部分だろう*。それで人生がうまく回っているならば、カテゴリーⅠを事後的に選択していることになるかもしれない。

 もし、カテゴリーⅠか、Ⅳを選択しうるのならば、普通の人間なら、Ⅰを選ぶだろう。だから、行為価値の推移律は、Ⅰ>Ⅳであることは自明だろう(でしょう?)。

 だから、問題は、カテゴリーⅡとⅢの選択を迫られたときだ。例えば、所属組織のヤバイ事を知る状況に直面した、等。

 一方、これは、個人のみではなく、国家の行為とみなしても参照枠組みになる。

 ということで、時間切れなので、次回に。

*これは、古来、習慣論として哲学上で議論されてきた。ご関心のある向きは(ないって)、↓をご参照あれ。

稲垣良典 『習慣の哲学』 創文社  1981年

 この論点は、社会科学上でも深刻な理論上の難問を惹起している。って、実はこれを私は「renqing理論」として大論文の執筆をしようとしていたが、目 的に対して己の能力の過小さゆえ(悲しい-_-;)、出来上がったのは屁みたいな論文で竜頭蛇尾と化してしまった。でも、ウェーバーみたいに、金持ち爺さ んの親類縁者から莫大な遺産でも相続できたら、(ここからは小声で)私だって、ウェーバーの10分の1くらいはものは残せるゾ、と負け惜しんでみたりする のよ、実は。ユダヤ人の自己嫌悪ならぬ、renqingの自己憐憫です、はい。

**前回の分類表で、割り切れないグレーゾーンの存在をタカマサ氏に指摘された。したがて、それがゆえに、善悪をめぐる共通判断の形成(→討論を通じた公論の形成)が必要となる。それは、過ちやすい一方で、自然法のもと独立して私的裁判権を保持している人間諸個人が、わざわざ社会契約を結ぶ根本理由なのだ。ロックはそう主張している。私もそれを支持する。

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