Immanuel Kant

2008年4月10日 (木)

ロゴスという名のエコノミスト(A economist of the name to call Logos)

 久しぶりに再読して、その見事さに感じ入ったエッセイが下記。所収されている単行本も品切れなので、短いこともあり、全文、掲載することにした。著作権の問題はできれば目をつぶって戴きたい。所収本は、アマゾンのマーケットプレイス(古書)でもごく安価だ。興味をもたれた方は、購入されてしまうことをお勧めする。小見出しは、renqingが付けた。blogという媒体上、比較的長い文にはマイルストーンが必要と感じたためである。著者の意図をいささかでも損なわないことを願う。

〔補註2008/04/10〕「ロゴス」に関しては、下記もご参照戴ければ幸甚。
教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演 信仰、理性、大学――回顧と考察 (2006.09.12) (2)


関曠野「欲望を思考する」(1985年) 
 〔 同著『野蛮としてのイエ社会』御茶の水書房(1987年)所収、pp.345-347 〕

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2008年3月27日 (木)

変ることの難しさ

「・・・。先入観は、それを植えつけた人々にも、そもそもこうした先入観を作りだした人々にも、いわば復讐するのである。こうして公衆の啓蒙には長い時間がかかることになる。
 おそらく革命を起こせば、独裁的な支配者による専制や、利益のために抑圧する体制や、支配欲にかられた抑圧体制などは転覆させることができるだろう。しかし革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。新たな先入観が生まれて、これが古い先入観ともども、大衆をひきまわす手綱として使われることになるだけなのだ。」
カント「啓蒙とは何か」pp.13-14、永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)所収

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2008年3月16日 (日)

共和制と「法の支配」

 某MLで共和制のことが話題になった。

 以前から、すっきりした語義がないか、と探してはいたのだが、改めて探すことにした。その某MLでは、共和制のキモは、「法の支配」であると指摘されていた。なぁーるほど。その線で探してみようと思い立った。すると、人間、考えればなんとかなるもので、以前読んでいた、カントの著書が心に浮かんだ。あぁ、これ、これ、と早速飛びついたら、案の定ありましたね。

 それが、下記である。

 ちなみに、私が愛用する二つの工具書、平凡社世界大百科事典「共和制」、岩波哲学・思想事典「共和主義」、各項目には、この肝心の「法の支配」には一言も触れていなかった。一方、Republicanism (Stanford Encyclopedia of Philosophy) には、共和主義と「法の支配」の関連についてしっかり書かれていたことを付言しておく。

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2007年12月 1日 (土)

Modernity の系譜(2)

 前回の(1)に、少しヒネリを加えてみた。何かが見えないか、という試し。

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2007年9月28日 (金)

「啓蒙」雑考(補遺)

 一点、重要な主題のすり替えがあった。お恥ずかしい。(-_-;

 最初の質問は、enlightenment が誰によって「啓蒙」と訳されたのか、だった。しかるに、(2)での結論は、Aufklaerung → 啓蒙 の初訳は、どうも大西祝らしい、とまでしか迫れていなかった。申し訳ない。

 結局、今の段階では、enlightenment → 啓蒙 の初訳者が大西であるかどうかは不明としかいえない。私には。

 うーん。憶測すれば、たぶん、Aufklaerung → 啓蒙 がアカデミズムで定着するにしたがって、enlightenment → 啓蒙 も収斂したのではないか、というところだが、ま、どうかな? もうこれ以上探求する資源(元気、時間)が私にはないので、あきらめます。すみません。

〔参照〕

「啓蒙」雑考(1)

「啓蒙」雑考(2)

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「啓蒙」雑考(2)

 諸家の著書探索などという面倒なことをしなくとも、OEDのように、初出の出典を明記してある可能性がある日本語辞書としては、以下がある。

 小学館「日本国語大辞典 第二版」2001年

 あたってみると、翻訳語としての「啓蒙」の用例はなかった。これには、かなりガックリ。ここらへんが、OEDとの底力の差かな。

 そうこうするうちに、この件につき、最近何か読んだことがあるような気がしてきた。「ハハァーン」と思い当たったのが、下記の書。

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2007年9月27日 (木)

「啓蒙」雑考(1)

 知人より、一つ尋ねられたことがあった。ただ、恥ずかしながら私も俄かに答えることができなかったので、ざっと調べてみた。そこで、少々興味深いことが分かったので、自blogで開陳しておくことにする。

1)〔質問内容〕「enlightenment」を、「啓蒙」と日本語訳したのは誰か。西周か。

 明治前半の翻訳事情を調べるのに第一次接近として有効なのは、当時の辞書の記載を探ることである。手許に、

J.C.ヘボン、和英語林集成、1886年、講談社学術文庫版(1980年)

があるので、まずはそれを引いてみる。すると、こうある。

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2006年11月10日 (金)

人間を作っている〈樹〉がこれほど曲がっているのに、完全に真っ直ぐなものを作り出すことはできない

 以前にも、数回この文章に触れた*。で、新刊いろいろ(by Fixing A Hole さん)で、カントの新訳のことを聞き、そう言えば書店に平積みになっていたな、と思い出した。そこで早速購入。これがそう。↓

カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫(2006年)

 そこに収められている、
「世界市民のという視点からみた普遍史の理念」p.31-67
中の、p.47、に表題の文章はある。

 ドイツ語原文、および英語訳は、註記した過去記事2)に引いてあるので、興味のある方はご参照戴きたい。今回、仏語訳を見つけたので、本記事ではこれを貼り付けておこう。
"dans un bois aussi courbe que celui dont est fait l'homme, rien ne peut etre taille (gezimmert) qui soit tout a fait droit (ganz Gerades)."
Idee d'une histoire universelle au point de vue cosmopolitique

 読書の醍醐味の一つは、お気に入りの一文を発見することであろう。この表題などはさしずめ、Isaiah Berlin*** にとっても、僭越ながら私にとってもそういうものだ。内田義彦は、これを「一句を自分で発見する」と言っている**。カント自身はこの句から離れているのではないかという疑念も強く残るが、一句自体は人間的真理をなにほどか穿っていると思わざるを得ない。

*
1)人間性、この曲がった木、(アンティゴネ2)     05/11/11
2)人間性、この曲がった木、の出所(1)     05/11/12
3)人間性、この曲がった木、の出所(2)     05/11/13

**内田義彦『社会認識の歩み』岩波新書(1971年)、p.68
 この書については、別途に記事を試みる予定。

***Isaiah Berlinとこの句の因縁については*の3)を参照されたし。

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2006年3月31日 (金)

Modernity の系譜(3/31追記)

 S.Toulminがらみで、ちょっと有名どころの生没年を並べてみた。

Rene Descartes                1596 - 1650
Isaac Newton                    1642 - 1727

David Hume                      1711 - 1776
Jean-Jacques Rousseau     1712 - 1778 *
Immanuel Kant                  1724 - 1804

 生没年が被っているのが意外。Hume と Kant はほぼ同時代人。ドイツの辺境に暮らす Kant が Hume の著作にショックを受けたその受け方は、同じ時代の空気を吸っている人間としてのものだったということが腑に落ちる。

 Kant の怪しさは、Hume に淵源し、Hume の冷ややかさは、Newton に遡る。Newton の疑念なき合理性は、Descartes の苦渋と決断の合理性に発する。

 ま、私の単なる想像上の系譜に過ぎないが。そんな気もするわけ。

*足踏堂さんの助言に従って、付け加えてみました。

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2005年12月30日 (金)

「人間社会の自然論」Naturlehre der menschlichen Gesellschaft(改訂2006/2/12)

 この話題は、社会学史上のペダンティックな論点に収まらない、意外に深刻な意義を有している。

 キリスト教ヨーロッパでは、伝統的に、“人間は善悪を選び得る道徳的存在である”と考えられていた。その人間観が、人間を対象化し、“経験論的で、自然科学的認識でこそ把握可能な《もの》”とみなす、現代人の「科学的」人間観へ、初期近代から徐々に置き換わってきた。それを思想史として、近代自然法思想(グロチウスetc.)からアンチ自然法(ヒュームに代表される)思想への変貌として的確に描いてみせたのが、このゾンバルトの、「人間社会の自然論」‘Naturlehre der menschlichen Gesellschaft’だからである。

*参照
新明正道 『社会学史概説』 岩波全書(No.193) 1954、
中の
  4.経験的社会論の成果  pp.39 - 48

※少々、再改訂( 2006/02/12)。読み直したら、引用なのか、私の記述なのか不明だったので。 記事内容は私の記述で、文献は参照してほしい、とうことです。

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2005年12月 3日 (土)

大日本国憲法第17条

第17条 何人も、公務員の違憲行為、および不法行為により、損害を受けたときは、憲法および法律の定めるところにより、当該公務員の罷免と、国又は公共団体にその賠償を求めることができる。

〔参照〕

憲法を守る保障制度
「ロ 憲法には定められていないけれども超憲法的な根拠によって認められると考えられる制度(組織化されない、又は組織化できない制度)抵抗権や国家緊急権」

 この、芦部の言う「超憲法的な根拠」。これが自然法である。にもかかわらず、憲法を成り立たせている自然法を、実定法学者である日本の主流派憲法学者は論じない。これは、水波朗*が指摘するように、日本の主流派憲法学者がみな19世紀的な新カント派観念論の枠内でものを考えていて、20世紀の存在論的諸哲学に依拠していない、ってことも大きい。直裁に言えば、大カント先生の問題でもある。まあ依拠する哲学理論の違いなどという、ある種、高踏的、ペダンティックなことに帰責することで問題を矮小化しても致し方ない。

 問題の根本には、西欧の法思想を支えてきた旧約の「神」と、思想的格闘をしてこなかった近代日本がある。我々が、明治維新を(自然法的に)違法なクーデタであることを認識できないのもこれがためである。

*自然法と日本の憲法学、参照。

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2005年11月13日 (日)

人間性、この曲がった木、の出所(2)

 バーリンが好きだというこの語句は、バーリン自身はこう表記していた。

Out of the crooked timber of humanity, no straight things  was  ever made.

 バーリンは、この訳をR.G.コリングウッドから得た、とするのが常であった。このことを確認しようとした人物がいる。バーリンの当該著書の編者 Henry Hardy である。彼は、コリングウッドの公刊著作にすべて目を通し、そこに、この語句がないことを確認した。で、(ここからが凄いのであるが)コリングウッドの未公刊文書を確認しに、Oxford Bodleian Law Libraryまで行ってしまう。そこでついに、1929年付の歴史哲学の講義録を発見する。そこにはこうあった

Out of the crooked timber of human nature nothing quite straight can be made.

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2005年11月12日 (土)

人間性、この曲がった木、の出所(1)

 前回の記事に戴いたコメントの中に、重要な指摘があり、少々というか、かなり面倒なことに気がついた。私の blog 程度で決着は難しいが、以下は、そのほんの少し文献学的な探索をとりあえずやってみた結果である。

 まずは、バーリンが愛好し、そのエッセイのタイトルに使った部分のドイツ語原文。それから、参考に、英訳、日本語訳を並べてみる。

ドイツ語原文
 aus so krummem Holze, als woraus der Mensch gemacht ist, kann nichts ganz Gerades gezimmert werden. *

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2005年11月11日 (金)

人間性、この曲がった木 *(アンティゴネ2)

miyau さん

> 暴力に頼りがちな人間の哀しさは克服していきたいとも思います。

 人間は弱いものです。そして、この弱さは時として、むき出しの力、すなわち暴力として現れます。なぜなら、人間は自らの理解を超えるものに直面したり、気持ちを伝えたい相手とのコミュニケートを断念すると、その代替物として、暴力というメッセージに訴えるからです。

 ブッシュの米国がイスラムに暴力をふるい続けるのは、彼らがイスラムを理解できず、また理解しようともしてないからです。フランスでの暴動なども、言葉の代わりに、追い詰められた者の怒りを表明しているのでしょう。自爆テロも。

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2005年5月13日 (金)

自然法と日本の憲法学

 学術出版社の創文社が出しているPR誌で、「創文」というのがありますが、その2002年12月号に興味深い一文がありました。

 筆者は、水波朗氏で、元九大の法哲学者。表題は、「指月の譬え 後日譚:樋口陽一教授への手紙」。

内容としては、要するに
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 日本の主流の憲法学、法哲学者である美濃部達吉、佐々木惣一、宮澤俊義、清宮四郎、黒田覚、芦部信喜、小林直樹、杉原泰雄、そして、樋口陽一、等が19世紀的な新カント派観念論の枠内(例えば、イェリネック、ケルゼン等)で事を考えていて、20世紀に登場した様々な流派の存在論哲学に何の関心も持ってこなかった。しかし、新カント派観念論は数十年前に全世界的に死滅していて、独、墺、佛、南米諸国、の多数の憲法学者は、今日では20世紀の存在論的諸哲学のいずれかに依拠して、現象学派とか、トマス主義派とかとして憲法学理論を展開している。
 いくつかに相分れながらもそれらの間には存在論としての共通傾向があり、人権、主権、法の支配、立憲制、、公共の福祉、等を、観念論で考えているような概念化的反省知的認識の手前で、万人の非概念化的直知的理性により洞見されてる客在的な(自然)法的現実である、とする点で一致している。
(ここまでは、一部抜粋)
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ふう、学者の言葉使いはどうしてこうなのか、もう少しなんとかならんでしょうかね。
 ま、とにかく、その意味で、日本の憲法学界は世界と数十年間のギャップがあり、取り残されて恥ずかしいぞ、はやくこの事態に気づいて、追いつけ追い越せ、といった内容です。

 とここまできて、考えてみました。以前は、私も自然法って言うものを単なる知識、ないし、仮想上のフィクションと考え勝ちだったのですが、今ではそう考えては人間の権利についてかなり脆弱な考え方しかできないと知るようになっています。

 日本において、自然法的な考え方が弱いのは、日本の伝統的な文化の問題も絡むことではありますが、それよりも現代日本において深刻なのは、大学における法学教育が上記のような問題をはらんでいることにある、とも思うわけです。

 ちなみに、九大は、キリシタンの伝統からか、カトリック系の法哲学者が多く(現在でも)、西欧人がアメリカを植民地化している15、6世紀、先住民インディアスの人間としての権利を擁護する法理論を展開したスペインのサマランカ学派のビトリア、スアレスの先駆的(孤高的?)研究者である伊藤不二男を擁したところでもあります。

〔補注〕下記も参照されたし。
《憲法》を基礎付けるもの(1)
《憲法》を基礎付けるもの(2)
H.L.A.ハート(H.L.A.Hart)の「自然法の最小限の内容」

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