学術出版社の創文社が出しているPR誌で、「創文」というのがありますが、その2002年12月号に興味深い一文がありました。
筆者は、水波朗氏で、元九大の法哲学者。表題は、「指月の譬え 後日譚:樋口陽一教授への手紙」。
内容としては、要するに
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日本の主流の憲法学、法哲学者である美濃部達吉、佐々木惣一、宮澤俊義、清宮四郎、黒田覚、芦部信喜、小林直樹、杉原泰雄、そして、樋口陽一、等が19世紀的な新カント派観念論の枠内(例えば、イェリネック、ケルゼン等)で事を考えていて、20世紀に登場した様々な流派の存在論哲学に何の関心も持ってこなかった。しかし、新カント派観念論は数十年前に全世界的に死滅していて、独、墺、佛、南米諸国、の多数の憲法学者は、今日では20世紀の存在論的諸哲学のいずれかに依拠して、現象学派とか、トマス主義派とかとして憲法学理論を展開している。
いくつかに相分れながらもそれらの間には存在論としての共通傾向があり、人権、主権、法の支配、立憲制、、公共の福祉、等を、観念論で考えているような概念化的反省知的認識の手前で、万人の非概念化的直知的理性により洞見されてる客在的な(自然)法的現実である、とする点で一致している。
(ここまでは、一部抜粋)
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ふう、学者の言葉使いはどうしてこうなのか、もう少しなんとかならんでしょうかね。
ま、とにかく、その意味で、日本の憲法学界は世界と数十年間のギャップがあり、取り残されて恥ずかしいぞ、はやくこの事態に気づいて、追いつけ追い越せ、といった内容です。
とここまできて、考えてみました。以前は、私も自然法って言うものを単なる知識、ないし、仮想上のフィクションと考え勝ちだったのですが、今ではそう考えては人間の権利についてかなり脆弱な考え方しかできないと知るようになっています。
日本において、自然法的な考え方が弱いのは、日本の伝統的な文化の問題も絡むことではありますが、それよりも現代日本において深刻なのは、大学における法学教育が上記のような問題をはらんでいることにある、とも思うわけです。
ちなみに、九大は、キリシタンの伝統からか、カトリック系の法哲学者が多く(現在でも)、西欧人がアメリカを植民地化している15、6世紀、先住民インディアスの人間としての権利を擁護する法理論を展開したスペインのサマランカ学派のビトリア、スアレスの先駆的(孤高的?)研究者である伊藤不二男を擁したところでもあります。
〔補注〕下記も参照されたし。
《憲法》を基礎付けるもの(1)
《憲法》を基礎付けるもの(2)
H.L.A.ハート(H.L.A.Hart)の「自然法の最小限の内容」
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