Stephen Toulmin

2019年6月 2日 (日)

「modernity」の二つの起源

amazon.jp に下記、日本語版にレビューを投稿しました。

Stephen Toulmin “Cosmopolis: The Hidden Agenda of Modernity ”(1992)

続きを読む "「modernity」の二つの起源"

| | コメント (0)

2011年12月 4日 (日)

直観主義(intuitionism)とポアンカレ(Jules-Henri Poincaré)

 以前、下記のエントリーでポアンカレと直観主義の関連に強い疑義を書いた。ところがある文献*を読むとその関連には合理的根拠があることが分かった。従って、ここに小さく訂正のエントリーを記載しておく。ただし、私の間違いにも多少の救いはあるので、弁明も少し書いておきたい(箇条書き風に整理してみる)。

*林晋・八杉満利子 訳・解説『ゲーデル 不完全性定理』岩波文庫(2006年)
pp.181-197、特にp.197を参照。

続きを読む "直観主義(intuitionism)とポアンカレ(Jules-Henri Poincaré)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月13日 (金)

村上淳一『仮想の近代  西洋的理性とポストモダン』東京大学出版会1992

■伝統法史学とポスト・モダンの絶妙なハーモニー

 著者は、『近代法の形成』 を初めとした多くの名著をものされているドイツ法史の泰斗。東大西洋法史学のエースで四番みたいな人。ところがNiklas Luhmannの訳書を出したあたり(1980年前後)から、ポスト・モダン的なものへの志向が明確になり、伝統的な東大独逸法史学のディシプリンを若干逸脱しだす。おそらく周囲は「ありゃりゃ」と見ていたのだろうが、本人意に介せず、「ベルリンの壁崩壊」後の1992年に本書を出す。

続きを読む "村上淳一『仮想の近代  西洋的理性とポストモダン』東京大学出版会1992"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月25日 (土)

コスモポリスの転換 ( Transformation of Cosmopolis )

 村上淳一氏描くところの、Stephen Toulmin, Cosmopois : The Hidden Agenda of Modernity, 1990  の要約。

続きを読む "コスモポリスの転換 ( Transformation of Cosmopolis )"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月27日 (月)

合理性への逸脱 Deviation into sense

 表題は、下記から。

■Oswald Stewart Wauchope, Deviation into sense : The nature of explanation
Faber & Faber (1948)

O.S.ウォーコップ『ものの考え方 合理性への逸脱』講談社学術文庫(1984)

 西欧近代の人類史的意味を再考する場合、上記の本を念頭におくと、下記の2冊のアイデアを融合できる。

続きを読む "合理性への逸脱 Deviation into sense"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月 6日 (日)

17世紀科学革命と「紀律化」

ドイツの歴史学において「紀律化」の問題として扱われる過程が、トゥールミンによって別の側面から、十七世紀的合理主義の形成と展開の問題として論ぜられていることは、明らかであろう。トゥールミンは「紀律化」の過程を科学史と連動させ、「紀律化」に伴う「コスモポリス」観の転換を跡づけているのである。
村上淳一『仮想の近代 - 西洋的理性とポストモダン -』東京大学出版会(1992年)、p.152

続きを読む "17世紀科学革命と「紀律化」"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月28日 (金)

Weberだけがビョーキじゃない

「画家を志しながら、父との葛藤のなかで科学者となることを選んだことが、ジェイムズの生涯につきまとう深刻な憂鬱症をもたらしたことは多くの伝記作家たちの格好の題材となってきた」
W.ジェイムズ『純粋経験の哲学』岩波文庫(2004年)、p.267、解説(伊藤邦武氏筆)

 いやー、親による子への人格的抑圧とその身体的応答としてのdepressionっていうのはよくあるものだ。

続きを読む "Weberだけがビョーキじゃない"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月16日 (日)

議論は「競技」である

 私の病臥中、二つのコメントを戴いていた。

足踏堂さんのコメント
「私は、この列島の人たちが議論において、感情を切り離せないでいるのを度々経験してきました。感情に引っ張られて、なにやらわからない「口喧嘩」のようなものになっていく。議論を詰めるということの大切さこそ、近代議会制の要諦だと思います。それなのに、この国のかたちをつくった薩摩なるところでは、「議を言うな」と言った物言いがなされていたようです。ちょっとそういう雰囲気残っていませんかね?」

まつもとさんのコメント
「さらに悪いことには、それが「議論」というものの範型として相続されているように思います。ネット右翼の(たぶん)若者の議論は、彼らの親たちの世代の戯画でもあるのではないでしょうか。」

 幾つか興味深い点を含んでいるので、記事として敷衍してみよう。topic は二つある。

続きを読む "議論は「競技」である"

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2007年11月29日 (木)

思考モデルとしての法〔20190304追記〕

決定や行動、発話や議論における時機についての問題は、昔の哲学にとっては中心的なトピックであった。「合理的なことを企てる rational enterprise」際の当のモデルは、十六世紀の学識者にとっては、科学ではなく法律であった。

続きを読む "思考モデルとしての法〔20190304追記〕"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月22日 (水)

「御一新」 その隠されたモダニティ(1)

 まずは、以下の二つの引用を対照して、その奇妙な並行現象に注目していただきたい。

「おそらく、国学や水戸学的言説で満たされていた当時の思想空間において、「神武創業」は、抜本的革新を志向する文脈に登場してくる必然性を持った観念だったのであり、しかもそれは、王政復古の大号令の一節、「旧来驕惰の汚習を洗い」にもうかがわれるように、長い年月の間に積もり重なった汚濁を排除して、「純粋の始原」の回復をめざすところの、その意味で、日本における「原理主義」とでも呼ぶうるような志向をともなっていたのである。」p.47

坂本多加雄『明治国家の建設 1871~1890』〈日本の近代 2〉、中央公論社1999年

続きを読む "「御一新」 その隠されたモダニティ(1)"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

Abduction(アブダクション) Adam Smith Aristotle Bertrand Russell Carl Schmitt Collingwood David Hume Football Gottfried Wilhelm Leibniz Immanuel Kant Isaiah Berlin John Stuart Mill Jose Ortega y Gasset Jules-Henri Poincare Katherine Mansfield Max Weber PDF Peak oil pops pragmatism René Descartes Shinji Kagawa sports Stephen Toulmin Strange Fruit Thomas Hobbes 「国家の品格」関連 お知らせ ももいろクローバーZ アニメ・コミック イスラム シンギュラリティ(singularity) タミフル(インフルエンザ) ネオコン(Neocon) ハンセン病 パソコン・インターネット フェミニズム・ジェンダー ミメーシス 三島由紀夫 与謝野晶子 中世 中国 中野三敏 仏教 佐藤誠三郎 備忘録 古代 古典(classic) 古書記 和辻哲郎 国制史 坂本多加雄 坂野潤治 夏目漱石 大正 大震災 天皇 学習理論 安丸良夫 宮沢賢治 尾藤正英 山田大記 山県有朋 川北稔 幕末・明治維新 徳川史 思想史 憲法 戦争 折口信夫 政治 政治哲学・政治理論 文化史 文学 斉藤和義 日本 日米安保 日記・コラム・つぶやき 明治 映画・テレビ 昭和 書評・紹介 服部正也 朝鮮 本居宣長 村上淳一 東アジア 柳田国男 梅棹忠夫 森 恵 歴史 歴史と人口 法哲学・法理論 渡辺浩 環境問題 生活史 知識再生堂(Renqing-Reprint) 知識理論 石井紫郎 石川淳 社会契約論 社会科学方法論 福沢諭吉 科学哲学/科学史 米国 経済 統帥権 美空ひばり 羽入辰郎 自然科学 複雑系 西洋 言葉 読書論 資本主義 赤松小三郎 近現代 速水融 進化論 金融 金言 関曠野 靖国神社 鮎川信夫 麻生太郎