弊ブログの取扱説明書/ Instruction manual for our blog
弊ブログには、2024年02月現在、約2000件の記事(essays)が公開されています。*In addition, please refer to the English version of this article.(Instruction manual for our blog: 本に溺れたい)
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Universal Declaration of Human Rights
世界人権宣言
Adopted and proclaimed by General Assembly
resolution 217A (III) of 10 December 1948
総会決議 第217A(III)号(1948年12月10日)により採択・宣言
※Source
Original text MOFA: Universal Declaration of Human Right
日本語訳 世界人権宣言テキスト | 国連広報センター
Liah Greenfeld の議論で、反論にさらされることが多いのは、中世イングランドにおいて「nationalism」が誕生し、それが後に人類社会の「近代化」をもたらした、という点、就中、15Cイングランドに「ナショナリズム」が誕生した、という史実解釈でしょう。そこでの彼女の論点は端的にいって、「薔薇戦争 1455~1487」が結果的に中世イングランド貴族社会を一掃したため、その人材穴埋めとして下賤の輩(people)たちに、イングランド王から pick up される機会(垂直的流動性)が生まれた、ということになります。それを、従来の歴史学では、王権が貴族を排して中央集権化を図った、とするのですが、Greenfeld は、新貴族となった「赤い血の貴族(=元 people)」の《自己了解 für sich selbst verstehen》or 《世界解釈 Weltdeutung》として歴史的に生成された、people の認識枠組みが《nationalism》だと再定義した訳です。その妥当性をチェックする一環としてChatGPTに以下の質問をし、下記の回答を得ましたので供します。ご参考になれば幸甚です。素晴らしい出来だと私は評価します。
◆問
「薔薇戦争(Wars of the Roses, 1455-1487)が、中世イングランド社会において、meritocracy の誕生、あるいは定着に関して、肯定的な影響を与えたか、否か、評価してください。また、薔薇戦争(Wars of the Roses)が、中世イングランド社会において、meritocracy の定着に肯定的な影響を与えたとする論者を教えてください。」
ChatGPTに2つの質問をしました。Q1は、「資本主義」語彙の起源を、5か国語(英、独、仏、伊、西)で調べること。Q2は、オランダ語の「資本主義」語彙の起源です。下記、ご参考になれば幸甚です。
Q1
下記の語彙の、歴史上の初出の文献をおしえてください。
Capitalism(英語)
Kapitalismus(ドイツ語)
capitalisme(フランス語)
capitalismo(イタリア語)
capitalismo(スペイン語)
Q2
下記の語彙は、19世紀に使用が始まった、とChatGPTから回答をもらいました。19世紀の、その文献名を特定してください。文献名のオランダ語表記とその日本語訳でおねがいします。
kapitalisme(オランダ語)
以下の質問をChatGPTに実行し、下記の回答を得ました。
閲覧して頂く方にご参考になれば幸いです。
問
下記の語彙の、歴史上の初出の文献をおしえてください。
Nationalism(英語)
Nationalismus(ドイツ語)
nationalisme(フランス語)
nazionalismo(イタリア語)
nacionalismo(スペイン語)
以下の質問をChatGPTに実行し、下記の回答を得ました。こういった問題設定をあまり見かけたことが無いので、ご参考になれば幸甚です。
問
「20世紀における、ドイツの Begriffsgeschichte(概念史) グループと、米国の History of Ideas(観念史) グループの知的交流の有無、そして、相似点と相違点、21世紀から見た思想史学上のそれぞれの評価をおしえてください。」
ChatGPTに、下記の質問をし、回答を得ました。優れている回答と判断しましたので、弊ブログに転載します。
問
「Liah Greenfeld(歴史社会学者, Boston University)の Nationalism 理論に対する、Thede Skocpol(歴史社会学者, Harvad University)による、評価と批判を教えてください。」
塩沢先生
コメントと興味深い記事のご紹介ありがとうございます。
見はるかすかぎり、風車が林立している農村、などというのは、壮観かつ何か心躍るものがありますね。
※参照 ´Fryslan boppe´. An in-depth inspirational analysis of work rewarded with the 2024 Riksbank prize in economic sciences. | Real-World Economics Review Blog
ご紹介の記事の著者のいうように、'to mechanize production processes' を「産業革命」の核心とするならば、この史実は「産業革命」と言うに値します。
ChatGPTに以下の質問をし、下記の回答を得ました。閲覧される方の参考になれば幸甚です。
◆問い
「18世紀後半のイングランド England の綿紡績業、綿織物業で、産業革命 Industrial Revolution が始まり、それが、米国を含む西欧主権国家群の競争心を刺激して、西欧世界に燎原の火のように広がり、19世紀中には西欧世界全体が都市型の産業社会に変貌しました。
しかし、中世後半から、18世紀半ばまで、イングランドのリーディング・インダストリーは、毛織物工業でした。対西欧貿易においても、競争力の強い産業は毛織物工業でした。原料の羊毛は良質のものをイングランド自身が産出するのですから、ある意味当然です。しかしながら、18世紀後半の産業革命は、イングランドにとって輸入原材料である原綿を主な投入財とする、綿工業で起きたのが歴史的事実です。
なぜ、イングランドの産業革命が、旧来の主力産業である毛織物工業からスタートせず、イングランドにとって新興である綿工業から始まったのか。21世紀の西欧経済史学の水準に基づいて、説明してください。」
積年の疑問がありましたので、ChatGPTに質問してみました。ご参考までに。
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問
旧約聖書「創世記」3章において、イブとアダムは、神の禁じた木の実を食べました。これを人間の神に対する原罪(peccatum originale/original sin)であるとする教説があります。この意味での「原罪」の教説が、下記の各宗教、あるいは各宗派にありますか。
①ユダヤ教(Judaism)
②ローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)
③ギリシア正教会(Greek Orthodox Church)
④イスラム教(al-Islām)
もし、各宗教、各宗派によって、「原罪」の教説の有無が一致しないのであれば、その理由を教えてください。
「学問の世界では、問題を解決してみせるよりも遥かに重要なのは、新たな問題を見つけてくることで、我々の埋め込まれている世界をより大きく広げて行くことなのです。要するに、その問題を解決してドアを閉じてしまう業績よりも、新しい世界を提示してドアを開ける業績の方が桁違いに讃えられるのです。」
上記の素晴らしい言葉は、
(11) 素数の何が解明されたら世の中は大きく変わりますか? - Quora
という記事中の、
Petrosky Tomio 氏(物理学者)の返信の結びの言葉です。久しぶりにグッと心にきました。
過日、年中行事ともいうべき、ノーベル賞の報道がありました。今年こそは、日本人受賞者がいるか、という、ま、オリンピックの金メダルの数を競うのと同じ、ナショナリズム的競争心の然らしむところなのでしょう。一方で、ノーベル「経済学」賞と通称されるものもあります。正式名称は、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」といいまして、自然科学のノーベル賞とは全く別物ですし、この賞のおかげで、「経済学」が物理学なみの「科学性」を獲得したのか?、といえば勿論そうではないでしょう。
プログラム解明科学とは、故吉田民人が提唱しているものです。従来の、物理学を第一モデルとする自然科学は、自然界に内在する「法則による秩序」を探求する「法則定立科学」であり、人間社会に内在する「規則による秩序」を探求する社会科学は、「プログラム解明科学」と呼ぼう、というアイデアです。
一方、SMT理論とは、
Yoshinori Shiozawa, Masashi Morioka, Kazuhisa Taniguchi
Microfoundations of Evolutionary Economics
Springer; 1st ed. (2019/7/10) , 364 pages, ISBN-10 : 4431552669
によって、全世界に向けて発表された、新古典派経済学を代替する、経済学の基礎理論です。
今回から内容書評に入ろうと思い、そのための下準備として、原著者のオリジナル概念、「近代政治の二重らせん double-helix of modern politics」、「尊厳資本 dignity capital」などの箇所を再読しました。そこで、訳文に重大な瑕疵と判断されるものと見つけてしまいましたので、申し訳ありませんが、もう一回、その指摘をさせて頂きます。ことはイスラム過激派に関する記述なので、政治的な意図で、歪曲されて流用されないとも限りません。念のため、本ブログの書評の一部として残しておくことに致します。
まことに恐縮ですが、誤訳、誤字と目されるものが散見しますので、内容を論ずる前に片づけておきます。
※詳細目次は本ページ最下段をご参照ください。
◆難しい書
本書は、《入門 Introduction》と書名にありますが、内容的に、超領域的、高度で、難解な著作です。抽象度が高く、対象への方法論(approach)を厳密に定式化したうえで、理論的に行論が進みます。
‘Deviation into Sense: The Nature of Explanation’ by O.S. WAUCHOPE, 1948, London, FABER & FABER
◆ブログ主による注釈
以下の文は、本書初版ジャケットの前後フラップ記載のものです。これは、おそらく当時、FABER & FABER社の文芸部門取締役だった、T. S. Eliot 執筆にかかるものと私は推定します。この4年前(1944年)には、ジョージ・オーウェルが持ち込んだ『動物農場』原稿を没にしたエリオットが、最終章に豚が登場するこの奇書の出版を推進するとは、なんという歴史の皮肉でしょう。
※英語原文は、Introduction by T.S. Eliot to O.S. Wauchope: 本に溺れたい をご参照ください。
当時の分析哲学真っ盛りの England 哲学界の中心Londonで、このような反時代的哲学書を出すことは、出版人としてはかなり勇気が必要だったはずです。なにしろ、ギルバート・ライルの『心の概念』が翌年の1949年に出版されて、大反響を得る、という時代です。もしWauchopeの本書の原稿が、反骨の詩人T.S. Eliot が文芸部門取締役をしているFaber & Faber に持ち込まれるという僥倖がなければ、本書は決して日の目を見ることはなかっでしょう。そして、そのエリオットを含む英文学の研究者深瀬基寛がたまたま本書を手にしなければ、本書の日本語訳書は出ることはなかったに違いありません。そして、Wauchopeから絶大な影響を受けた、安永浩による精神病理学の一連の業績も無かったでしょう。中井久夫は安永浩をこう評しています。「……安永は今後何度も再発見されるであろう……。」人の世の巡り合わせの不思議を思わざるを得ません。
以下は、Times Literary Supplement(15 January,1949), 45 に掲載されたマイケル・オークショット書評の日本語訳です。
※英語原文は、Michael Oakeshott's Review(1949), O.S.Wauchope, Deviation into Sense, 1948: 本に溺れたい へどうぞ。
書評本
Oswald Stewart Wauchope, Deviation into Sense: the Nature of Explanation.
London, Faber and Faber, 1948.
〔邦訳 O.S.ウォーコップ/深瀬基寛訳『ものの考え方:合理性への逸脱』昭和26年、弘文堂/昭和59年、講談社学術文庫 〕
◆ブログ主による注釈
20世紀における最も重要な政治哲学者の一人である、マイケル・オークショット(Michael Oakeshott)は、無類の書痴で、生涯に夥しい reviews を残しています。そのうちの一つに、なんと、故深瀬基寛氏が昭和26年に訳出した、O.S.ウォーコップ『ものの考え方 ー合理性への逸脱』弘文堂(のちに講談社学術文庫から復刊)の原本に対して、Times Literary Supplement上にreviewを書いていました。本書は、Faber & Faber,London という超一流の出版社(T.S.Eliotが学芸部門のdirectorをやっていた)から出されていたのですから、当時のLondonの知識人社会で多少は耳目を引いたと思うのですが、ほとんど無視され、何の知的痕跡も残しませんでした。分析哲学真っ盛りの当時の英米哲学では、こういう本は全く受けなかった訳です。4年のタイムラグで持ち込まれた二人の作家、オーウェルの『動物農場』をrejectして、全く無名の Wauchope の出版を決断したのはおそらく Eliot です。売れる筈のオーウェルを没にし、まあ売れないだろうウォーコップの出版決定をするとは、T.S. Eliotの偏屈さと聡明さをともに象徴しているとも言えそうです。
ま、そのおかげで、日本では素晴らしい訳が出て、それが、故安永浩氏の著作を通じて日本の精神医学界に安永ファントム空間理論へと大きな知脈を残しています。これも、「選択的親和性 Die Wahlverwandtshaften/Elective Affinities」(Max Weber)の事例だと思います。この Oakeshott の review は、Wauchope の提出した議論の面白さ、重大さを認識はしています。しかし、迷っている節があります。本書の反時代的偉大さにさすがの Oakeshott も決定的な支持を明確にはしていないようです。本書評はこう結ばれています。「しかし、読者が細部の誤りや支離滅裂さを嘆くことがあろうとも、本書はそのような誤りが致命的となる類の本ではない。 この本には、もっと重大な誤りにも耐えうるだけの天才と、十二分な生命力がある。」
西欧人、西欧の学知は、「合理性へ逸脱してしまった」という議論ですので、いまでも西欧人は嫌な顔をしそうです。非西欧人は本書をじっくり読んだ方がよいと思います。その呼び水になれば嬉しいです。
Deviation into Sense: The Nature of Explanation, by O.S. WAUCHOPE, 1948, London, FABER & FABER
The following text is from the front and back flaps of the jacket of the first edition of this book. I presume it was written by T. S. Eliot, then director of the literary division of Faber & Faber. What an irony of history that Eliot, who four years earlier (1944) had rejected George Orwell's manuscript of “Animal Farm,” would promote the publication of this strange book in which a pig appears in the final chapter. It must have taken a lot of courage for the publisher to publish such an antiquated philosophy book in London, the center of English philosophy at the height of analytic philosophy at that time. After all, Gilbert Ryle's “The Concept of Mind” was published in 1949, the following year, to great acclaim. If it had not been for the fortuitous chance that Wauchope's manuscript for this book was brought to Faber & Faber, where the rebellious poet T.S. Eliot was director of the literary department, the book would never have seen the light of day. And if Motohiro Fukase, a scholar of English literature who includes Eliot, had not happened to come into possession of this book, it would never have been translated into Japanese. And Koichi Yasunaga, who was greatly influenced by Wauchope, would not have been able to produce a series of works on the subject. Hisao Nakai described Koichi Yasunaga as follows. “...... Yasunaga will be rediscovered ...... many times in the future.” One can't help but wonder at the strangeness of the human world.
When I hear Kazumasa Oda's famous song “Kotoba ni dekinai (Words can't do it)” (1982, Japanese pops), I tend to rush into it. I always say to myself, “You've already got the words!” And I am not surprised.
Rule of Law は、「法治主義」とは異なる。法治主義という言葉も人によって若干用法が違うが、基本的には、統治が法律によって行われなければならないとする原理であると言ってよいであろう。具体的には、法治主義は、国民に義務を課す法の定立は(細部はともかくとして少なくともその大綱は)議会のよる法律の制定という形でなされるべきこと、司法は独立の裁判所により法律に準拠して行われるべきこと、行政もまた予め定められた法規に基づいて行われるべきことを、要求するものであるとされる。このように、法治主義は、英語では rule by law と表現するのが適切な性質のものなのである。
The following is a review of Michael Oakeshott in Times Literary Supplement(15 January 1949), 45.
Oswald Stewart Wauchope, Deviation into Sense: the Nature of Explanation.
London: Faber and Faber, 1948.
世のマルクス主義者たちの多くは今日なお、マルクス自身は説いた覚えがない筈の〈弁証法的唯物論〉なるものを信奉しており、おかげで弁証法と史的唯物論をどのように統一したものか四苦八苦しているようである。そうした円を方形にするためのシジュポスの空しい労苦は、彼等にまかせておくことにしよう。しかしながら唯物弁証法(ディアマート)というキマイラは、マルクスの著作の歪曲と偽造を意味するだけではない。それは彼のテキストを歴史から孤立させて、一連の啓示からなる聖典にしてしまい、他のテキストとの関連においてそれらの歴史的に可能な意味を再=解読するという作業を、一貫して妨害してきたのである。
こうして人々は例えば、『資本論 ―経済学批判』とフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と先験現象学』が、根底においては同一のテーマを扱った二つの書物にほかならないことを理解しそこねてきた。だから我々はここで改めて問おう。そもそもマルクス主義者たちは、なぜマルクスの資本主義批判が、一見まるでスコラ的試みにみえる〈経済学批判〉という形をとらざるをえなかったのか、きちんと説明したことがあったろうか。彼等はこの問いに答えることを怠り、代りに唯物弁証法と並ぶキマイラである「マルクス経済学」なるものをでっちあげた。ところが『資本論』のサブタイトルは次のことを意味している。つまり、マルクスにとって資本制生産の秘密は〈学〉の存在、「経済学」という形で組織された一定の言説秩序と不可分だということなのだ。プルードンやバクーニンに対する彼の論争も、その究極の動機は、彼のこの認識にあると言わねばならない。経済=学の存在は何を意味するのか、その批判とはどういう企てを意味するのか。こうした問いを抜きにしては、マルクスとは誰であったのか理解することは不可能であろう。
本書は、戦後日本の社会科学書のなかで、最も創造的、innovative な成果の一つです。その内容には、知識論(Knowledge theory)、人間行動論、習慣論(habit theory)も含まれ、人文学(主に理論哲学)にも影響を与えずにはおきません。従いまして私も本ブログにて幾度か論じているのですが、それにも関わらず出版社品切れとなっています。仕方が無いので、塩沢氏の他の著作のように文庫化されることを願いつつ、デジタルリソース化を弊ブログで試みることにしました。無論、著作権が存在しますから全文をデジタル化できません。
ただ、塩沢由典氏が単行本として論文集を編む際、収録論文の終りに大抵「解題」なる著者自身によるコメントが付されます。これは読者にとり、極めてありがたいものです。何故なら、執筆のいきさつ、執筆動機、論文集発行時現在での自己評価、補遺等を含むものだからです。この「解題」が丁度よい文量で各章に付随しています。これをデジタルリソース化してその全容を可能な限り多くの人々に知ってもらおうと計画しました。
いずれ、すべての各章「解題」を弊ブログに掲載する予定ですが、とりあえず、今回は、本書の中心論文である「複雑さの帰結」(1993年)の「解題」をupしてみることとします。
以下の文は、書評として書き出しましたが、あらぬ方向に向かって書き終わってしまいました。とりあえず、備忘録としてこちらに書き留めておきます。
〔書評〕勝田有恒・森征一・山内進編『概説西洋法制史』2004年ミネルヴァ書房
本書は、非西欧知識人が座右に置くべき必読書と言えます。なぜなら、現代の巨大、複雑な社会がそこそこの秩序を保ち、運営されているのは、発達した近代法体系に負うからですし、それは西欧人たちが構築してきた歴史資源であることは否定しようもないからです。
内容は、「西洋法制史」事典ですが、充分にドイツ風の「西洋国制史」ハンドブックとも評せるでしょう。
下記に転載するのは、関 曠野氏が2012年に発表したルソー論です。関 曠野氏のルソー論に関してはかなり古い前史があります。氏は、代表作と言える、『プラトンと資本主義』を1982年(北斗出版)、『ハムレットの方へ』を1983年(北斗出版)に、矢継ぎ早に世に出し、1986年には、朝日新聞社から『ルソーと近代社会』と題する新著を上梓するという予告が、いくつかのメディアにて公表されていたのです。ただ、極めて残念ながら、2024年現在においても、氏の新しい主著となるべきルソー論は、いまだ著されていません。周辺ではかなり期待され、ご本人も強い意欲を持たれて、資料の読込み、研究ノート等、執筆準備はかなり積みあがっていたように仄聞します。ただ、そういった経緯の中で、氏は2012年に本論文を公表しています。8000字、原稿用紙400字詰で20枚で、大論文とは言いかねますが、氏のルソー論がもし世に問われていればこうなっていたであろう、そして大きな議論を呼ばざるを得なかったであろう、と想像させるに足る内容となっていると思われます。是非、多くの方の目に触れてほしいと願い、デジタルリソース化して弊ブログに掲載いたします。
そしてこの底流の動因をなしているものは近代工業技術である。技術はコンヴィヴィアルな道具たるべきだというイリイチの主張には異論はない。しかし残念ながら人間は挫折と失敗をとおしてしか学び得ぬ存在である。古代の運命にように発展してきた近代技術は、たとえセクソシスト体制をとおしてであれ、危機をとおして否応なく人間にその歴史的自己了解の様式の転回を強いる両義的で、教育的な力を秘めている。それ故に、核戦争の脅威や環境の危機にもかかわらず、現代技術が人類に及ぼす長期的なインパクトは肯定的なものと考えられる。この点でイリイチの現代文明批判は、マルクスを「経済人」のイデオローグと見る視点を含めて、いささか性急にすぎ、彼の師ポランニーの一面性と抽象性を受け継いでいるところがあるように思う。
関 曠野/書評「ホモ・エコノミクスの興隆 ― I.イリイチ『ジェンダー』」、1985年5月、より
ソポクレスの悲劇『オイディプス王』の冒頭で、神官がオイディプスにテーバイに降りかかった災厄について報告する。誰も知りえぬ原因によって今や作物は枯れ、家畜たちは死に、生まれぬ子の産褥に女たちはあえぎ、疫病が国中を荒らしまわっている。かつてスフィンクスの謎を解いてテーバイの人々を怪物から解放したオイディプスに、再び「社会科学者」および「法の執行者」として人民の救世主になるべき時が来たのだ。そして神官が説くオイディプスの使命は、演劇そのものの使命でもある。共同体の危機と苦悩なしには、演劇はその存在理由を失う。共同体が何かの原因でアブノーマルな状態にあること―そこに一切の演劇の発端がある。
The technology traditionally referred to as blockchain is nowadays called "Distributed Ledger Technology ( DLT )". This is because the essence of DLT is to manage ownership data in a decentralized manner.
※本記事は、DLT( Distributed Ledger Technology )と華厳思想: 本に溺れたい の英訳版です。
original:Seki Hirono, Yaban to shiteno Ie-Shakai,1987, March, Ochanomizu Shobo、pp.378-80
First Publication:朝日ジャーナル、1985年11月1日、朝日新聞社
This is a review of the following book by the historian of ideas, Seki Hirono. It is an excellent review that is simple and to the point, so we are republishing it on our blog.
Albert O. Hirschman, The passions and the interests : political arguments for capitalism before its triumph, 1977, Princeton University Press
(Princeton University Press, 2013, 1st Princeton classics ed,pbk, foreword by Amartya Sen ; with a new afterword by Jeremy Adelman)
本論考は、思想史家・関 曠野の下記への書評です。簡にして要を得た優れた書評なので、弊ブログに再掲いたします。
〔訳書〕アルバート・O. ハーシュマン『情念の政治経済学』佐々木毅・旦祐介訳、1985年9月、法政大学出版局、叢書・ウニベルシタス, 165
〔original book〕Albert O. Hirschman, The passions and the interests : political arguments for capitalism before its triumph, 1977, Princeton University Press
※See(en.ed.) : Seki Hirono, Unearthing the Forgotten History of Ideas, 1985: 本に溺れたい
Otto Brunner named Europe from the 12th to 18th centuries the Alteuropa, which, according to Brunner, had das ganze Haus as the basic unit of society, self-help by Fehde as the central dispute resolution mechanism, and an isogamous state system based on a caste system parliament. The Alteuropa was the basic unit of society. In other words, the Alteuropa world was a space-time alien in principle to modern Europe.
以下は、大日本帝国が昭和16(1941)年12月8日の約1か月前に決定した開戦にあたっての基本的な国家戦略です。とりあえず、原文を新漢字・かな遣いで書き直して、全文掲載しておきます。
※原本PDF(国立公文書館) 24、対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 昭和16年11月15日
大日本帝国およびその政軍の指導者たちが西欧世界に正面切って軍事的に挑戦しようとしたとき、何を考えて(or 考えずに)始めたか、の歴史的証拠の一つです。私たち21世紀に生きる日本人が自らと今後を考えるための資源となれば幸いです。
「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」 昭和十六年十一月十五日 大本営政府連絡会議決定
関 良基『江戸の憲法構想 日本近代史の〝イフ〟』作品社 2024年3月
本書は、関 良基氏の手になる、「明治維新」を再考する三作目の著書です。
1)『赤松小三郎ともう一つの明治維新 ―テロに葬られた立憲主義の夢』2016年12月
2)『日本を開国させた男、松平忠固 ―近代日本の礎を築いた老中』2020年7月
これで、関 良基氏の「幕末維新」三部作(すべて作品社刊行)が世に問われたと言ってもよいでしょう。
The microwave oven will notify you when it is ready with a "ding! when the microwave oven is finished. Washing machines also buzz when the laundry is finished. A navigation system in a car will say "Happy New Year" to the driver. It is as if a machine is talking to us. Is this communication with things?
*See also
ヒトはモノとコミュニケートできるか? : 本に溺れたい
前回の記事、
動物に心はあるか?/Do animals have minds or hearts?: 本に溺れたい
の続報です。
知人のSNSからご教示いただきました。
週刊SPA! 2024 4/23・30合併号(扶桑社刊)p.92-5 インタビュー記事「エッジな人々」
「鳥の言葉がわかる男 鈴木俊貴」
以下、その記事からの(極めて興味深い)抜粋
※註 Answer「」内が Dr.鈴木俊貴の回答
Quora、というQ&Aサイトでたまたま見かけたのが下記。
ある回答者は、以下のように返信しました。
「解ってから先に進むと言うのが一番下手な勉強法です。」
「解らなくても良いからどんどん先に進む。ただし進みっぱなしでは駄目です。時々戻ってこなくてはならない。そうすると、あの時解っていなかったことが、驚くほど簡単に解っていることに気がつく。螺旋状の輪を描きながら先に進んで行くのです。」
佐藤竹善「ウタヂカラ CORNERSTONES4」2007年CD
★収録内容
1.万里の河(作詞・作曲: 飛鳥涼)
2.サヨナラ(作詞: GAO/作曲: 階一喜)
3.初恋(作詞・作曲: 村下孝蔵)
4.真夏の果実(作詞・作曲: 桑田佳祐)
5.雨の物語(作詞・作曲: 伊勢正三)
6.桜坂(作詞・作曲: 福山雅治)
7.ロビンソン(作詞・作曲: 草野正宗)
8.そして僕は途方に暮れる(作詞: 銀色夏生/作曲: 大沢誉志幸)
9.俺たちの旅(作詞・作曲: 小椋佳)
10.「いちご白書」をもう一度(作詞・作曲: 荒井由実)
■初回限定盤のみのボーナストラック
11.少年時代(作詞: 井上陽水/作曲: 井上陽水・平井夏美)
最近、以下のような質問を異国系の日本人の方から質問されました。
Q.
「岸田首相の訪米演説は本当に恥ずかしいと感じます。アメリカの走狗であってもそこまでかというぐらいに恥ずかしいです。最近オッペンハイマーの映画を見ましたが、日本の普通の人たちは、本当に被害者意識があるのでしょうか? 被爆されて死んだ人達は今、日本の対米態度を見てどう思うのでしょう。」
Critique of pure reason
Immanuel Kant ; translated and edited by Paul Guyer, Allen W. Wood
(The Cambridge edition of the works of Immanuel Kant / general editors, Paul Guyer and Allen W. Wood)
Cambridge University Press, 1999: pbk
表題は、amazonによく掲載されている、本書に関するその筋の専門家のレビューの一つです。一読し、びっくりしました。すげぇ、と思わず叫んじゃった。カント研究者には常識なのでしょうが。
"Paul Guyer's and Allen Wood's new translation of Kant's Critique is a superb volume that forms the heart of Cambridge's excellent series of translations of Kant's works. Because of the quality of the translation, but also because of the various supplementary materials which it provides...it will very likely replace Norman Kemp Smith's translation as the standard edition for scholars. It is difficult to imagine that anyone would be able to improve on this volume in the foreseeable future." Eric Watkins, International Philosophical Quarterly
Fonte del titolo del saggio: "Gendai Shi Techo", maggio 1997, vol. 40, n. 5, pp. 26-30, speciale "Ecrittura di confine".
Questo saggio non è incluso nel libro di Bin Kimura. Pertanto, l'unico modo per leggere questo saggio intellettualmente interessante di Kimura è quello di recarsi in una biblioteca e sfogliare i numeri arretrati della rivista, oppure acquistare la vecchia rivista stessa in una libreria di seconda mano. Se non mi fossi abbonato a questa rivista minore, non avrei mai saputo della sua esistenza. Sono venuta a conoscenza di questo saggio per puro caso, perché l'ho letto al lavoro nel National Centre Test for University Entrance Examinations 2012 (giapponese) (ma in versione semplificata). È estremamente triste vederlo sepolto, quindi lo pubblico qui per intero, dato che si tratta di un articolo di rivista di 30 anni fa, e rispetterò le richieste di rimozione ricevute dai detentori del copyright.
I miei commenti su questo saggio sono vari. Mach bands and identity", "Boundaries and the W.James fringe", "Ortega and me/my environment", ecc. Nessuno di questi può essere scritto in pochi minuti, quindi farò del mio meglio per pubblicarli durante le vacanze di Capodanno. Per ora, pubblicherò questo saggio prima della fine dell'anno.
标题文章来源:《現代詩手帖》,1997 年 5 月,第 40 卷,第 5 期,第 26-30 页,"Boundary Ecriture "特辑。
木村敏的书中没有收录这篇文章。 因此,要想读到木村这篇充满智慧的文章,唯一的办法就是去图书馆翻阅杂志的过刊,或者去二手书店购买旧杂志。 如果我当初没有订阅这本小杂志,我永远不会知道它的存在。 我知道这篇文章完全是一个偶然,因为我在工作中读到了 2012 年全国大学入学考试中心测试(日语)中的这篇文章(不过是简化版)。 看到这篇文章被埋没,我感到非常难过,因此我将其全文发布在这里,因为这是一篇 30 年前的杂志文章,如果版权持有者提出删除要求,我将遵从。
我对这篇文章的评论多种多样。 如 "乐队与身份"、"边界与 W.James 边缘"、"奥尔特加与我/我的环境 "等,都不是几分钟能写完的,我将尽我所能在新年假期期间发表。 现在,我将在年底前发表这篇文章。
Source de l'essai : "Gendai Shi Techo", mai 1997, vol. 40, no. 5, pp. 26-30, rubrique spéciale "Boundary Ecriture".
Cet essai n'est pas inclus dans le livre de Bin Kimura. Par conséquent, le seul moyen de lire cet essai intellectuellement intéressant de Kimura est de se rendre dans une bibliothèque et de consulter les anciens numéros du magazine, ou d'acheter le vieux magazine lui-même dans une librairie d'occasion. Si je n'avais pas été abonné à ce petit magazine, je n'en aurais jamais connu l'existence. J'ai pris connaissance de cet essai tout à fait par hasard, en le lisant au travail dans le National Centre Test for University Entrance Examinations (japonais) de 2012 (mais dans une version simplifiée). Il est extrêmement triste de le voir enterré, c'est pourquoi je le publie ici dans son intégralité, car il s'agit d'un article de magazine vieux de 30 ans, et je me conformerai à toute demande de retrait reçue de la part des détenteurs de droits d'auteur.
Mes commentaires sur cet essai sont variés. Mach bands and identity", "Boundaries and the W.James fringe", "Ortega and me/my environment", etc. Aucun d'entre eux ne peut être écrit en quelques minutes, et je ferai donc de mon mieux pour les publier pendant les vacances de fin d'année. Pour l'instant, je publierai cet essai avant la fin de l'année.
Fuente del ensayo del título: "Gendai Shi Techo", mayo de 1997, vol. 40, nº 5, pp. 26-30, especial "Boundary Ecriture".
Este ensayo no está incluido en el libro de Bin Kimura. Por lo tanto, la única forma de leer este ensayo intelectualmente interesante de Kimura es acudir a una biblioteca y hojear los números atrasados de la revista, o comprar la propia revista antigua en una librería de segunda mano. Si no me hubiera suscrito a esta revista menor, nunca habría sabido de su existencia. Conocí este ensayo totalmente por casualidad, ya que lo leí en el trabajo en la Prueba del Centro Nacional para los Exámenes de Acceso a la Universidad de 2012 (en japonés) (pero en versión simplificada). Es sumamente triste verlo enterrado, por lo que lo publico aquí íntegro, ya que se trata de un artículo de revista de hace 30 años, y atenderé cualquier reclamación de retirada que reciba de los titulares de los derechos de autor.
Mis comentarios sobre este ensayo son variados. Mach bands and identity', 'Boundaries and the W.James fringe', 'Ortega and me/my environment', etc. Sobre ninguno de ellos se puede escribir en unos minutos, así que haré lo posible por publicarlos durante las vacaciones de Año Nuevo. De momento, publicaré este ensayo antes de que acabe el año.
Quelle des Titelaufsatzes: "Gendai Shi Techo", Mai 1997, Bd. 40, Nr. 5, S. 26-30, Sonderteil "Boundary Ecriture".
Dieser Aufsatz ist nicht in dem Buch von Bin Kimura enthalten. Daher besteht die einzige Möglichkeit, diesen intellektuell interessanten Aufsatz von Kimura zu lesen, darin, eine Bibliothek aufzusuchen und die alten Ausgaben der Zeitschrift durchzusehen oder die alte Zeitschrift selbst in einem Antiquariat zu kaufen. Hätte ich diese kleine Zeitschrift nicht abonniert, hätte ich nie von ihrer Existenz erfahren. Ich erfuhr von diesem Aufsatz ganz zufällig, als ich ihn bei der Arbeit im National Centre Test for University Entrance Examinations (Japanisch) 2012 las (allerdings in einer vereinfachten Fassung). Es ist sehr traurig zu sehen, dass er begraben wurde, daher stelle ich ihn hier in voller Länge ein, da es sich um einen 30 Jahre alten Zeitschriftenartikel handelt, und ich werde allen Forderungen der Urheberrechtsinhaber nach Entfernung nachkommen.
Meine Kommentare zu diesem Aufsatz sind vielfältig. Mach bands and identity", "Boundaries and the W.James fringe", "Ortega and me/my environment" usw. Nichts davon kann in ein paar Minuten abgehandelt werden, also werde ich mein Bestes tun, um sie während der Neujahrsferien zu veröffentlichen. Vorerst werde ich diesen Aufsatz noch vor Jahresende veröffentlichen.
Source of the title piece: "Gendai shi techo," May 1997, vol. 40, no. 5, pp. 26-30, special feature "Boundary ecriture.
This essay is not included in the book by Bin Kimura. Therefore, the only way to read this intellectually interesting essay by Kimura is to go to the library and look through the back issues of the magazine, or to buy the old magazine itself at a second-hand bookshop. If I had not subscribed to this minor magazine in the first place, I would never have known of its existence. I came to know about this essay entirely by chance, as I read it at work in the 2012 National Centre Test for University Entrance Examinations (Japanese) (but in a simplified version). It is extremely sad to see it buried, so I am posting it here in full, as it is a 30-year-old magazine article, and I will comply with any removal claims received from copyright holders.
My comments on this essay are varied. 'Mach bands and identity', 'Boundaries and the W.James fringe', 'Ortega and me/my environment', etc. None of them can be written about in a few minutes, so I'll do my best to post any of them during the New Year holidays. For now, I will post this essay before the end of the year.
表題作の出典:『現代詩手帖』1997年5月 40巻5号 pp.26-30、特集「境界のエクリチュール」
このエッセイは、木村敏の単行本には収録されていません。従いまして、知的に興味深い木村のこのエッセイを読むには、図書館で雑誌バックナンバーを繰るか、古書店で古雑誌そのものを購入するしかありません。そもそもこのマイナーな雑誌を購読してなければ、その存在自体、知る由もないでしょう。私が当エッセイを知ったのは全くの偶然です。2012年大学入試センター試験「国語」に出題されたものを仕事で読んだからです(ただし簡約版)。埋もれてしまうのは極めて惜しいので、ここに完全版として公開します。30年も前の雑誌記事ですが、著作権関連者の方から削除クレームが届いたらそれに従います。
私の、このエッセイに対するコメントは、いろいろあります。「Mach bandsとidentity」「境界とW.Jamesのfringe」「Ortegaと私/私の環境」、etc. どれも数分で記事化できる代物ではないので、正月休み中にどれかpostできるよう頑張ります。とりあえず、このエッセイを年内に投稿することとします。
『葬送のフリーレン』ノンクレジットOP/OPテーマ:YOASOBI「勇者」/毎週金曜よる11時放送 - YouTube
これは放送配信用で、1:32で、shortmovie 版です。
YOASOBI というと、『推しの子』の「アイドル」が、世界的にヒットしています。『推しの子』は観ていませんが、「アイドル」を聞いたとき、何が良いのかちょっとわかりませんでした。しかし、『葬送のフリーレン』OP/YOASOBI「勇者」を聞いたとき、これはいい、と見直しました。下記。
TVアニメ『呪術廻戦』第2期「渋谷事変」ノンクレジットEDムービー/EDテーマ:羊文学「more than words」|毎週木曜夜11時56分 - YouTube
アニメ『呪術廻戦』第2期「渋谷事変」(現在配信中)のEDテーマ、良いです。
前半部のギター、後半部のドラムが、とてもかっこいい。羊文学は、リード/ベース/ドラムの3piece girls band。アルトのVoもよい。
12月21日(木)に完結しました、「魔法使いの嫁2」第2クールのED曲がよいです。
「fam」唄/遊遊
作詞/遊遊、作曲/毛蟹、編曲/毛蟹・Iruma Rioka
静謐に始まり、ゆっくり劇的に盛り上げていきます。
(1)より
LILIUM のカバーで、気に入ったものを(2)として post しておきます。歌唱1点、器楽奏2点です。
まずは、バイオリンと電子ピアノによるプロジェクト。
ELFEN LIED - 「Lilium」| FULL VERSION | Violin / Piano Cover by ORiHANA - YouTube
オリジナル曲の女性ソプラノ部が、バイオリンによって哀切に「歌わ」れています。その音色は力強く、巧みです。Lilium(百合)の純潔性と物語の凄惨で不条理な悲劇性が「織り」重なって聞こえます。
松本 和志 - 秋の大村湾は美しいね。 | Facebook
からお借りしました。海面の波紋と千切れ雲の対照が際立ちます。素晴らしい。松本さん、ありがとう。
大村湾は、琴湖ことのうみ、という美しい別名があるとのこと。
前回記事、沢田マンション:日本の カサ・ミラ〔1〕/Sawada Manshon: Casa Milà, Japón〔1〕: 本に溺れたい
を仲間内で拡散しましたら、早稲田にもあるよ、と知人からご教示いただきました。
下記(画像は ドラード和世陀 - Wikipedia 様より拝借)。
Antoni Gaudíに比せられたら、冥土の沢田嘉農さんも苦笑されるかも知れませんが・・・。私の気儘な連想ということで、ご勘弁。
なかなか気になる新聞記事がありました。下記。
農家が8割減る日 主食はイモ、国産ホウレンソウ消滅? - 日本経済新聞( )
記者自ら、コメ主食から、農水省推奨の代替主食イモで、献立し試食したところ、三日目の昼食にはギブアップしたとのこと。記事中で、半世紀後、国内農作物は下記の事態を迎えると予想されています。
上記、日経記事より。
The truly "great man" and genuine "leader" looks completely different and acts completely different from the "great man" of popular myth. He does not lead by "charisma" – an abomination and phony. The truly strong man leads by hard work and dedication. He does not centralize everything in his hands but builds a team. He dominates through integrity, not through manipulation. He is not clever, but simple and honest.
Peter F. Drucker, Adventures of a Bystander, 1994, NY, John Wiley, p.155
「このネコの名前はエド。スフィンクスと呼ばれる種類で、好奇心が強く、社交的で、愛情深く、人の感情に敏感に反応する。名前を呼べば喉を鳴らす。前に傾いた耳はこちらに注意を向けていること、細くなった瞳孔はリラックスしたことを示す。(PHOTOGRAPH BY VINCENT LAGRANGE)」
ナショナルジオグラフィック日本版サイト/特集ギャラリー:動物たちの心 写真14点
ナショナルジオグラフィック日本版(2022年10月号)
上記の写真を見て、その双眸から眼を離すことができなくなってしまうのは、私だけではないでしょう。ナショナルジオグラフィック日本版(2022年10月号)の表紙です。私は一目で心を奪われてこの号を購入してしまいました。
続編の(2)を up しました。今度は、鳥(シジュウカラ)の言葉とジェスチャーの研究紹介です。
日本列島では、2022年9月現在で、人口年齢構成は以下のようになっています。
総人口:1億2500万人
15歳未満:1500万人(12%、総人口比)
15歳以上64歳以下:7400万人(59%)=生産年齢人口
65歳以上:3600万人(29%)
〔うち、75歳以上:1900万人(16%)=後期高齢者〕
以下に転載する文は、いまから49年前の対談の記録です。中央公論社から半世紀前に全50巻で出版された叢書『日本の名著』中の、第16巻「荻生徂徠」付録に掲載されたもので、この巻の編者尾藤正英氏(徳川思想史)と日野龍夫氏(徳川文学史)のお二人による対談です。ご両人とも既に鬼籍に入られておられます。
大日本帝国の「アジア・太平洋戦争」が、1945(昭和20)年に、連合国軍への無条件降伏で幕を閉じて以降の約25年間、石油ショック以前の、いわゆる「戦後」期において、徳川期の政治思想史における荻生徂徠像は、1952年に出た、丸山真男著『日本政治思想史研究』東京大学出版会(ただし、収録された論文はすべて戦時下に発表された業績)の強い影響下にあるものでした。それは要するに、モダンな、白「徂徠」だったと言ってよいでしょう。徳川日本の政治思想史の展開において、'modernization' の文脈から肯定的に徂徠を位置づけたものでした。
この中央公論社の『日本の名著 第16巻』に収められた、尾藤氏の解説論文「国家主義の祖型としての徂徠」(以下掲載の講談社学術文庫版にも収録)が提出した徂徠像は、丸山氏の白「徂徠」とは真逆の、黒「徂徠」でした。その後、対談者の日野龍夫氏による《文学としての徂徠学派》研究も現れて、徂徠、および徂徠学派の文学運動としての側面からも光があてられ、戦後/高度成長期「徂徠像」は根本的に転換して今日に至っています。反民主主義思想家としての荻生徂徠、です。
つまり、この対談は、戦後の徂徠像の根本的修正に大きな影響を与えた、お二人の碩学の対談ということになります。それだけに貴重であり、また会話体ですから、議論の流れも理解し易いものになっています。徂徠の功(白い徂徠)と罪(黒い徂徠)をともに語っている点も見逃せません。私にとり、とりわけ興味深かった議論は、日野氏(下記日野氏著作にも関連論文収載)の語る、文学運動としての徂徠派、あるいは、自我解放の文学としての江戸期戯作、でした。
一方で、この対談が今後、活字化(テキスト化)される可能性は限りなくゼロに近いでしょう。著作権継承者たちはいらっしゃるでしょうが、対談でもあり、お二人の拾遺集のようなものが編まれても、複数の著作権がからむため、まず日の目を見ることはないでしょう。そのため、このまま歴史の絨毯の下に埋没してしまうのを恐れ、不肖私がデジタルテキスト化致しました。著作権継承者の方々から削除要請がくれば従いますので、それまで掲載させて頂ければ幸甚です。
荻生徂徠「政談」 講談社学術文庫2013/1
江戸人とユートピア 岩波現代文庫2004/5
日本の国家主義—「国体」思想の形成 岩波書店2014/5
弊記事、「鐘」と「撞木」の弁証法、あるいは、プロンプトエンジニアリング: 本に溺れたい
に、コメントを頂きました。その返信を書いているうちに長くなってしまいましので、改めて記事化すことしにしました。
It is said that when asked about the secret of writing, Mori Ogai replied, "First, clarity, second, and third". This is one of the definitive attitudes of a writer toward writing. It is well known that Stendhal modeled his writing on the "Napoleonic Code" and created a style of rare clarity. In fact, it is this kind of lucid writing that is the most difficult for the layman to imitate and the most subtle to taste with the tongue. This is because it is the opposite of tastelessness, and yet it is the opposite of tastelessness.Here is what Herbert Read said about Hawthorne's writing style. It seems to me that this is a very lucid definition of what "lucid writing" is all about. Herbert Read says the following:
鴎外は人に文章の極意を聞かれて、一に明晰、二に明晰、三に明晰、と答えたと言われております。これは作家の文章に対する一つの決定的態度であります。スタンダールが『ナポレオン法典』を手本にして文章を書き、稀有な明晰な文体を作ったことはよく知られていますが、実は最も素人に模写し難い文章、舌で味わうにはもっとも微妙な味をもっている文章は、こういう明晰な文章なのであります。何故ならばそれは無味乾燥と紙一重であって、しかも無味乾燥と反対のものだからであります。このような文章について、ハーバート・リードがこう言っております。これはホーソンの文体について言ったものでありますが、私にはこれが「明晰な文章」というものに関する、非常に明晰な定義であると思われる。
どうも人間というものは、ただ生きているというだけで他人に善悪いろいろの影響を与えるものらしい。コロンブスはアメリカを発見したためにあんなに多くの黒奴の大虐殺を誘致した。わたしのように一生語学の教師をしてきた人間はテキストの誤訳さえ犯さなければ罪はないかというと、決してそうでない。その例を二つ三つわたしの実例によって示してみよう。
西日本は昨日、梅雨が明けたらしい。関東ではまだそのニュースは流れていない。
ここ数日酷暑が続いていたが、今日は午後から断続的に多少強めの雨が降った。不意に降って、気付かぬうちにやんでいた。また降るかと少し気にはなったが、小さな所要を果たしに出ることにした。
社会学者の加藤秀俊が、『取材学』中公新書1975年に、interviewerとintervieweeの関係を、鐘と撞木に例えていました。鐘がすばらしく鳴るには、良い鐘であるとともに、撞き手の技量(問題領域に対する理解度、事前の準備、質問の工夫、質問者の知的水準、知的バックグラウンド)に左右される、と。まさに、chatGPT は、極めて優れた鐘であり、このAIに素晴らしい音を鳴らせることができるか否かは、この鐘の特性や傾向を理解して、どこを、どう撞けば、今の自分に最も有効な音をならせるか、という撞き手の手腕が露骨に出てしまう情勢まで、時代は来ているということです。
「問題の発見」「問題の定式化」「問題の提示」等に関して、その重要性を典型的に示すのは、数学の世界です。
what we don't know | what we know | |
We don't know | complete ignorance (A) | tacit knowledge, or body knowledge (C) |
We know | finding and setting up the problem(B) | being aware(D) |
What is knowledge? And what do the terms "know" and "don't know" refer to? The following is an attempt at a test discussion as a starting point for thinking about this.
The comparison between "serendipity" and "怪我の功名(Kega no Komyo)" reveals both similarities and differences.
「serendipity(セレンディピティ)」と「怪我の功名」は、どちらも偶然や予期せぬ出来事がもたらす結果や好影響に焦点を当てていますが、異なる側面を持っています。
I asked chatGPT the following question.
"Do you prefer your life to be 'thick and short' or 'thin and long'?"
遍照飛龍 様、弊コメントへの応答をありがとうございます。
「朱子学的紀律化の「市井的普及版」が、通俗道徳であった」
「この朱子学的紀律化の猛毒が『自己責任論による社会の荒廃と修羅化』の大きな原因」
上記の2点、重要なご指摘だと思います。この列島の19世紀は、百年間をかけた《朱子学的紀律化》の亢進だったのではないでしょうか。
Wer lacht und weint, ist frei, und weint, ist frei, und unter den Menschen besonders der, der viel gelacht und geweint hat.
Odo Marquard, Apologie des Zufaelligen : Philosophische Studien, 1986 (Reclams Universal-Bibliothek) S.135
マルクヴァルト『偶然性の弁護』1986年、p.135
( 笑う者は自由であり、泣く者は自由であり、人の中でも特によく笑い、よく泣いた者は、自由である。)
私は、この言葉を眼にすると、自分は「最近、(大)笑いも、(大)泣きもしていないな。」と、ふと思ってしまいます。
日常生活において、私たち市井の民は、だいたい理性的(当為的、合理的)に生きています。それで、自由でもあり、尊厳を持って生きている、と思います。
Odo Marquard, Apologie des Zufaelligen : Philosophische Studien, 1986 (Reclams Universal-Bibliothek)S.135
マルクヴァルト『偶然性の弁護』1986年、p.135
Indem wir lachen oder weinen, akzeptieren wir - andeutungsweise - das, was - offiziell - ausgegrenzt blieb, aber - inoffiziell - mit im Spiel ist: jenes Zufallige, das dem offizell Akzeptierten - zufalling - querkommt: durch es lachen oder weinen wir uns frei. So sind Lachbereitschaft und Weinbereitschaft - also Humor und Melancholie - Konkretionen von Toleranz und Mitleid: nicht nur menschlich, sondern auch allzumenschlich leistbare Respektieungen von Freiheit und Wurde des Menschen. Frei - das gehort somit zu den Implikationen und Resultaten meiner Uberlegung - frei ist, wer lachen und weinen kann; und Wurde hat der, der lacht und weint, und - unter den Menshcen - insbesondere der, der viel gelacht und geweint hat. Also auch diese Grenzreaktionen Lachen und Weinen sind Frmen dessen, auf das ich hier aufmerksam machen wollte: Formen der Apologie des Zufalligen.
私も今更に驚いてしまいました。認識不足でした。罪滅ぼしに(誰にだ!)、十年ぶりのfootballネタをupします。'fútbol'と'calcio'との視点から。
志筑忠雄(しづきただお)。宝暦10〔1760〕年生まれ、文化3〔1806〕年に没した徳川日本人です。元長崎通詞で、ケンペル『日本誌』の附録第六章を志筑が訳述した『鎖国論』が、「鎖国」という日本語の初出、ということをご存じの方もいらっしゃるでしょう。
大島明秀 - 投稿者自身による著作物, による
しかし、この人物、天才、と賞賛されても過分とは言えないかも知れません。例えば、百科事典の記述を一瞥しますと、
西欧世界における初期近代(Early modern)である17Cの覇権国は、北部ネーデルランド連邦共和国でした。
William of Orange III and his Dutch army land in Brixham, 1688 - Glorious Revolution - Wikipedia
In the first place, during the Augsburg War, the Bank of England was established as a bond-receiving and issuing bank to finance the war effort. The Bank of England thus became a keystone of what P. Dixon calls the 'fiscal revolution' and J. Brewer the 'fiscal military state'. The union of the Dutch and English cohorts (1689-1702) became a military-financial complex. This resulted in a soft landing of world hegemony from the Netherlands to England.
Iwanami Shoten (1999), World History 16: Sovereign States and the Enlightenment 16-18th Century, p.60 (Kazuhiko Kondo, "Early Modern Europe").
「ノスタルジア」の起源は意外とはっきりしています。1688年、スイスの医学生がバーゼル大学に提出した学位論文にこの語があります。原題は次のようなものです。
"Dissertatio medica de nostalgia, oder Heimwehe".
Death by Nostalgia, 1688 | TS Digest | The Scientist
The origins of 'nostalgia' are surprisingly clear: in 1688, a Swiss medical student submitted a thesis to the University of Basel. The original title is as follows.
"Dissertatio medica de nostalgia, oder Heimwehe".
Death by Nostalgia, 1688 | TS Digest | The Scientist
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