石川淳「江戸人の發想法について」(1943年)
「けだし、江戸人にあつては、思想を分析する思弁よりも、それを俗化する操作のはうが速かつたからである。」
「このやつしといふ操作を、文学上一般に何と呼べきか。これを俳諧化と呼ぶことの不当ならざるべきことを思ふ。」
「俗化といふことばの正当な意味を於いて、江戸俳諧の俗化とは、流行が芭蕉の発句から其角の発句に移ったといふことではなくて、性質が猿蓑から万載狂歌集に変わつたといふことである。これが俳諧の論理である。」
といった具合で、石川淳が言いたいのは、天明狂歌のこと。そして、古今集の《やつし》が万載狂歌集。また、天明狂詩は唐詩選の《やつし》。
ちなみに、中国では伝統的に、唐詩選より唐詩三百首が尊重される。そのすれ違いの理由を知りたいと思うのだが・・・。
この《やつし》は、《ミメーシス》と関連がありそう。そういえば、日本の文明が、大陸文明の《やつし》そのものかも。
参考
1)石川淳「江戸人の發想法について」
石川淳『文学大概』中公文庫(1976) p.74-85 所収。
ちくま日本文学全集 (011)石川 淳、1991年 、p.404-420
2)《ミメーシス》について
関曠野『民族とは何か』講談社現代新書(2001) 第八章ロゴスとミメーシス
E.アウエルバッハ『ミメーシス』ちくま学芸文庫(1994)〈上〉
| 固定リンク
「文学(literature)」カテゴリの記事
- 関 曠野「知は遅れて到来する ―ドラマにおける時間について―」(1985年5月)/Seki Hirono, Knowledge Comes Late, On Time in Drama, 1985(2024.07.20)
- 徂徠における規範と自我 対談 尾藤正英×日野龍夫(1974年11月8日)/Norms and Ego in the Thought of Ogyu Sorai [荻生徂徠](2023.08.30)
- What is 'lucid writing'?/ Yukio Mishima (1959)(2023.08.06)
- 「明晰な文章」とはなにか/三島由紀夫(1959年)(2023.08.06)
- 暑き日を海にいれたり最上川(芭蕉、1689年)(2023.08.02)
「Tokugawa Japan (徳川史)」カテゴリの記事
- 「産業革命」の起源(2)/ The origins of the ‘Industrial Revolution’(2)(2024.11.10)
- 徂徠における規範と自我 対談 尾藤正英×日野龍夫(1974年11月8日)/Norms and Ego in the Thought of Ogyu Sorai [荻生徂徠](2023.08.30)
- 暑き日を海にいれたり最上川(芭蕉、1689年)(2023.08.02)
- Giuseppe Arcimboldo vs. Utagawa Kuniyoshi(歌川国芳)(2023.05.24)
- 徳川日本のニュートニアン/ a Newtonian in Tokugawa Japan(2023.05.18)
「石川淳(Ishikawa, Jun)」カテゴリの記事
- 日本人のミメーシス力としての「ハッチポッチステーション」(2016.06.16)
- 日本思想の通史として(ver.2)(2008.06.14)
- 石川淳『文学大概』中公文庫(昭和51年)(2)(2006.04.16)
- 石川淳『文学大概』中公文庫(昭和51年)(2006.04.15)
- 石川淳「江戸人の發想法について」(1943年)(2005.10.09)
「mimēsis (ミメーシス)」カテゴリの記事
- 関 曠野「知は遅れて到来する ―ドラマにおける時間について―」(1985年5月)/Seki Hirono, Knowledge Comes Late, On Time in Drama, 1985(2024.07.20)
- LILIUM: ラテン語によるアニソン/ LILIUM: The anime song written in Latin (2)(2023.11.28)
- Giuseppe Arcimboldo vs. Utagawa Kuniyoshi(歌川国芳)(2023.05.24)
- The future as an imitation of the Paradise(2022.10.30)
コメント