煮られトマス
歌舞伎狂言の世話物に『切られ与三郎』というのがある。表題はそれをちょこっと借りた。
内容はこの出し物と何の関係もない。トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)の死後のことである。といっても、我らが聖トマスが天国に昇ったのか、地獄に堕ちたのかを論ずるわけではなく、死後その亡骸(なきがら)がシチューになったという話である。
ホイジンガ『中世の秋(上)』堀越孝一訳 p.336 にこうある。
「・・、この、聖者もまた肉の身であるという考えを助長したのは、聖者のからだの遺物について、教会は、これの崇敬を認め、かつ、勧めさえもしていたという事情であった。この物質への執着、遺物崇敬の影響するところ、信仰の物質主義化は、いわば必然であり、ときとすると、それは、おどろくほどの極端さをみせたのである。
・・・。1247年、トマス・アクィナスは、フォッサヌォーヴァ修道院で死んだ。そこの修道士たちは、高価な聖遺物の散逸を恐れ、このけだかい師のからだを、文字どおり、加工保存したという。頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ。」
いっぽう、わが国のトマス研究の第一人者によるトマスの伝記部分にこうある。
「フォッサノーヴァのシトー会修道士たちは、遺体がドミニコ会員の手に渡るのを阻止するため、修道院内のあちこちに棺を移動させ、あげくの果ては首だけ切り離して別の場所に隠したり、さらには、小さな場所にかくすことができるよう、遺体が骨だけになるまで煮る、といった暴挙まで敢えてしたようである。」
稲垣良典『トマス・アクィナス』講談社学術文庫1999 p.234
うーん、という感じだ。とにかく、トマス・アクィナスの遺体(の頭部)がシチューにされた事は間違いなさそうだ。問題はそれがどのような意味を持っていたのかである。
ホイジンガは聖者の遺体が信者たちによって狙われたことをいくつも挙げて見せ、《信仰の物質主義化》の例証としている。いわば宗教的、思想的解釈を施している。稲垣氏のものは、いかにも教会内の勢力争い的解釈で、いわば政治的解釈である。私は、歴史学者ホイジンガの思想的解釈(心性史的?)のほうが、哲学者稲垣氏の政治的解釈(唯物論的?)より無理がなく合理的と考える。稲垣氏がうかつにも現代的価値観という予断から事の顛末を解釈しているのではないかと私は思うのだがどうだろう。
参考文献
1)ホイジンガ、中世の秋(上)、堀越孝一訳、中公文庫(1976)
2)稲垣良典、トマス・アクィナス、講談社学術文庫(1999)
(元本は、稲垣良典著『人類の知的遺産20 トマス・アクィナス』講談社1979)
| 固定リンク
「西洋 (Western countries)」カテゴリの記事
- 薔薇戦争と中世イングランドのメリトクラシー/The War of the Roses and the Meritocracy of Medieval England(2024.11.28)
- 「産業革命」の起源(1)/ The origins of the ‘Industrial Revolution’(1)(2024.11.08)
- 比較思想からみた「原罪」(peccatum originale/original sin)| Original Sin from the Perspective of Comparative Thought(2024.10.31)
- 対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案(昭和十六年十一月十五日/大本営政府連絡会議決定)/Japan's Plan to Promote the End of the War against the U.S., Britain, the Netherlands, and Chiang Kai-shek 〔November 15, 1941〕(2024.06.02)
「文化史 (cultural history)」カテゴリの記事
- 20世紀におけるドイツ「概念史」とアメリカ「観念史」の思想史的比較 / A historical comparison of the German “Begriffsgeschichte” and American “History of Ideas”of the 20th century(2024.11.19)
- 金木犀と総選挙/ fragrant olive and the general election(2024.10.21)
- 虹 rainbow(2024.03.09)
- 河津桜(2024.03.03)
- 沢田マンション:日本の カサ・ミラ〔1〕/Sawada Manshon: Casa Milà, Japón〔1〕(2023.09.19)
「中世」カテゴリの記事
- 薔薇戦争と中世イングランドのメリトクラシー/The War of the Roses and the Meritocracy of Medieval England(2024.11.28)
- ドアを閉じる学問とドアを開く学問/ The study of closing doors and the study of opening doors(2024.10.27)
- 心は必ず事に触れて来たる/ The mind is always in motion, inspired by things(2022.07.05)
- 関 曠野が言うところのプラトニズムとはなにか?(2020.08.31)
- 少年易老學難成 ・・・ の作者は《朱子》ではない(2018.11.10)
「書評・紹介(book review)」カテゴリの記事
- ドアを閉じる学問とドアを開く学問/ The study of closing doors and the study of opening doors(2024.10.27)
- 柳田国男「實驗の史學」昭和十年十二月、日本民俗學研究/ Yanagida Kunio, Experimental historiography, 1935(2024.10.20)
- リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理, 解説:張 彧暋〔書評③〕(2024.09.23)
- リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理, 解説:張 彧暋〔書評②〕(2024.09.18)
- リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理,解説:張 彧暋〔書評①〕(2024.09.16)
「思想史(history of ideas)」カテゴリの記事
- 「資本主義」の歴史的起源/ The Historical Origins of “Capitalism”(2024.11.22)
- 「ナショナリズム」の起源/ The Origin of “Nationalism”(2024.11.21)
- 20世紀におけるドイツ「概念史」とアメリカ「観念史」の思想史的比較 / A historical comparison of the German “Begriffsgeschichte” and American “History of Ideas”of the 20th century(2024.11.19)
- 比較思想からみた「原罪」(peccatum originale/original sin)| Original Sin from the Perspective of Comparative Thought(2024.10.31)
- Michael Oakeshott's Review(1949), O.S.Wauchope, Deviation into Sense, 1948(2024.08.17)
コメント
私は、renqing氏の「ラベル」のおかげで解釈の違いがはっきり解った派なんですが・・・。
人が信じて動く、これほど宗教的で思想的なものはないと思います。
「行為」や「事実」は、社会科学上、思想的であったり政治的であったりできるのでしょうか? ただ「解釈」だけに、ラベルが貼れるのじゃないかと思います。
ここが、通りすがり氏と私の、この記事の受け止め方の違いでしょうか。
ところで、合理的な動機なんてものは、あくまでも後付け解釈でしかありえないと考える私は、
ホイジンガ説>稲垣説>通りすがり氏説
ですね。
ただ、通りすがり氏の説は、(経済)合理的解釈を言われているのかと思いきや、後の方に「一つの体という理想」を動機のひとつとして数えられているようにも読めてしまい(宗教的解釈?)、ちょっと、私、読み違えているかも。
まあ、いずれにしても、ラベルに憶測を付して理解するのは、意味理解を叙述しながらラベルを貼る行為よりもずっと言葉というものに操られてしまいやすいんじゃないかと危惧してしまいます。
投稿: 足踏堂 | 2007年3月 3日 (土) 19時42分
物事にラベルを貼付けるのは、ときには有益なこともあるが、ときには無意味なこともある。この場合、「宗教的、思想的解釈」「政治的解釈」というラベルで何か明らかになっているか?はっきり言って皆無だろう。このブログ記事は意味のないラベルを貼ったことで、うかつにも何か自分が分かっているかのような錯覚に陥っている。
死後、トマスが聖人の列に並べられることは確実視されていた。もし聖人と認められた場合、その遺骸は「聖遺物」として多くの巡礼を呼び、その遺物を有する教会に経済的な潤いをもたらしてくれる。
悲喜劇を演じたのは、12世紀の修道院改革をリードしたシトー会と、13世紀の修道院改革の急進派ドミニコ会である。前世紀の改革派はすでに当初の矜持を忘れ、金の卵を本来の持ち主に返却せずにすむよう、その金の卵に無惨な扱いをしている。
本来、キリスト教徒はイエスを頭とする「一つの体」という理想があり、それゆえ先に天国へと登った聖人は現世の者たちの願いを神に「とりなし」してくれる。これが聖遺物崇拝の背景である。自らと一体であるはずの、そして尊敬すべき先人であるはずの「聖人」候補の遺体を、バラバラにし白骨化させるために煮る。そういう行為がどうして「宗教的、思想的」でありえようか?
投稿: 通りすがり | 2007年2月28日 (水) 14時43分