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2005年10月14日 (金)

煮られトマス

 歌舞伎狂言の世話物に『切られ与三郎』というのがある。表題はそれをちょこっと借りた。

 内容はこの出し物と何の関係もない。トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)の死後のことである。といっても、我らが聖トマスが天国に昇ったのか、地獄に堕ちたのかを論ずるわけではなく、死後その亡骸(なきがら)がシチューになったという話である。

 ホイジンガ『中世の秋(上)』堀越孝一訳 p.336 にこうある。

「・・、この、聖者もまた肉の身であるという考えを助長したのは、聖者のからだの遺物について、教会は、これの崇敬を認め、かつ、勧めさえもしていたという事情であった。この物質への執着、遺物崇敬の影響するところ、信仰の物質主義化は、いわば必然であり、ときとすると、それは、おどろくほどの極端さをみせたのである。
 ・・・。1247年、トマス・アクィナスは、フォッサヌォーヴァ修道院で死んだ。そこの修道士たちは、高価な聖遺物の散逸を恐れ、このけだかい師のからだを、文字どおり、加工保存したという。頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ。」

 いっぽう、わが国のトマス研究の第一人者によるトマスの伝記部分にこうある。

「フォッサノーヴァのシトー会修道士たちは、遺体がドミニコ会員の手に渡るのを阻止するため、修道院内のあちこちに棺を移動させ、あげくの果ては首だけ切り離して別の場所に隠したり、さらには、小さな場所にかくすことができるよう、遺体が骨だけになるまで煮る、といった暴挙まで敢えてしたようである。」

 稲垣良典『トマス・アクィナス』講談社学術文庫1999  p.234

 うーん、という感じだ。とにかく、トマス・アクィナスの遺体(の頭部)がシチューにされた事は間違いなさそうだ。問題はそれがどのような意味を持っていたのかである。

 ホイジンガは聖者の遺体が信者たちによって狙われたことをいくつも挙げて見せ、《信仰の物質主義化》の例証としている。いわば宗教的、思想的解釈を施している。稲垣氏のものは、いかにも教会内の勢力争い的解釈で、いわば政治的解釈である。私は、歴史学者ホイジンガの思想的解釈(心性史的?)のほうが、哲学者稲垣氏の政治的解釈(唯物論的?)より無理がなく合理的と考える。稲垣氏がうかつにも現代的価値観という予断から事の顛末を解釈しているのではないかと私は思うのだがどうだろう。

参考文献
1)ホイジンガ、中世の秋(上)、堀越孝一訳、中公文庫(1976)
2)稲垣良典、トマス・アクィナス、講談社学術文庫(1999)
(元本は、稲垣良典著『人類の知的遺産20 トマス・アクィナス』講談社1979)

下記も、参照。
煮られトマス(2)
煮られトマス(3)

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コメント

私は、renqing氏の「ラベル」のおかげで解釈の違いがはっきり解った派なんですが・・・。
人が信じて動く、これほど宗教的で思想的なものはないと思います。
「行為」や「事実」は、社会科学上、思想的であったり政治的であったりできるのでしょうか? ただ「解釈」だけに、ラベルが貼れるのじゃないかと思います。
ここが、通りすがり氏と私の、この記事の受け止め方の違いでしょうか。

ところで、合理的な動機なんてものは、あくまでも後付け解釈でしかありえないと考える私は、
ホイジンガ説>稲垣説>通りすがり氏説
ですね。

ただ、通りすがり氏の説は、(経済)合理的解釈を言われているのかと思いきや、後の方に「一つの体という理想」を動機のひとつとして数えられているようにも読めてしまい(宗教的解釈?)、ちょっと、私、読み違えているかも。
まあ、いずれにしても、ラベルに憶測を付して理解するのは、意味理解を叙述しながらラベルを貼る行為よりもずっと言葉というものに操られてしまいやすいんじゃないかと危惧してしまいます。

投稿: 足踏堂 | 2007年3月 3日 (土) 19時42分

物事にラベルを貼付けるのは、ときには有益なこともあるが、ときには無意味なこともある。この場合、「宗教的、思想的解釈」「政治的解釈」というラベルで何か明らかになっているか?はっきり言って皆無だろう。このブログ記事は意味のないラベルを貼ったことで、うかつにも何か自分が分かっているかのような錯覚に陥っている。
 死後、トマスが聖人の列に並べられることは確実視されていた。もし聖人と認められた場合、その遺骸は「聖遺物」として多くの巡礼を呼び、その遺物を有する教会に経済的な潤いをもたらしてくれる。
 悲喜劇を演じたのは、12世紀の修道院改革をリードしたシトー会と、13世紀の修道院改革の急進派ドミニコ会である。前世紀の改革派はすでに当初の矜持を忘れ、金の卵を本来の持ち主に返却せずにすむよう、その金の卵に無惨な扱いをしている。
 本来、キリスト教徒はイエスを頭とする「一つの体」という理想があり、それゆえ先に天国へと登った聖人は現世の者たちの願いを神に「とりなし」してくれる。これが聖遺物崇拝の背景である。自らと一体であるはずの、そして尊敬すべき先人であるはずの「聖人」候補の遺体を、バラバラにし白骨化させるために煮る。そういう行為がどうして「宗教的、思想的」でありえようか?

投稿: 通りすがり | 2007年2月28日 (水) 14時43分

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