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2005年10月23日 (日)

「大村益次郎像」(靖国神社)建立に奔走した旧加賀藩士

 その名を、猪山成之、という。この人物、実は、

磯田道史『武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新』新潮新書(2003年)

の、中心人物の一人である。詳細は上記を読んでもらうとして、経緯をかいつまんでおくとこうである。

1)猪山成之は加賀藩の御算用者、つまり会計係、兼、兵站事務の実質的中心人物で、藩命で、1868(慶応4=明治元年)年7月、京都に赴任した。成之24歳であった。

2)すると、時日を置かず、新政府の軍務官会計方にヘッド・ハンティングされる。当時の軍務官の実質的ボスは、無論、大村益次郎。

3)この大村益次郎の懐刀に、安達幸之助(大村の江戸・洋学塾塾頭)なる人物がおり、彼が加賀藩足軽出身であった。この人物の引きによるリクルートだったらしい。

4)この大村益次郎のもとで、戊辰戦争期間中、新政府軍のロジスティック(兵站)を差配していたのが猪山成之だった。

5)その後、1869(明治2)年9月、大村と安達は、京都木屋町の宿屋で暗殺された(安達は即死、大村は重傷を負い11月死亡)ため、猪山成之の官界栄達の道は一時頓挫する。その後、海軍に身を寄せ、そこにおける会計官としてある程度の地位までいった。

 こういう経緯のため、大村の恩顧に答えようと、猪山成之が発起人幹事となり、1883年彫刻家の大熊氏広に依頼して、1893(明治26)年に完成を見たのが、靖国神社の「大村益次郎像」であったというわけである。以上事実関係のみ。

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