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2005年12月 3日 (土)

大日本国憲法第17条

第17条 何人も、公務員の違憲行為、および不法行為により、損害を受けたときは、憲法および法律の定めるところにより、当該公務員の罷免と、国又は公共団体にその賠償を求めることができる。

〔参照〕

憲法を守る保障制度
「ロ 憲法には定められていないけれども超憲法的な根拠によって認められると考えられる制度(組織化されない、又は組織化できない制度)抵抗権や国家緊急権」

 この、芦部の言う「超憲法的な根拠」。これが自然法である。にもかかわらず、憲法を成り立たせている自然法を、実定法学者である日本の主流派憲法学者は論じない。これは、水波朗*が指摘するように、日本の主流派憲法学者がみな19世紀的な新カント派観念論の枠内でものを考えていて、20世紀の存在論的諸哲学に依拠していない、ってことも大きい。直裁に言えば、大カント先生の問題でもある。まあ依拠する哲学理論の違いなどという、ある種、高踏的、ペダンティックなことに帰責することで問題を矮小化しても致し方ない。

 問題の根本には、西欧の法思想を支えてきた旧約の「神」と、思想的格闘をしてこなかった近代日本がある。我々が、明治維新を(自然法的に)違法なクーデタであることを認識できないのもこれがためである。

*自然法と日本の憲法学、参照。

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コメント

miyau 様
 ご指摘のように、日本人が「人権」を核心とする《自然法》の考え方を知らなかったわけではありません。何が公平で、何が正しいのか、自分は他者の何に涙するのか、を鑑みれば誰にでもわかることなのです。鉱毒事件の田中正造を考えれば、彼なりに《法》を考えていたことがわかります。
 大切なのは、何が人間として正しいか、正しくないのか、という問題は、ぎりぎりのところで他の一切の処世術を度外視して守らなければならない、人間の良心に属する事なのだ、ということです。
 そして、人間(=実定的秩序)を超えたものに対する畏れがなければ、そのぎりぎりの線を耐えられないのが、他でもない人間なのだ、というのは、日本の近代史が実証しているところだと思います。

投稿: renqing | 2005年12月 8日 (木) 13時14分

renqingさんこんばんわ
やっとひさびさにTB送ることができました。
ココログの調子なのか原因がよくわからないのですがここのところ、何度送ってもちゃんと反映されませんでした(^^;)。
日本近代が思想的格闘をしてこなかったというか、外来の「人権」概念の理解が外的な獲得事項としてのみ存在する(かのような)歴史しか与えられなかったせいかもしれないと思います。秩父事件や一揆などのことを考えると、「日本人は大人しい」「権力に逆らわない」ということ自体が植え付けられた幻想ですし。

投稿: miyau | 2005年12月 4日 (日) 00時17分

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またもやrenqingさんが面白い問題提起をなさっていたので、憲法を守るための制 [続きを読む]

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