「夜明け前」の星竹 (幕末明治50年間の日記が語るもの)
以下は、東京、あきる野市のHPで掲載されていた、極めて興味深い記事です。既にHPがリニューアルされており、現在、読めなくなってしまいました。まことに惜しいので、私が保存していたファイルから、再び世に出すことにしました。当然、著作権の問題があります。もし、著者の方がご覧になり、削除を要請されるようなら致します。ただ、このまま埋もれさせるにはとても残念な、資料的価値の高い報告ですので、多くの方の目に触れる可能性のあるネット上で、掲示させて戴ける事を願います。
※当該記事が、あきる野市の、下記HPにPDFファイルで貼り付けてありました。(20180225)
あきる野市教育委員会発行 郷土あれこれPDF | あきる野市
「夜明け前」の星竹 (日記が語る昔の暮らし)
五日市古文書研究会代表 石井道郎
はじめに
あきる野市戸倉に星竹という小さい集落がある。秋川はこのあたりから渓流が川幅を拡げ、ゆったりと蛇行し始める。岸辺には川原が広がり、ここは材木を筏に組む絶好の場所〔土場(どば)〕となった。星竹の集落は秋川の北岸で、背後には金比羅尾根の裾がせまって崖状をなしている。蛇行する川と崖の間に、三角形のおむすび状の平坦地ができ、そこに20戸余りの人家が集中し、猫の額ほどの畑や田を耕やしている。これが星竹で、こう書くと、いかにも貧しい集落を連想させるが、この星竹には戸倉でも有数の資産家が多い。なぜだろうか?答はやさしい、林業である。
戸倉星竹の黒山儀一郎氏の曽祖父にあたる儀三郎は、当地方きっての林業家黒山家の基礎を築いた人物であり、厖大(ぼうだい)な日記を残された。五日市郷土舘が保管中の日記帳は13冊、安政6年(1859年)から明治41年(1908年)まで正味50年にわたる。
黒山儀三郎は天保4年(1833年)9月15日に生まれ、明治45年(1912年)5月8日天寿を全うされた。満79歳8か月である。日記は、彼の26才の時に書き始め、亡くなる4年前まで書きつがれた。
日記の内容は、日々の天候から農作業、林業関係の作業や人の出入、金銭の授受、家族や近隣の動静など、1日が見事な細字で3行に要約されている。一見面白味が少ないようであるが読みすすめていくうち、登場する人物の人間関係がわかってくる。身近な肉親から、出入する杣(そま)・筏(いかだ)乗りの行動まで謎解きのように解けてくる。そうして、儀三郎を中心に勤勉な勤労生活と緊密な近隣との連帯生活がドラマのように見えてくる。
1.村落の構造
上の集落図は、現在の道路図をもとにしているが、家家の位置関係は全く変らない。家は屋号で呼ばれる。この屋号は越後屋とか三河屋という商店の屋号と違って、集落内の序列や位置関係を示す呼び名である。まず原則をいうと、その集落の草分け(開創)の家を「お前(まえ)」と呼び、家格は一番上位である。その東隣りを「東」、西隣りを「西」と呼び、この東西がつく家はお前に次ぐ家格の家とされる。あとは地形や宮(森)・寺・堂との位置関係で呼ばれ、特に上下の関係はない。「上(うえ)坂」「下(した)坂」「堂の前」「森越」「森下」「寺向(むこう)」などがそれである。また、どこの集落にも食料雑貨を商う家がある。「見世(みせ)=店と呼ばれる。酒も売るので儀三郎はよく杣や筏乗りをつれて立寄り、元締(もとじめ)たちとの商談にも利用している。
分家が「新家(しんやにや)」。隠居分家した家を「隠居(いんきょ)」と呼ぶ。これは全国共通のようである。
集落の中央、いってみればおむすびの中心の梅干に当るのが「森」と呼ばれる神明社で、星竹の氏神様、毎年2月21日春祭りを行う。この森に儀三郎は父親忠蔵の名で庚申塔を献じた。また、森の空き地を商売用の杉皮干しによく使っている。寺は戸倉光厳寺の末寺、臨済宗建長寺派の普光寺で、儀三郎が世話人総代である。この寺は光厳寺の隠居寺らしく、住職は長老様と呼ばれているが、儀三郎をはじめ星竹の住民はみな筆子(読み書きの弟子)らしい。儀三郎と弟兵次郎は、暇をみては寺の薪こしらえにいっている。また、儀三郎は寺の桐堂金を管理し「寺金の利寄せいたす」と日記に定期的に書いている。星竹の北、集落を見渡す位置に「堂」がある。本尊は愛宕地蔵尊で火防せの神である。本来は「お前」の鬼門除けに建てられたものが、集落住民のお堂に変ったといわれている。
2.元締儀三郎
集落図の南、川に面して「西」とあるのが儀三郎家で、右隣り屋号「西向」は分家の文蔵殿(日記の登場人物に儀三郎はほとんど「殿」をつける)、左隣り「田畑」は当主を周蔵殿といい筏乗りの親方で、この3軒は黒山姓の同族である。文蔵は儀三郎が元締として活躍するときの共同経
営者に近い存在で、物堅く几帳面 (きちょうめん)な性格。一方周蔵は、漂々(ひょうひょう)とした好人物の風貌を日記に印している。
儀三郎の元締業というのは伐期のきた山を買いとり、伐採し、筏に組み、六郷(大田区)まで運ぶ。一方江戸深川の材木問屋に交渉し、売買の約定(やくじょう)をかわす。商人としての才覚と、山林労務者の先頭に立って重労働をこなす両面性をもたなくてはならない.多くの職種〔杣(そま)・木挽(こびき)・筏(いかだ)乗り〕を束ねるので元締と呼ばれる。これは才覚と同時に人間としての幅、厚みを必要としよう。日記に筏乗りの久二郎が結婚話をこじらせた時、嫁の集落に乗り込み、金と誠意を尽して話をまとめた一件が書かれているが、元結儀三郎の面目躍如(めんもくやくじょ)である。儀三郎家の目の前が田尻の土場(どば)で、この土場の占有権を儀三郎が握っていることが大きな強みであった。秋川上流域の元締たちは筏の組立と輸送を、土場と筏乗りを握っている儀三郎に委ねるか、その協力を仰がねばならなかった。
文久2年正月、儀三郎は自分も筏に乗っている。風と雪に悩まされながら、3往復している。これは専業の筏乗りでも尻込みする重労働である。府中、六郷の宿で乗子たちを「連れて遊ぶ」と書いているが、元締儀三郎の強味は常に身を挺して働くことで、褞袍(どてら)を着込み懐手(ふところて)をしている旦那衆の対極にいる人物であった。
日記によれば星竹集落には、儀三郎の他元締が2人、「堂の前」の八百蔵、荻野の安五郎がいる。また、山持ちとして「寺向」の銀蔵、「森越」の周八が出てくる。山持ちは山の植林、育成、管理を本業とする。伐期が来た山は上木(うわき)を元締に売ってまた植林する。1、2年おきに伐採できる山をもつようになれば大山持であろう。
以上が集落の富裕層だが、その他の住民の中にも手山(自分の山)の1つ2つは持っている者が多く、冒頭に星竹は貧村ではないといった理由である。
3.集落の暮らし
安政6年(1859年)の日記の冒頭は儀三郎家の屋根替えの記事である。屋根職人を頼んでいるにも拘らず、手伝いが1日1人ずつ3軒からきている。先ず、東隣りより藤次郎(文蔵弟)、次の日は西隣りの周蔵、最後にこれも隣家の「お前」の若主人小重郎である。これは当然くるべき人達であった。ということは儀三郎家でも、この3軒に家普請(いえふしん)、冠婚葬祭その他事あれば出向く義務を負う間柄なのである。かつて、お前のおゑい(小重郎の母)が倒れたとき、儀三郎の弟兵次郎は今熊山へお百度詣をした。次に兵次郎が大病を患うと、小重郎が同じ今熊山詣をしている。こうした配慮が当時の集落生活の基礎であり、この土台のうえに星竹20余戸は数珠玉のように結ばれている。
毎年11月1日は星竹の橋掛け日で、集落総出で秋川に木橋をかける。この時は、対岸の坂下・西戸倉からも人が出る。橋は現在の星竹橋より30メートル程上流に架ける。「田畑」の西脇を通る旧道が川へ出た川原に大きな岩があり、よく見ると柱穴らしきものが2ケ所あいている。これが橋の台石で、対岸にもやや小ぶりの石がある。毎年11月1日に橋をかけ、翌年4月1日に撤去する。夏秋は徒歩波りというのは星竹に限らず、秋川を挟む村々の慣行であるが、星竹に限っていえば9月に板橋をかける慣習がある。これは星竹の住民で対岸西戸倉地区に畑を持つ人々が、9、10月の収穫、麦蒔の為に橋が必要だからで、日記では「畑持ちの橋かけ」と称している。畑持ちの黒山家ではいつも兵次郎が人足に出ているが、面白いことに畑を持たない家からも毎年2戸ずつ当番で人足に出る。粗末な板橋でもあれば皆が使う。この慣習なども集落内の融和を考えながら、長い年月をかけて育てた暮らしの知恵であろう。
4.「有(あり)」と「拵(こしらえ)」の世界
儀三郎の日記の表現は簡潔である。一番よく出る言葉が「何々有」、次に「何々拵」である。前のつづきでいえば、11月1日には「橋かけ、日待有」と書かれている。有の中で頻度が多いのが「日待」=飲食会、次に「念仏」である。日待は「軍道山取上仕舞(じまい)日待有」「お前にてかいこ始メ日待有」など仕事の始め終りに行う日待が多い。とくに山仕事は仕事の区切りを日待でつけているといってもよい。曜日制のない昔、日待は勤労にリズムを付け、生活に節目と慰安を与えるものらしい。日記から目につく日待を拾うと「獅子仕舞日待」「若衆うどん日待」「麦蒔仕舞、内日待」等。内日待は個人的なものだが、手伝った人は呼ばれる。酒好き、社交好きな儀三郎は日待が好きで、出席率きわめて良好のようである。
念仏は、女念仏請中が集落内を順ぐりに、月に幾回となく集りをもつ。葬式があるとその晩は入(いり)念仏か百万遍が行なわれ、月念仏、男念仏というのもある。明治も近いというのに星竹の夜の基調音は地を這うような念仏の称名(しょうみょう)であった。いや、星竹に限らず、念仏は大方の集落の闇を覆う音声であったようだ。この日記は当時の民衆娯楽の状況も伝えてくれる。祭文(さいもん)・人形・相撲・芝居・手踊り・写絵(うつしえ)等が「何々有」と出てくる。祭文語りや人形芝居などの門付(かどつけ)芸人が「西戸倉一落合一星竹」と川添の小集落を廻ってやって来る。星竹の場合「見世」などを借りて興行する。20戸程の小集落でも人々は娯楽に飢えている。時には瞽女(ごぜ)や比丘尼(びくに)も廻ってきた。彼女らは遠い異郷の歌を披露する。儀三郎宅にも泊めている。相撲は伊奈村、芝居も伊奈や五日市等戸数の多い所で行なわれるが、儀三郎へは使いがくる。彼は必ず花(祝儀)を届ける。儀三郎・兵次郎兄弟はそろって芝居好きで、兵次郎は小屋掛けから手伝い、時には次の巡業先までついてゆく。この兄弟に限らず当時の人々は芝居の中から娯楽以上のもの、人間としてのあり方-人倫(ひとのみち)とでもいったものを吸い取っていたように思える。儀三郎は雨にとじ込められた日、「さいもん写す」と日記に書いている。祭文語りの台本を筆写したのであろう。祭文も人形浄瑠瑞も儀三郎には学びとるべき人生の教本であった。
次に儀三郎日記に頻出する「拵(こしらえ)」について話そう。拵は文字通り造ることだが、日記には、肥持・粟掃・もみ好等の農事、臼・鋸・鍬・押切等の道具類、屋根・とよ・垣のうね・わらじ・草履・下駄・足袋果ては幼い長男太郎吾の股引にまで及ぶ。何をどのようにするのか頭をひねってみた。例えば臼拵は石臼の目立、鋸も同様、鍬は鍛冶屋から届いた鍬頭に柄をつけることと推察した。日記に車持とあり、始めは手車を造るのかと驚いたが、儀三郎家が水車をもっていることを知り、水車修理と判った。消費経済にとっぷり漬かった我々には想像外の手作りの世界である。
当時の家の屋根(星竹地区)は大方麦から(麦わら)だが4年に一度は修理を要する。母屋の大屋根以外はすべて儀三郎・兵次郎の内人数でやるが、竹とよ、杉皮のひさしなど4年は持たない。また、食料を例にとっても、小麦もソバも石臼で粉にする。米はもみがらを取って玄米にし、更に精白しなければならない。手のかかるものばかりといってよい。
儀三郎の一日をみると農閑期の12月でも午前中は麦に掛け肥をして、昼から檜原の奥の山を見にゆき、帰り道袖に連絡をとって帰宅、夜は帳面付けである。細工仕事は雨の日か、風邪で休んだ日に行う。当時の標準からみても儀三郎はいささか細工好き、仕事好きの部類であったろう。彼は六郷の帰り道、よく砂川の田裾の穀屋によって粉を買って帰る。石臼を廻すのは女の仕事だが、儀三郎の母は出好き、女房おりんは子育て最中、儀三郎は男として本当の意味で強者であると思うが、強い男ほど女、子供にやさしい。
5.儀三郎の家族
儀三郎の父忠蔵は、文久2年(1862年)9月に死去している。この日記にはその働く姿は書かれていないが、「父、印を借りにあるく」と儀三郎の借金(運転資金)の保証印を貰いに歩いたり、嫁ぐ娘おひろ(儀三郎の妹)を連れ、江戸見物に出かけたりする愛すべき老父の姿が見える。
思うに、星竹を生涯の地として働き通した人物であったろう。儀三郎に20余ケ所の田畑と、いくばくかの手山を残している。本格的な元締となったのは儀三郎が初代で、母イチの実家高尾村の高尾家(秋川筏師仲間惣代)より手引きをうけたようである。
*技師=元締
母イチは明治14年迄存命し、この日記では最も活躍する女性の1人である。イチの行動をみると、当時の女衆の日常が意外に自由闊達なものであることがわかる。彼女は儀三郎の上下に何人かの娘を産んだらしく、その嫁ぎ先を次々に泊りあるいている。その間実家の高尾家にもちょくちょく泊りにゆく。姐たちも何かにつけ実家に泊りに戻る。日記には誰それが「行く」「来る」「泊る」「帰る」という記事がしきりに出る。儀三郎の妻おりんも実家の深沢村の南沢家へ繁々と帰り、戸吹に嫁入りした妹おひろも実家星竹へ来ては長逗留している。おりんの妹たちもよく泊りに来る。人の来やすい家と来にくい家とあるものだが、儀三郎家はまことに解放的で檜原の親戚の神官はお札くばりの足場にしている。既婚の女衆は外泊によって心に風穴をあけ、未婚の娘たちは見聞を広めるのであろう。儀三郎家の女衆は養蚕をやるが農業にはほとんどかかわらない。
文久元年(1861年)5月の日記に「おりん深沢へ桑貰いにゆく」と出て、8月「おりん安産」とあり,改めて桑を背負ったおりんのお腹のふくらみを想像した。母イチはよく五日市の市に行くが、それは糸相場やまゆ相場をみるためらしい。幕末期の生糸は安政の開港から、またたくまに約3倍騰貴(右:儀三郎、左:太郎吉)した。儀三郎は栗林を切り、桑畑に変え、台所を改造して糸取場をひろげている。幕末の動乱期、尊皇壊夷にさわぐ人々より、経済の動向をみつめ、それに機敏に対応する儀三郎一家のような存在が、日本の近代化の実質的な担い手となったことは論をまたない。
おわりに
この日記は農作業・山仕事・筏商いの記録簿であるが幕末の動乱が迫るにつれ、月末や月始めに時勢に関する見聞が書き込まれるようになった。妹の夫戸吹の喜一郎が千人同心で、文久3年(1863年)2月、将軍家筏の上洛にお供することになり、儀三郎の関心も昂(たか)まったように見える。しかし、彼は経済人であり、政治人間ではない。時局に対する判断も極めて冷静である。慶応2年6月五日市を襲った打ちこわし(武州一揆)も当日の日記に事実のみを客観的に記録している。慶応4年の幕府の倒壊にも全く動揺を示していない。4月末「旗本同心衆扶持上りになる也」と書いている。御一新を武士の失業と割切っている。「俺たち働く者の時代が来た」といっているように見える。地に根をはやした儀三郎の当然の感慨であろう。
私たちはこの日記によって島崎藤村の名作『夜明け前』の時代を追体験することができる。また、主人公儀三郎の生き方は、本当の人間の価値とは何かに気付かせてくれる。
【あきる野市教育委員会 平成10年1月15日発行】
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