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2006年3月

2006年3月31日 (金)

Modernity の系譜(3/31追記)

 S.Toulminがらみで、ちょっと有名どころの生没年を並べてみた。

Rene Descartes                1596 - 1650
Isaac Newton                    1642 - 1727

David Hume                      1711 - 1776
Jean-Jacques Rousseau     1712 - 1778 *
Immanuel Kant                  1724 - 1804

 生没年が被っているのが意外。Hume と Kant はほぼ同時代人。ドイツの辺境に暮らす Kant が Hume の著作にショックを受けたその受け方は、同じ時代の空気を吸っている人間としてのものだったということが腑に落ちる。

 Kant の怪しさは、Hume に淵源し、Hume の冷ややかさは、Newton に遡る。Newton の疑念なき合理性は、Descartes の苦渋と決断の合理性に発する。

 ま、私の単なる想像上の系譜に過ぎないが。そんな気もするわけ。

*足踏堂さんの助言に従って、付け加えてみました。

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2006年3月30日 (木)

Stephen Toulmin “Cosmopolis: The Hidden Agenda of Modernity ”(1992)

 幾度かこのblogでも、間接的に取り上げている本。ということで、今回は正面から見てみようかな、と。ただ、今、時間がないので、これだけ。

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2006年3月29日 (水)

井手麻理子の歌う「Hello,my friend」

 ユーミンのカバーアルバムを探しながら、レンタルショップをうろうろしていて手にしたのが、下記。

Dear Yuming~荒井由実/松任谷由実カバー・コレクション~(1999年) SRCL-4649

曲目リスト
1.COBALT HOUR(NOKKO)
2.あの日に帰りたい(森高千里)
3.静かなまぼろし(m-flo)
4.情熱に届かない~Don’t Let Me Go(松崎ナオ)
5.DOWNTOWN BOY(露崎春女)
6.スラバヤ通りの妹へ(大江千里)
7.Hello,my friend(井手麻理子)
8.翳りゆく部屋(椎名林檎)
9.恋人がサンタクロース(奥居香)
10.A HAPPY NEW YEAR(ゴスペラーズ)

 で、私としては、歌い手としてのユーミンはあまり感心しない。蝦蟇(がま)蛙が自動車にひかれてしまったような声は、少なくとも私の趣味ではない。

 ただ、そのポップス作家としての才能は傑出していると思う。だから、よい歌い手のカバーをたくさん聞きたいわけ。ハイファイセットの歌うユーミン・シリーズもよいが、このトリビュート・アルバムもなかなかの出来。それぞれの歌い手に合わせて、面白い編曲を施していて意欲的。

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2006年3月28日 (火)

‘痛い’話(3)

 大学生の頃だったかと思う(わりと、あいまい (-_-;)。電車で自分は坐るべきかどうか、で結構悩んでいた。いったん坐ってしまうと、バイトで疲れていたので、すぐ眠くなってしまい、眼の前に、老人やハンディキャップを持つ人が居ても気づかなかったり、時機を失うと決まりが悪くて譲れないことが多かったからである。で、まぁ、とにかく、「少なくとも自分よりハンディを持つ人には何かせねばならない」という強迫観念(≒定言命法?)のもと、その実践に乗り出すことにした。

 すると、ある昼下がり、駅の階段を中年配の男性盲人が一段一段上ろうとしているではないか。これ幸い(といってよいのかどうか)とばかりに、ちょっと勇気をだして、
 「お手伝いしましょうか」
と申し出た。で、
 「お願いします」
と、了解を戴いたので、やおらその人の左手をとり一緒に階段を上がり始めた。

 しかし、当然といえば当然だが、その人物の階段を上がるペースは、私の日常のペースより遅いに決まっているとか、同じハンディキャップにしても、怪我をしている人の場合と、盲人とでは助け方が違うかもしれないとか、いったことに当時‘も’私は全く想像力を欠いていた。

 そのため、私はその盲人をぐんぐん引っ張り挙げるようにして階段を上ってしまったのだ。そのほうが盲人にとっても肉体的に楽だろうとか思って。ところがどっこい、四肢に問題がなくとも、眼の見えない人にとっては、まずもって、前方の視認ができないのだから、一つ一つ手探りというか足探りで進むのが合理的なのだ。だから、同じペースで進んで、障害物や上方からくる人間に衝突しないようにすること、盲人の眼の代わり、つまり情報処理を代替してあげるべきだったのである。

 で、上を見ながら勢いよく引っ張り上げ出したのはよいのだが、盲人が少し遅いので、「遅せぇなぁ」と斜め下、後方を振り返ると、その中年男性はかなりあせりながら、必死に足を送っているではないか。「おおぉ、そうだったのかぁ」と、鈍い私もようやく事の深刻さに気づき、ペースをあわせ、手は緩やかに添える程度に軌道修正し、ようやく連絡通路を渡りきり、改札のあるホームまでお連れしたのだった。

 離れ際に礼を言って戴いたが、あのとき階段途中で盲人がつまづいていたりしたら、場合によっては怪我に結びついたかも知れないと思うと、夏にも関わらず背中にひんやりしたものが一筋スーっと落ちた。

 この後は、なにか手伝うべきだと考えても、見境無く手を出さずに、少し離れたところから見守り、一段落したら離れるという、イギリス人風のアプローチに変更したことは言うまでもない。

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2006年3月27日 (月)

19世紀後半の児童文学

 19世紀後半の西洋児童文学の、私にとってめぼしいとこだけを年譜化*してみた。単に雑然と時系列に並べただけなので、その解釈は後ほど。アイデアがあれば、コメントよろしく。

L. キャロル《不思議の国のアリス(アリス物語)》(1865)

L. M.オルコット《リトル・ウィメン(若草物語)》(1868)

ウィーダ Ouida 《フランダースの犬》(1872)

マーク・トウェーン《トム・ソーヤーの冒険》(1876)

H. H. マロ《家なき子》(1878)

J. シュピーリ《ハイジ(アルプスの少女)》(1881)

R. L. スティーブンソン《宝島》(1883)

コローディ《ピノキオの冒険 Le avventure di Pinocchio》(1883)

マーク・トウェーン《ハックルベリー・フィンの冒険》(1884)

デ・アミーチス《クオーレ Cuore》(1886)

J. ベルヌ《二年間の休暇(十五少年漂流記)》(1888)

*平凡社世界大百科事典「児童文学」の項、参照。

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2006年3月26日 (日)

‘痛い’話(2)

エピソード2

 サラリーマンの朝は忙しい。それで、例えば、駅の雑踏で人にぶつかったりしてしまっても、何事もなかったかのように人々は目的へ向かってズンズン進んでいく。

 ある朝、駅の地下通路を忙しく、人々と交錯していると、ついすれ違いざまに、男性の足を踏んでしまう時があった。しかも、謝るひまもなくその男性も歩き去ってしまう。その頃は、なぜか知らないが「他人を傷つけるより、傷つけられるほうがマシかもしれない」なとど考えていたせいで、どうしても謝らなければ、と思って、その男性を追いかけ、呼び止めた。
 「足踏んだでしょ。」
すると、件(くだん)の男性は、俺に因縁つけるのかぁ、という引きつった顔になったので、あわてて、
 「いえ、私があなたの足を踏んだんです、ごめんなさい。」
その男性は、こんな忙しいときにそんなことで呼び止めるな、このボケ!、とでも言うように、引きつった顔をさらに引きつらせて、何も言わず方向転換し、ボッとしている私を残して、眼前から去ったのだった。

 謝りに行ったことが、よかったのか、悪かったのか、結論は出せなかったが、その後、しばらく私が悩んだのは言うまでもない。

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2006年3月25日 (土)

親のスネ

 この文章、手元に資料のないまま、記憶で書いているので未定稿です。本日のネタが無いので、載せさせていただきます。逐次、確認できしだい、訂正します。すみません。

 Max Weber はブルジョアの長男として生まれました。ただ、父親との関係がよくなく、20代後半までの部屋住みの身が嫌で仕方無かったようです。親から経済的に独立するために判事補にもなったりしていますが、やはり、学問への熱意冷めず、大学に私講師として復帰します。当然、これは無給なので、マリアンネとの新所帯も父親の助けでなんとかなるわけで、鬱々としていたのですが、ちょうど30くらいの時に、母方の祖父から湖を望む屋敷、を含む莫大な遺産を継承できた。彼はいくつかの大学教授を歴任しますが、私の試算だと、精神疾患の発病で、本当に講壇に立てたのは、彼の大学教授歴30年弱のうち4年ほどです。ほとんどを病気療養と論文執筆ですごしています。彼が膨大な論文、原稿を残せたのも、その資産のおかげであることは間違いないところです。その才能だけでは無理だったでしょう。

 以上は、烏有亭さんのblogにコメントをしようとしたところ、失敗したので、記事としました。論調がヘンですが悪しからず。

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2006年3月24日 (金)

アンデルセン生誕200年

 昨年は、アンデルセン生誕200年だった。 小学校の頃、『人魚姫』を読み、その残酷な結末に何度も涙した。今でも生々しい記憶だ。

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2006年3月23日 (木)

‘痛い’話

 最近、私の周辺に‘痛い’人物が現れて、私を含むその周辺の人々のちょっとした話題になっている。で、話しているうちに一つの事に気がついた。私自身にも似たような事が頻々としてあるのだ。何のことはない、自分自身が‘痛い’人間だったらしい。

 この‘痛さ’は、本人は気がつかない。何しろ、周りの人たちを‘痛め’るだけだから。ということで、その‘痛い’事例をちょっと検証しようと思ったわけだ。いかにも、blogにふさわしい、日記的内容となりそうな予感。

エピソード1
 つい、一昨日、某駅前のロータリー近くに車を止めた。当然、パーキング・メーターが停止する19時以降だ。今日は近くに止められたな、とほくそ笑んでいた。で、そこから、ずるずると仕事を始め、午前様になり、あー、ダり~、と思っていたら、外で俄かに異変が。なんだ、何だ、とオフィスの窓から下をのぞくと、なんと真っ赤な消防自動車が眼下の道路を埋め尽くしているではないか。血の気が引いた。私が止めてある車はすぐ近くだ。そこはオフィスのビルとは少しずれたところのパーキング・メーターの路上の駐車スペース。そのため、肉眼で確認することができない。余計あせった。まさか、自分の車が炎上しているわけではないだろうな。そう考えるといてもたってもいられなくなり外に出て確認することにした。駆けつけてみると、すでに消防署員による通行規制が始まっていた。で私の車は・・・。あったぁ、ホッ。確かに私の車は炎上していなかったが、その真向かいのビルの三階が炎上していた。

 おお、煙が噴出し、現場で消防士がホースで放水している。火事など久しぶりの見物だ。どれ、とゆったりとした気分でいたが、すぐに大事なことに気がついた。ありゃ。これじゃ、仕事が終わっても帰れないじゃん。私の車のすぐ前に、組み立て式のデスクをひろげ、「現場指揮所」が作られている。そこで、恐る恐る、「これ私の車なので、どかしましょうか」と尋ねた。すると、そこの現場指揮の消防士が、「いいよ。第一、もう出せないでしょ」と、何を寝ぼけたことを言ってんだぁ?、という顔で私を見つめ返した。私は一瞬、クラっとなり、二の句が出ず、「はァ」と生返事をしただけで、すごすごと物見高いギャラリーの中に戻った。私の帰宅が、火事騒動が落着し、消防自動車がいなくなった朝方になったのは言うまでもない。

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2006年3月22日 (水)

ピーター・パン、あるいは大人になりたくない少年(1904)〔20190318追記〕

 標題は、James Matthew Barrie が1904年に発表し、今でも世界中の少年少女たちに愛好されている、Peter Pan, or The Boy Who Would Not Grow Up という1904年初演の戯曲。

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2006年3月21日 (火)

大虐殺(1960年、小森白監督、天地茂主演)

 標題の映画は、1923年9月1日の関東大震災の直後におこった朝鮮人虐殺事件を描いたもの。で、私もまだ未見。もし、既にご覧の方は、ご感想などコメントして戴けると助かります。下記の 「all cinema」記事も参照。

大虐殺(1960年、小森白監督、天地茂主演)

 この事件の被害者数だが、平凡社世界大百科事典(「朝鮮人虐殺事件」今井清一執筆)によれば、

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2006年3月20日 (月)

山田慶児 『朱子の自然学』 岩波書店(1978年)

・・・。自然現象の認識のむずかしさは観測器械の製作のむずかしさにひとしい、といった意味のことばを十二世紀の思想家の口から聞くのは、やはり大きな驚きである。朱子が残した数多くの断片的なことばは、ひとりの独創的な自然学者がまぎれもなくそこに存在していたことを、わたしたちに証す。同時に、もしわたしたちが囚われのない心で朱子の思索のあとを、さらには同時代の科学者や思想家のそれをたどるならば、十一、十二世紀の宋代の中国において、すでに量的実験方法への自覚が成立していたのを、確認できるであろう。しかもそれは、要素還元論的自然観とはまるで無縁な土壌に、全体論的な思想の風土に成立していたのである。
山田慶児 『朱子の自然学』 岩波書店(1978年) 、p.2

 ここにおける《朱子像》は、下記の、若き丸山の類比が示唆する《朱子像》とはかなり異なる。

・・・。しかし、後期スコラ哲学がトマス主義に対して持った思想史的意味と儒教古学派乃至国学が朱子学に対して持ったそれとは看過すべからざる共通性を担っている。
丸山眞男 『日本政治思想史研究』 東京大学出版会(1952年) 、p.186

 上記における丸山の歴史認識の深層には、「宋は中世である」したがって、「朱子は中世知識人である」。だとすると、「西欧中世の諸学の大成者はトマス・アクイナスである」から、「朱子とトマスを比較する」、という連想が働いているように思う。しかし、宋代を人類史の中で位置づけるならば、初期近代=early modern ではないか。とすれば、試論的に類比するなら、《朱子⇔デカルト》こそが、より示唆的、思考誘発的であると思う。

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2006年3月19日 (日)

communicability(伝わりうること)と vulnerability(傷つきうること)

 人と人は、communicate 可能なのだろうか。

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2006年3月18日 (土)

‘グルジア’を身にまとうベッカム

 実は、このネタ、旧聞に属してしまった。なぜなら、すでにイングランド代表のユニフォームは、イングランド国旗を模したものから、一時代前の赤を基調とものに変わったので。

 で、何を言いたいかというと、その一つ旧いユニフォームのベースになっているイングランド国旗の意匠が、聖ジョージの旗印、白地に赤十字なのである。

 聖ジョージとは、3~4世紀ごろのカッパドキア(今のトルコ)に実在した伝説的聖人で、ゲオルギウス Georgius のことである。彼は、ローマ帝国の軍人で、偶像崇拝を拒否したため、さまざまな拷問の末、殉教している。また、騎士、射手、農民、武具製造人、馬丁などの守護聖人としても広く愛され、美術作品では一般に、長めの髪をもつ若く美しい騎士として表象される。

 ま、それがベッカムにぴったりと思うわけ。で、聖ジョージに由来するのが、グルジア共和国(英語表記 Republic of Georgia)である。自国語での表記は全く違うのだけど。

 ということで、歴史に関する単なる薀蓄(うんちく)記事でした。

*この記事、ゲオルギウスのことは、平凡社世界大百科事典の井手木実の項目による。

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2006年3月17日 (金)

ERIC CARMEN, 'SUNRISE ' (1975)

 これは、1975年に発表された、彼のソロデビュー作品だ。収録曲は下記。

   1. Sunrise
   2. That's Rock 'N Roll
   3. Never Gonna Fall In Love Again (本記事下の動画参照)
   4. All By Myself (本記事下の動画参照)
   5. Last Night
   6. My Girl
   7. Great Expectations
   8. Everything
   9. No Hard Feelings
  10. On Broadway

 

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2006年3月16日 (木)

隣人の権利は、“あなた”の権利そのものだ

 戦乱のアフガニスタンから逃れてきた青年が、難民申請しているにも関わらず、法務省は認定せず、不法滞在として拘束と仮釈放を繰り返している事件がある。このことは、すでに、このblogでも、幾度か取り上げた、

 現在、係争中だが、その東京高裁での裁判が来る4月12日(水)にあり、結審が出る可能性がある。もしご関心があれば下記のリンクから詳細をご覧戴きたい。

がんばれアリジャン Ali Jane Project

 また、同じゴールを目指しつつ、微妙にそのアプローチの異なる*、知的朋友、「 日記はこれから書かれるところです。」さんの下記記事も参照されたい。

■アリジャン次回裁判4月12日です■

 自らの意思ではないが、縁あって、この世に生を享けた我々。その我々の人間としての権利の問題に、日本人も、“国民”も、外国人も、その区別があるわけがない。すべて、隣人の問題なのだ。そして、隣人の問題とは、あなたや私の問題なのである。

*どうも察するに、氏は Kantian らしい**。私は、Kant も、Kantian、Neo-Kantian にも、実は文句がある。氏の折伏をめざすことで、renqing理論を鍛えようかと密かに(バレてるって)目論んでいる。おいおい記事化しよう(したい、できたらいいなぁ)。

**ま、これも私の当て推量に過ぎないが。

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2006年3月15日 (水)

希望

「明日の考察! これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。」

石川啄木
時代閉塞の現状 1910(明治43)年
(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察) より。

 どれほど怪しげであっても、「希望」や「未来」がないよりましだ。小泉・藤原的気分は、このような、人々のある種の切実さから出ているものなのかも知れない。だとするなら、「希望」、「明日」を語れない限り、この人々を振り向かせることは不可能なのだろう。

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2006年3月14日 (火)

ホッブズと自然法

 今、手元に、『リヴァイアサン』が見当たらないので、二次文献でご勘弁。

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2006年3月13日 (月)

羽入辰郎 『マックス・ヴェーバーの犯罪』 ミネルヴァ書房 2002(2)

 実は、私は標題の著書をまだ読んでいない。ただし、下記は8年前に読んでいる。

羽入辰郎「マックス・ヴェーバーの『魔術』からの解放─『倫理』論文における"Beruf"-概念をめぐる資料操作について」
『思想』 1998年 885号 72-111

 で、この件については、その数ヵ月後、沢崎堅造氏の仕事に気がついたので、岩波書店の『思想』編集部に手紙を送って指摘をした。しかし、当然というか、なしの礫だった。8年経過した今もないので、きっと破棄されたのだろう。

 羽入氏の著書の《事件》性について、下記にちょっとした回顧談があるので、ウェーバー業界における波風についてはそちらを参照されたい。

矢野善郎「『プロ倫』は、再び『旬』か、それとも『賞味期限』か」
創文社刊 『創文』 2005.11  NO.481

 この事件(=羽入氏の著書)を全体として公平に判断するとしたらどうなるか。いまのところ、私の感触としては、下記の梅津順一氏の評言*が妥当なところではないかと考える。

「羽入氏の研究は,ヴェーバー批判という枠組みから離れて,『聖書翻訳と職業義務の思想の成立』という主題で纏められるのであれば,大きな学問的寄与となるであろう。」

*羽入辰郎教授のマックス・ヴェーバー告発について

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2006年3月12日 (日)

羽入辰郎 『マックス・ヴェーバーの犯罪』 ミネルヴァ書房 2002(1)

 ひところ前に、マックス・ウェーバー業界を騒然とさせた本があった。それが標題である。

 で、このところ一段落したようだ。その過程で、出てくるかなぁと思ったら、意外にもでてこないので、ここで触れておこう。

 標題の著者の主要な批判点の一つである、ルター聖書をめぐる資料操作の問題は、すでに日本で40年ほど前に指摘されていた。以下がそれである。

沢崎堅造 『キリスト教経済思想史研究』 未来社 1965
 副題:ルーテル,カルヴァン,聖トマス,アウグスチヌス研究

 ということで、続く

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2006年3月11日 (土)

坂本多加雄『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房 1994年

坂本多加雄 『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房(1994年)
 今、読み止しの本を紹介するのもどうかと思うが、この本は優れている。中でも、

三. 中江兆民『三酔人経綸問答』再読―「理想主義」と「現実主義」のあいだ

は、傑作の部類にはいるのではないか。著者の所属大学の紀要から転載したものということで、詳細な註が省かれているのは惜しまれる。他の所収エッセイと趣が異なる論文なので、ま、仕方ないか。

 兆民の『三酔人経綸問答』は、数多く論ぜられてきたであろう。そられをほとんど知らない私が言うのはおこがましいが、それでもたぶん五指に入る出来だと思う。

 ただし、私の高評価が、坂本論文の内容への賛意を同時に意味するわけではないことは言うまでもない。*

*あくまでも、価値自由(Wertfrei)な立場からのものである。

下記も参照を乞う。

シャツの第二ボタン

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2006年3月 9日 (木)

最近、調子が悪い訳

 情けないタイトルになってしまった。

 つらつらと考えるに、やはりこれは、例の天才バカ本をまじめにレビューしたせいなのではないかと合点がいくエピソードを思い出した。

 岩波書店に、『日本思想大系』なる資料集がある。その、第31巻に収められているのが、 「山崎闇斎学派」 。その解題に、丸山真男が、「闇斎学と闇斎学派 」という論文を寄せている。丸山は、昔から闇斎が嫌いだったらしいのだが、論文執筆の必要から、基本的に読み直して、論文を仕上げた。しかし、嫌いなものを読むというのがストレスになって、その後しばらく体を壊した、というのだ。

 うーん、事はそうとうミニ・スケールだが、ま、似たようなものかなぁ、っと思った次第。(^^; それにしても、埋め草記事になってしまった。

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2006年3月 8日 (水)

ウィルス virus の面構え(訂正版)

閑話休題

 ウィルスに面(つら)があるとしたらどんな顔か? 実はこれが正三角形なのだ。正確に言うと、その表面はすべて正三角形で覆われている。

 中学一年生の空間図形のことを覚えている方は、すぐ気づくであろう。そう、すべての面が正三角形である空間図形は、正四面体、正八面体、正二十面体だ**。その中で、最も球状に近いのが、正二十面体である。これが、ウィルスを電子顕微鏡でみた外観。ま、すべてのウイルスがそうであるとはいえないのだが。

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2006年3月 7日 (火)

「国家の品格」関連、カテゴリーを作成しました

 ものぐさ*を決め込んでいたら、な、なんと、「日記はこれから書かれるところです。」さんが、業を煮やして、関連リンクを作ってくれてしまいました。まことに恐縮、汗顔の至り。急遽、「国家の品格」関連、というカテゴリーを作成し、関連する記事にこのカテゴリーを貼り付けました。

 ついでに、「武士道」とは、「衆道」、つまり、ゲイ gay の道でもあることを、‘衆知’のものとしたいので、「プラトニック・ラブ」にも、このカテゴリーを貼り付けました。皆さん、よく読んでおいてくださいね。

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2006年3月 6日 (月)

イギリス人はどこでタバコを吸うか?

 禁煙の話。公平に見て、ブレアもブッシュと同じく戦争犯罪者だとは思うが、いちおう、英国の政治にまだ活力が残っている気はした。日本に比べると。

英国のパブなどが全面禁煙に 2006.02.15Web posted at:  15:56  JST- CNN/AP

以下、この記事
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ロンドン──英下院は14日、禁煙法案を328票差の賛成多数で可決した。上院の承認を経て2007年夏をめどに、パブやレストラン、クラブなど公共の場所での喫煙が全面的に禁止される見込み。映画館や事務所、工場、ショッピングモールも対象となる。

禁煙の範囲をどこまで拡大するかをめぐっては、これまで活発な議論が交わされてきた。一部議員らは会員制クラブを対象外とすることを提案していたものの、200票差で否決された。

ブレア首相は与党の労働党議員らに対し、党の方針ではなく良心に従って採決に臨むよう促していた。首相府が14日明らかにしたところによると、首相は前回の総選挙で党が掲げた方針よりも厳しい全面禁煙に賛成票を投じたという。

法案審議では(1)全面禁煙(2)食事を提供しないパブを対象外とする部分禁煙(3)会員制クラブを対象とする禁煙免除──の3つの案が検討され、閣僚の間で意見が分かれた。一部の労働党議員らが法案を全面禁煙に修正するよう求め、14日にようやく可決された。

ヒューイット保健相は全面禁煙に賛成したものの、それまでに2度も翻意しており、野党側から優柔不断と批判された。

公共の場所での喫煙制限はここ数年、アイルランドやフィンランド、イタリア、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、米国の一部に導入された。スコットランドは来月から公共の屋内を全面禁煙とする予定で、北アイルランドも分煙導入に向けて動いている。
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引用おわり

*今、少し時間がなく、埋め草記事になってしまいました。コメントへのレスももう少しお待ちください。

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2006年3月 5日 (日)

『国家の品格』書評をbk1とamazonに乗せました

 以下、bk1 と amazon.co.jp に掲載した書評の後半部分の再掲載。自分のblogでは、この視点は書いてなかったので、念のため記しておきます。読みたい方はそれぞれへ飛んでください。

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2006年3月 4日 (土)

勇気ある女(ひと)

某月某日、深夜、某国営放送の再放送をたまたま見た。下記↓

「鳥インフルエンザを封じ込めろ」WHO医師 進藤奈邦子

 一言でいって「かっこいい」である。痺れました、はい。女は本来、女々(めめ)しくないのだ。女性に関するステレオタイプは、所詮、男の願望の投影に過ぎない。

 現場に急行するときは常に死の危険に晒されるため、普段から11才と8才になる2人の子供に噛んで含めている。お母さんにたとえ何かあっても立派な人になれ、と。

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鄧麗君、宋詞を歌う

 古来、中国では、「漢文,唐詩,宋詞,元曲」と言慣わしてきた。つまり、漢朝ならば文、唐朝ならば詩、宋朝ならば詞、元ならば曲が、それぞれの時代を代表する文芸だと。

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2006年3月 3日 (金)

シャツの第二ボタン

「えーっと、なんだな、女房ってぇのは、シャツの第二ボタンみたいなもんだな。」「そりゃぁ、どうしてだい。」

「あっても無くても、同じ。」

 この、志ん生の小話なら、フェミコードには抵触しない?、だろう。
私のは、《米国にとって、シャツの第一ボタンは China であって、Japan ではない》っていう小話。

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2006年3月 2日 (木)

人生の選択法

 「人生の選択マトリクス」、を作ってみた。
 以下問題とするのは、人生の岐路に立った人間の《行為》である。

 

       |         善              |           悪
----------------------------------------------------------
       |                         |           
  得 |      善 かつ 得    |   悪 かつ 得
       |         (Ⅰ)           |    (Ⅲ) 
       |                          |
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       |                         |
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