ホッブズと自然法
今、手元に、『リヴァイアサン』が見当たらないので、二次文献でご勘弁。
「社会契約説」にみられる、もう一つの重要な原理は、専制権力に反対する権力制限的な思考である。人間がその生命・自
由・財産を享受しようとするならば、当然、暴力的・権力的な支配に反対せざるをえないであろう。こうした専制政治を排除する最良の方法は、統治機関が民衆全体の意思にもとづいて選出されることにある。ホッブズの主権者は、全構成員の自発的な同意契約によって設立された全構成員の代表人格とされ、この主権者が立法者なのである。そこで、主権者の命令とはすなわち法律であり、ホッブズが主権者の命令に服せよ、という意味は、全構成員の意思や利益を代表する主権者の制定した法律に服するということであり、そのことは、とりもなおさず、契約当事者たる個々人が自分自身の意思に服することに等しい。(p.8)
ここから、ホッブズは、主権者の命令に服することのなかに、人間の自由の保障をみいだしていたことがわかる。ところで、この主権者は、自己保存という人間の自然権を保障するために必要なルール=戒律である自然法(理性によって発見され、その第一の基本的自然法は平和の確保にある)の要請にもとづいて設立されたために、主権者の行為には、自然権や自然法に違反しない範囲内でその制約がつけられている。したがって、ホッブズは、主権者の命令=法律であれば、その内容は問わないとするヴァイマル共和国期の最も代表的な保守主義者であるシュミット流の悪しき法実証主義者、法万能主義者ではない。実定法の背後に、その良否を審判する、より高次の法=規範である自然法がひかえているという権力制限的思考によって、ホッブズは、中世以来のイギリスに伝統的な「法の支配」観念を正しく継承していたものといえよう。
田中浩「序章-近代政治原理としての『社会契約説』」、飯坂良明、田中浩、藤原保信 編 『社会契約説』 新評論 1977、所収〔参照〕
自然状態(state of nature)について(1)
自然状態(state of nature)について(2)
| 固定リンク
「思想史(history of ideas)」カテゴリの記事
- 「資本主義」の歴史的起源/ The Historical Origins of “Capitalism”(2024.11.22)
- 「ナショナリズム」の起源/ The Origin of “Nationalism”(2024.11.21)
- 20世紀におけるドイツ「概念史」とアメリカ「観念史」の思想史的比較 / A historical comparison of the German “Begriffsgeschichte” and American “History of Ideas”of the 20th century(2024.11.19)
- 比較思想からみた「原罪」(peccatum originale/original sin)| Original Sin from the Perspective of Comparative Thought(2024.10.31)
- Michael Oakeshott's Review(1949), O.S.Wauchope, Deviation into Sense, 1948(2024.08.17)
「社会契約論 (social contract)」カテゴリの記事
- 民主制の統治能力(2)/ Ability to govern in democracy (2)(2020.11.11)
- 民主制の統治能力(1)/ Ability to govern in democracy(1)(2020.11.10)
- 自動車は、ガソリンのパワーの60%を大気中へ捨てている(2019.06.25)
- 神社、demos(凡夫たち)kratia(支配)のためのagora(広場)(2019.05.25)
- 現実としての「一揆」と思想としての「社会契約」(2015.10.27)
「Hobbes, Thomas」カテゴリの記事
- The future as an imitation of the Paradise(2022.10.30)
- 「進歩教」の「楽園」、すなわち「未来」/The future as an imitation of the Paradise(2020.04.24)
- いじめと社会契約(2014.01.12)
- 渡辺浩『日本政治思想史 ― 十七~十九世紀』東京大学出版会(2010年)(2)(2010.03.25)
- homo homini lupus.「人間は人間にとって狼である」(ver.1.2)(2007.12.08)
「Schmitt, Carl」カテゴリの記事
- "Exoteric or Esoteric Buddhism" on the Principle of Self-Help(2022.05.02)
- 「自力救済の原理 the principle of self-help」を巡る顕教と密教(2022.05.02)
- 書評:関 良基『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』作品社 2020年07月15日刊(2020.08.28)
- Schmitt, Voegelin & Strauss(2016.11.16)
- 勝田有恒/山内進編著『近世・近代ヨーロッパの法学者たち ―グラーティアヌスからカール・シュミットまで― 』ミネルヴァ書房(2008年)(2011.04.18)
コメント
美濃森米八さん ホッブズについてはちょっと後回し。
> このような国では自ら戦って権利を勝ち取ることが民主主義の本義であるといったところで、迂遠な話です。「法の支配」にいたっては未来永劫この国の民には定着することはないのではないか。
気持ちはわかりますが、可能性を信じないところには、不可能性しか存在しません。私は、‘隣人’たちの可能性を信じます。なぜなら、私も彼らの‘隣人’の一人にしか過ぎないからです。己を信じうるなら、‘隣人’も信じうると思います。
投稿: renqing | 2006年3月24日 (金) 12時17分
ここに書かれている田中浩のホッブスの自然法理解についてはオーソドックスなもので特に異論があるわけではありません。
もともと「社会契約説」は、ボダン流の王権神授説ではもはや主権が維持できないと考えた近代国家側からの要請があったという側面があったことも否めないので、権力制限的思考がその本源にあると言い切るのはかなり難しいと思いますが。
『「リヴァイアサン」は主権の絶対性を支持するものと解釈されることが少なくないが、実はもっとも戦闘的で純粋な、民主主義の古典であり、普通に民主主義の古典と呼ばれるロックの「統治論」もこれにははるかに及ばない』(河出書房刊 世界の大思想「リヴァイアサン」水田洋解説499pより)という意見は田中氏のホッブス理解と同一線上にあるといって良いでしょう。
しかしながら注意深く原文(同上 88p)を読むと、「自然権や自然法に違反しない範囲内でその制約がつけられている主権者の行為」はそれほど簡単に定義できるわけではなく、先に私が引用した「平和と自己防衛のためにそれが必要だとかれが思うかぎり、すすんですべての物事に対する彼の権利を捨てるべきであり、そして他人がかれに対してもつことを、彼が許すような、自由を、他人が持つことで満足すべきである」(これは保守主義者・長谷川美千子のホッブス解釈ではなく「リヴァイアサン」原典からの引用です。同上88p)という、やはり権力制限的な思考がまず本義であって権力獲得な思考をホッブスの原典からさえも引き出すのは難しいのではないか。
この手の議論はあまりに思弁的になりすぎても仕方ないので、日本に暮らす我々にとってどういう意味があるのかを考えるべきでしょう。「反人権」や「反平等」を叫びたてることが、いかにも大勢に逆らって正論を吐いているかのように受け入れられ、その著者が愚にもつかないヒロイズムに浸りながら悦に入っている本が大ベストセラーになる。このような国では自ら戦って権利を勝ち取ることが民主主義の本義であるといったところで、迂遠な話です。「法の支配」にいたっては未来永劫この国の民には定着することはないのではないか。情けない話ですが。
*思いきりダサイHNに改名しました。
投稿: 美濃森米八 | 2006年3月18日 (土) 11時34分