金言シリーズ(その3)
いま、あなたが選び取ったことの価値は、いま、あなたが選び取らなかった全てのものの価値で計られる。
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いずれの道を選ぶか迷うときは、最も困難な道を選ぶべきだ。
なぜなら、それこそがあなたの最もやりたいことだからだ。
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悩んだとき、素直に打ち明けられる友、これが真の友である。彼(彼女)は、静かにあなたの言葉を受け止めてくれるであろう。だからあなたも、よき友として、他者の言葉をそっと受け止めてあげよう。解決の糸口は、既にその中に隠されているのだから。
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次回、米国大統領選は、2008年。おそらく、民主党候補の勝利だろう。そこで、共和党政権の間に、かつての大日本帝国の満州国のような既成事実を作り上げておこう、というのがイスラエルの意図であり、おそらくブッシュも green light を出している。というのが、我が知人の分析である。
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そりゃぁそうだろう。北朝鮮のミサイル花火は、日本海に落下し、人畜無害。一方、イスラエルは、レバノンを事実上、軍事的に侵略し、300人以上を殺戮しているのだ。この鈍感さは、何だ?
レバノン首相は叫ぶ。「イスラエルによる無情な報復がわれわれに加えられるのを国際社会は傍観できるのか。これが国際社会の言うところの『自衛』なのか」、と。
国際社会に即時介入要求=死者は300人以上-レバノン首相
【カイロ19日時事】レバノンのシニオラ首相は19日、イスラエルによるレバノン攻撃激化で大きな被害が出ていることを受けて、同国駐在の外国大使らを
前に演説し、「即時停戦とレバノンへの緊急人道支援の要求に対し、直ちに、留保やちゅうちょなしに対処」するよう国際社会に呼び掛けた。AFP通信が伝え
た。
同首相は「イスラエルによる無情な報復がわれわれに加えられるのを国際社会は傍観できるのか。これが国際社会の言うところの『自衛』なのか」と感情的な調子で訴えた。
米国はイスラエルのレバノンへの攻撃が、イスラム教シーア派武装組織ヒズボラに対する「自衛」であるとの立場に固執して介入を拒否、民間人の犠牲者の急増を事実上放置している。
シニオラ首相は、これまでの8日間にわたるイスラエル軍の攻撃で、300人以上が死亡、1000人以上が負傷し、50万人が家を追われたことを明らかにした。
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たまたま、実況中継で見たゲームなので印象が強烈だった、という理由で選んだ。
2006年6月30日金曜日、準々決勝、ベルリンで行われたドイツ対アルゼンチン戦。後半、49分。リケルメの右からのコーナーキック。クローゼの前に飛び出て、ディフェンダーのアジャラが決めたヘッディング・シュート。びっくりするほど、素晴しかった。
ロベルト・アジャラは、177cm、75kg。日本のDF宮本とほぼ同じ体格。対する、ドイツDFは、平均身長ほぼ190cm。やはり、ヘッディングは、ポジショニング、タイミング、読み、ということだろう。ヨーロッパ勢に負けるとすぐ体格の事を言い募る少し頭の悪い連中には、絶好の反証材料と言える。
したり顔で、ダメな理由を挙げても意味がない。現状から出発して、どういう対策が可能かつ有効なのか、どうすれば長期的に改善できるのかを論じろ、スポーツ・マスコミ。お前達の阿呆で、扇動的な記事が、いかに日本のサッカーをダメにしているか。愛があるからこそ、厳しく、冷徹な批判ができ、そういうチャレンジに晒されてこそ、日本のサッカー界も少しずつよくなっていくのだ。
日本代表の予選リーグ敗退の最大の戦犯は、お前たち、スポーツ・マスコミだ。
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相互に「隣人」でしかあり得ない人間たちが、自由で多様な討論と活動を通じて、政治的意思決定に参加する機会と体験を享受し、その決定の成功と失敗から相互に学びあうからこそ、個人としても集団としても少しずつ成長できるのだ、という信条。
民衆が他国でタコ踊りする首相を選び続けたことは、少なくとも、政治が思想の闘いであることを考えれば、私が志向する思想の敗北だ。「負けにまさかの負けなし」。負けた原因を冷静に分析しなければ、この闘いに永遠に負けっぱなしだと思う。
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この標題に関して、興味深いエッセイが下記に掲載されている。
「創文」 2006.06 No.487 創文社刊
橋本努「二十一世紀の政治思想 - ヒンメルファーブとシュトラウス -」 p.1-5
橋本が特筆する思想家は、ヒンメルファーブ、シュトラウス、そしてH.アーレント、だ。この三者は、直接の交流はなくても、すべて、戦間期から1950年代にかけての、ニューヨークのニュー・カレッジで交錯する。
これに付け加えるなら、一群の若きトロッキストたち、だろう。
若きトロッキストたちのネオコンへの変貌。これは、日本での、「あたらしい教科書を作る会」系の人々が元左翼だった事実と暗合するし、昭和前期日本の革命家たちが、自然に国家主義者へ横滑りすることも想起させる。ただ、そこに行く前に、もう少し、ネオコンを見てみなければならないだろう。それは次回以降に。
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中田が優れた能力をもつフットボーラーであることは間違いない。しかし、イタリアへ出て、その得点能力で注目を浴びつつも、しばらくすると泣かず飛ばずに陥っていた。それは、新天地を求めてチームを移動しても、当座の期待からチーム側の熱が冷めてくると、全く同じように繰り返されていた。
これは、監督と合う合わないという問題ではないだろう。どのチームに行っても、最終的には同じなのだから。
彼は学業ができたようだ。つまり、「頭がいい」らしい。たいていの運動選手は勉強はできない。限られた己の能力をスポーツに集中しているのだから当然である。これは海外のプロ選手であればなおさらそうだ。十代で頭角を現している選手なら、ほぼ、日本で言えば、中卒レベル、へたをすると小卒同等、だろう。
率直に言って、中田の問題は、チームメイトを軽く見て(「頭が悪い」とか)、自分に従うかどうか、という態度でしか接しないことではないか、と私は推測する。どの監督も、実際に中田をチームの中で使おうするとき、その態度がどうしても障害になり、ベンチに置くことになったのだと思うのだ。
中田は常にリーダーでいたいのだろう。しかし、チームメートは彼をリーダーとして認めなかった。日本代表においてさえも実質的にそうだったのだろうと思う。リーダーは、時には果断な命令を出す必要がある。しかし、この命令も相手が承認して従わなければ無意味だ。それには、日常的なコミュニケーション活動が前提となる。
中田は、人間には「指示を出す者」と「その指示に従う者」が厳然としているという事実は充分知っていた。ただ、惜しむらくは、その解釈に間違いがあったようだ。彼は、「偉くないもの」は「偉いもの」のいうことを、必然的に、きく、と思っていたに違いない。
しかし、集団メンバーと普段からコミュニケートしようとしないリーダーに、誰がついていくものか。彼は、「王様」でありたかったが、なれたのは「裸の王様」でしかなったわけだ。
外国語を操れることとコミュニケーション能力は何の関係もない、というが私の、このつたない中田研究の帰結である。
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ジダン退場、とか、イタリアの優勝とか、でちょっとかすんでるが、中田引退について一言。メンテナンスが始まると、多分、システム不調は2日間では済まないので。
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みすず書房版の翻訳本で読み進めているので、標題もそれに合わせて変更しました。必要があるときは、随時 OXFORD PAPERBACKS版を参照することにします。
前回、いきなり negative(消極的)な結論を提示したので、「なんだ、そりゃぁ?」と怪しまれた方もいたかもしれません。ただ、読み手の私も少しずつ変わってきています。だから、この本、ないしこのエッセイに対する評価が少しずつ変わるのは仕方ないことでもあります。
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