伝えたこと≠伝わったこと(1)
コミュニケーションにおいて、ギャップはどうしても避けられない。伝え手の内容10が伝わり手に5しか届かない場合がある。また、伝え手の内容{ a, b, c, d }が、{ b, c, d, e }として伝わり手に受け取られる場合もあろう。
しかし、コミュニケーションにおけるギャップは、多かれ少なかれ必然的に存在するのだから、それを失敗とは言えない。コミュニケーションの失敗とは、伝え手のコミュニケーションの意思を、伝わり手が気が付かないときに発生する。
そして、この手の失敗が深刻なのは、失敗に伴う全ての負荷を結果的に伝え手が引き受けることになることだ。「伝わらない」という失望感と、「この失望感も伝わらない」という絶望感、という二重の負荷である。
この問題が軽症の段階では、伝え手は伝わり手に voice する(=文句を言う)だろう。しかし、これが重症段階になると、コミュニケーションの断念にとなり、コミュニケーション関係からの exit を帰結する。つまり、物理的に近くにいても、無視か無言(=内面的 exit )となるか、物理的に距離を置く exit 、つまり「去る」ことになる。
一方で、このコミュニケーション失敗に懲りて、自己防衛に走る場合もある。つまり、コミュニケーション関係を、その失敗の可能性の低い、安全性の明らかなものだけに限定し、一方で、物理的に近くにいるその他の人間とは適当に「流す」。この意図的不感症タイプは、元来は繊細な神経を持つ人物に多いと思われる。
人間性の奥底に、人類共通のvulnerability(傷つきやすさ)があるとするならば、それは、共感と相互理解の可能性の担保であり、かつ、コミュニケーション・ギャップを、コミュニケーションの失敗に転化させる端緒でもある。
意図せざるコミュニケーションについては次回以降に。
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コメント
少なくとも、「伝えたい」という意欲は、こうして返信を書く私にも、コメントを書かれている古井戸さんにもありそうです。ということは、コミュニケーションの可能性をかすかなりとも信じている、と思えます。
関係性の中でしか、自己をアイデンティファイできないのが人間だとしたら、コミュニケート行為に押し出されるのも人間、という感じがしますが。
投稿: renqing | 2006年9月19日 (火) 12時28分
コミュニケーションはそもそも可能なのだろうか。なぜ、可能なのだろうか?コミュニケーションのギャップは認識できるのだろうか?コミュニケーションに成功した!と、伝わっても居ないのにぬか喜びする危険にくらべれば、伝わらない、と失望する事態がはるかに望ましいとおもえる。
投稿: 古井戸 | 2006年9月18日 (月) 03時19分