生きている殺生戒(せっしょうかい)
ある時、老婦人とそのお孫さんのことで話す機会があった。
私 「お孫さんは活発なお子さんでいいですねぇ。魚釣りなんかも好きでよろしんじゃないですか。」
老婦人 「いやね、私は孫がそういう殺生するのは嫌なんですよ。私はね、自分の親からそう言われて育ったんでね。漁師が魚を釣るのはいい。仕事だからね。だけど、自分一人の楽しみで殺生するのは、どうも嫌でね、やめてもらいたいんだ、ほんとはね。でも、母親が別に止めないんでね。」
ここに見られるのは、仏教の十悪とされる殺生の戒めである。西洋の自然法にも通じるところの、誰にでも普通にありうる、無益な殺生はしないという倫理感、道義感だろう。細々とながら、日本人の倫理感を支えてきた仏教の在りし日の姿を垣間見る機会となった。
ただ、話の流れが、嫁姑問題に行きそうな雲行きだったので、話の向きを変えるため、
私 「そういえば、剣道もやってらっしゃいますよね。結構強いみたいですよ。」
老婦人 「それもね、頭をあの竹刀っていうので叩くでしょ。頭が悪くなりゃしないか、と心配なんだけど、母親が勧めるんで。」
あれ、まずい。ますます話が嫁姑問題へ行っちまう。私がここが潮時と、適当に話を切り上げ退散することとしたのは言うまでもない。
明治軍事独裁政権が行った施策でも、神仏分離、廃仏毀釈、ほど、近代日本人を immoralにしたものはないだろう。
仏教、ないし寺院が徳川政権下でどれほど支配の末端組織として機能、腐敗し、庶民の反感を買っていたとしても、この列島に千年もの間、この世には、王法と異なる仏法というものがあることを教え、王も含めて全ての人間が守らねばならない法があることを庶民に知らしめていたのは、紛れもなく仏教である。これを徹底的に破砕、破却したのは、明治の権力亡者どもなのだ。近代日本人が兵として一歩この列島を離れたとき、また異なる国の人間とぎりぎりの関係を持たざるを得なくなったとき、普通の人間が想像を絶する野蛮性を示したのは、この明治の《文革》が大きく影響していたという疑いが私には拭えない。
| 固定リンク
「靖国神社」カテゴリの記事
- 菅内閣に任命拒否された日本学術会議新会員の推薦者リスト(2020年10月01日現在)(2020.10.02)
- 1945年9月2日日曜日(2020.09.02)
- Mよ、地下に眠るMよ、きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。(2007.11.01)
- 靖国史観マトリックス(2013.12.29)
- 賞典禄、あるいは「革命家」のボーナス(2)(2007.06.08)
「幕末・明治維新」カテゴリの記事
- リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理, 解説:張 彧暋〔書評③〕(2024.09.23)
- 書評:関 良基『江戸の憲法構想 日本近代史の〝イフ〟』作品社 2024年3月(2024.05.13)
- 徳川思想史と「心」を巡る幾つかの備忘録(3)/Some Remarks on the History of Tokugawa Thought and the "mind"(kokoro「こころ」)(2023.06.11)
- 日本の教育システムの硬直性は「儒教」文化に起因するか?(2021.05.18)
- 藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』1985年中公新書〔承前〕(2021.03.14)
「Buddhism (仏教)」カテゴリの記事
- The future as an imitation of the Paradise(2022.10.30)
- 日本の若者における自尊感情/ Self-esteem among Japanese Youth(1)(2022.09.28)
- 心は必ず事に触れて来たる/ The mind is always in motion, inspired by things(2022.07.05)
- 欧米的合理主義のなかに内在する不合理は何に由来するのか(2)(2022.02.05)
- 幕末維新期における“文化大革命”/ The "Cultural Revolution" at the end of Tokugawa Japan(2021.02.16)
コメント
かぐら川さん、どうも。
宗教、信仰レベル次元→「あの世」「この世」的なものと、思想信条レベルのものでは、人間に刻印される規範意識は懸絶的に異なるように思えます。
随分むかしに読んだ、中根千枝『未開の顔・文明の顔』(1962年)に、中根が北インドをフィールドワークしていた折、ヒンドゥー化されていない少数部族の地域から、ヒンドゥー化された他の部族の地域へその境界線を越えたとき、本当にホッとした、と書いてありました。人間、その心根はそれほど変らないにしても、普遍宗教に改宗されていることは、ある種の文明化を経ているため、観察部族の行動を多少程度予測できるのだが、そうでない場合は、外部観察者の如何なる行動がその部族の逆鱗にふれるか分からないので、いつ不慮の事故や、殺傷沙汰がおきるかわからないから、ということでした。フィールドワーク中の民族学者で落命した学者は少なくないそうです。
いずれにせよ、まだ、安丸良夫『神々の明治維新』が読了していないので、この続きは、そのときに記事にしますね。
投稿: renqing | 2007年2月 5日 (月) 01時15分
「明治軍事独裁政権が行った施策でも、神仏分離、廃仏毀釈、ほど、近代日本人を immoral にしたものはないだろう。」以下の論旨に、なるほど!と、唸ってしまいました。
が、王法-仏法という二項だけで思考(思想)を切り分けてしまっては、見失うものがあるのではないのか、とも愚考します。(朱子学・陽明学といったもの、石田梅岩の心学などというものを、内容のよくわからないままに考えているのですが・・・)
この大切な問題提起、わたしなりにもゆっくり考えたいと思います。また、ご教示ください。
投稿: かぐら川 | 2007年1月29日 (月) 23時49分
はましまさん、どうも。
文明開化は、この列島史上、空前のミメーシスの時代なのですね。その影響を免れてるものはあり得ない、と思うべきなのでしょう。
投稿: renqing | 2007年1月25日 (木) 12時45分
「明治の《文革》」という言葉には頭をはたかれました。言葉にして初めて通じるものがあるのだなと思います。ところで、甲野善紀さんの古武術に学ぶからだの動かし方などの本を読みましたが、剣道での胸を張るポーズはドイツなどに学んだ明治以降なのだそうです。
投稿: はましま | 2007年1月24日 (水) 00時27分