「哲学の自然化」?(2)
「天動説と地動説で、後者が科学的で真理だと誤解する向きは多いだろうが、この両者はある操作で補正すると、それぞれの座標空間上に1対1で対応する。1対1で対応するということは、数学的に等価だということだ。」
と書いた。これについて、意味がよくわからん、とのご指摘を戴いた。そこで、ちょこっと付け足す。
再説すると、我々が澄んだ夜空で見ることのできる星、つまり、中学校の理科で習う、天球上にみえる恒星や惑星の位置と動きは、天動説(地球中心説)でも、地動説(太陽中心)説でも説明可能だ。そして、これは3次元座標軸上で、原点に地球を仮定するか、太陽を仮定するかの相違に過ぎない。だから、数学的には同じものであるが、後者のほうがより簡単で少ない仮定から、分かりやすく説明できるので、優れていると言えるため、普及して現在に至っている、ということになる。
それでも、図表などを使いながら説明したほうがスッキリいくと思うので、ヘタクソで不正確の可能性もあるのrenqingなんぞより、よほど優しく詳しく親切に説明してくれるサイトを二つご紹介して、ご容赦戴くことにする。
1)地動説が絶対なのか?
とりあえず、概要を知りたい方はこちらを読んでいただければ十分だろう。
2)天動説的描像下の力学 遥かな天体に働く壮絶な慣性力
慣性系・非慣性系の力学、という観点からも詳しく説明してくれている。深く知りたい方はどうぞ。
ついでにいえば、因果律(結果には必ずそのよってきたる原因がある)も、人間が自分として納得しやすく、他者に説得するのも容易であるが故に、使われている説明形式にの一つにすぎない。だから、例えば、カントのように、現象界は因果法則が支配している、と大上段に構えられると、ど、どーかなぁ?、首をひねってしまう。ま、これについては、カント(の入門書)の書評を書くときに、触れるとしよう。
〔参照〕
「哲学の自然化」?
物理法則に物理量は存在するか?(1)
物理法則に物理量は存在するか?(2.3)
物理法則に物理量は存在するか(3.1)
物理法則に物理量は存在するか(4/結語)
| 固定リンク
「Tokugawa Japan (徳川史)」カテゴリの記事
- 「産業革命」の起源(2)/ The origins of the ‘Industrial Revolution’(2)(2024.11.10)
- 徂徠における規範と自我 対談 尾藤正英×日野龍夫(1974年11月8日)/Norms and Ego in the Thought of Ogyu Sorai [荻生徂徠](2023.08.30)
- 暑き日を海にいれたり最上川(芭蕉、1689年)(2023.08.02)
- Giuseppe Arcimboldo vs. Utagawa Kuniyoshi(歌川国芳)(2023.05.24)
- 徳川日本のニュートニアン/ a Newtonian in Tokugawa Japan(2023.05.18)
「思想史(history of ideas)」カテゴリの記事
- 「資本主義」の歴史的起源/ The Historical Origins of “Capitalism”(2024.11.22)
- 「ナショナリズム」の起源/ The Origin of “Nationalism”(2024.11.21)
- 20世紀におけるドイツ「概念史」とアメリカ「観念史」の思想史的比較 / A historical comparison of the German “Begriffsgeschichte” and American “History of Ideas”of the 20th century(2024.11.19)
- 比較思想からみた「原罪」(peccatum originale/original sin)| Original Sin from the Perspective of Comparative Thought(2024.10.31)
- Michael Oakeshott's Review(1949), O.S.Wauchope, Deviation into Sense, 1948(2024.08.17)
「知識理論(theory of knowledge)」カテゴリの記事
- Words, apophatikē theologia, and “Evolution”(2024.08.26)
- 塩沢由典『複雑さの帰結』1997年、の「解題集」(2024.08.13)
- DLT( Distributed Ledger Technology ) and Kegon (華嚴 Huáyán)Thought(2024.07.19)
- Can humans communicate with objects?(2024.05.04)
- 愚かな勉強法と賢い勉強法/ Stupid, or Smart Study Methods(2024.04.22)
「科学哲学/科学史(philosophy of science)」カテゴリの記事
- 近代工業技術の人類史へのインパクト/Impact of Modern Industrial Technology on Human History(2024.07.26)
- DLT( Distributed Ledger Technology ) and Kegon (華嚴 Huáyán)Thought(2024.07.19)
- Can humans communicate with objects?(2024.05.04)
- 愚かな勉強法と賢い勉強法/ Stupid, or Smart Study Methods(2024.04.22)
- Kimura Bin, "Il sé come confine", 1997(2023.12.31)
コメント
T_NAKAさん、どうも。
なるほど。そうなっちゃうと、「1対1対応」っていうのは、言いすぎになっちゃいそうですね。ありがとうございます。
では、前言訂正。
「天動説も地動説も、描像としてみれば、それぞれ、ほぼ首尾一貫した説明原理となる。したがって、整合的な説明原理かどうか、という点から比較するならば、両者は等価である。」
極論すると、「全てが神の御心により動いている」で納得する人々が大部分なら、それでも構わないのではありますが。自然科学だって、未開の奥地で暮らしている先住民たちからすれば、一つの呪術体系として受け取られるかもしれません。
投稿: renqing | 2007年5月27日 (日) 16時09分
こんにちは。
2体問題であれば天動説も地動説も同じでないと、本当の意味での、相対性理論になりませんから、その主張は変ではありません。
しかし、
>1対1で対応するということは、数学的に等価だということだ。
というと、少し違和感があるのでしょうね。
例えば遊星の軌道は地動説では「楕円軌道」です。
天動説ではもう少し複雑な起動になりますが、これが本当の1対1対応か?というと、後者には軌道が重なる点があり、前者ではそれはありません。つまりトポロジー的に異なるもので、「1対1対応」は言いすぎのような気がします。
投稿: T_NAKA | 2007年5月27日 (日) 15時29分