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2007年6月

2007年6月30日 (土)

海ゆかば(2)

**************
 また、三田演説会で福沢が「今は競争世界なり、ゆえ理非にも何にも構うことはない」、「遠慮に及ばぬ、〔支那の土地を〕サッサと取って」しまえ、と公言したことを『演説集誌』第二号で知った吉岡弘毅は、次のように批判した(『六合雑誌』1882年8月30日)。

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蘇るレーニン(2)

(1)より続く。

****************
私は1915年に、両親とともにリガからペトログラードに移りました。そして一家は、1919年にペトログラードを出発したのです。ペトログラードでは、八歳で二つのロシア革命を目撃しました。第一革命のことは、非常にはっきりと覚えています。街頭には集会があり、旗があり、群集がいました。熱狂と、ルヴォフ新内閣の顔触れをのせたポスター、憲法制定議会選挙のために二十以上の政党が宣伝活動をやっていました。戦争については、私の家族が暮らしていた交際範囲の中では、あまり話題になりませんでした。ユダヤ人は、あの自由主義革命を大歓迎していました。自由主義的ブルジョアジーもそうでした。しかし、それは長くは続きません。ボルシェヴィキ革命は十一月に起こりました。われわれ - 私の一家とその友人たち - は、その革命が起こったことをほとんど知りませんでした。最初の徴候は、ボルシェヴィキの権力奪取に反対するゼネ・ストでした。

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2007年6月29日 (金)

蘇るレーニン(1)

 ちょっと痛快なCMがオンエアされている。↓

タウンワーク社員「創刊記念集会」篇

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2007年6月28日 (木)

河東碧梧桐、飛騨高山に現る

 明治41年(1909)、河東碧梧桐は飛騨高山を訪れる。そのとき、小学校卒業後句作に励む魚市場の若い店員と出会う。少年は15歳だった。以後少年は、河東碧梧桐を師と仰ぐことになる。

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2007年6月27日 (水)

河東碧梧桐、富山の高岡に現る

 明治俳壇の一齣を知るエピソードが下記のサイトにあった。なかなか面白い。

学芸ノート【第2回】 河東碧梧桐書簡

 俳句といえば、私の知るblogでは、かわうそ亭 さん、にまず指を折る。そこで碧梧桐の話題を探すと・・。ありましたね、さすが、かわうそ亭さん。

虚子の結婚、碧梧桐の結婚(承前)

 なにかホッとする明治半ばの挿話ではあります。

 さて、河東碧梧桐1873-1937(明治6-昭和12)は、本名、秉五郎 へいごろう。これをもじって、「へいごろう」→「へきごどう」としたもの、と記憶していた。

 しかし、文人であるからして、いわれは必ずある。国語辞典でみると、実は、「碧梧」も「梧桐」も、アオギリのこと。なるほど、ダブらせたのか。

 念のため、角川新字源に「梧」をあたってみた。すると、「梧桐一葉」を用法として、「①あおぎりの一葉が落ちたことで立秋を知る。②もののおとろえのきざし。」として、ひとつ出典を挙げている。

 〔群芳譜〕梧桐一葉落、天下尽知秋

 ほぉー、これなら知っとるわい、と探索にかかる。ところが、この「群芳譜」なんぞという文献がよくわからん。漢文の世界では常識なのかも知れないが、さっぱり心当たりがないし、ヒットもしない。『淮南子(えなんじ)』の「群芳譜」の巻にある、みたいな記述のサイトがあるのだが、それならと、『淮南子』の内容を見ると、そんな巻はどこにもない。『淮南子』の文として引いてあるものもあるが、そこでの文は上記とピッタリ合わない。それに、だいたい『淮南子』に出典があるなら、角川新字源に書いてないほうがおかしい。

 ネット上を探索すること、かれこれ2時間半。己に「アホかい!」と面罵したいほど疲れた。(=_= まあ、そのかいあって、一応確からしそうなことがわかったのは収穫。

 やはり、ここまで来ると、日本語のサイトには限界があり、中国語のサイトでようやくある程度事実を確認できた。

 明の王象晋の作で、『群芳譜』(1621年)。「梧桐一叶落,天下尽知秋」。“叶”は“葉”に同じ。明代の植物図鑑の体のもの。でこれは、五言絶句になっていて、実は後半がある。

梧桐一叶落
天下尽知秋
梧桐一叶生
天下新春再

 この後半もいいですねぇ。

 ついでに分かったことは、日本で「桐一葉」などと使われるのは誤用だということ。もともと、アオギリとしての梧桐は、青色がかった桐のように見えるが、植物としても元来別物。中国語の段階では周知のことで間違われようもないのだが、日本語の文脈に移ったとき、「梧桐」→「桐」となってしまったらしい。青い桐なら、桐でもいいだろう、ぐらいの感覚か。で、日本語では「桐一葉」で定着してしまった。明治になって更にこれをポピュラーにしたのが、坪内逍遥の新歌舞伎の名作、『桐一葉』(1893年)。

 したがって、日本語のサイトでは、ことごとく「桐一葉」という成語として紹介されている。秋の季語であることも、それに与って力があったろう。いつごろ成立した季語か、まではわからないが。

 下記は、アオギリの総合的紹介となっているので、ご参照まで。
あおぎり (青桐)

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2007年6月25日 (月)

物理法則に物理量は存在するか(3.1)/ Are there physical quantities in physical laws?

F.Nakajima 様、コメントありがとうございます。

 さて、コメント戴いた内容ですが、重要な論点がいくつかありますので、順を追って、当方の頭の整理も兼ねて、コメント欄ではなく、記事として書いてみます。

1)wikipedia の「科学的実在論」をご紹介戴きありがとうございます。とても分かりやすく、こちらの考えを整理するのに役立ちました。

 戸田山和久氏の整理による、"独立性テーゼ"(「わたしたち人間の認識活動とは独立して、世界の存在や秩序があるはずだ」という主張)、"知識テーゼ"(「世界に存在するものや、それを統べる秩序について、私達は正しく知ることができるはずだ」という主張)、に沿って述べれば、私は、両テーゼとも、“考察上の第一次接近”としては、Yes です。だとすると、私も戸田山氏の分類によれば、「科学的実在論者」になりますね。

 ただし、この問題は、また話しが込み入りますので、次回の(4)で書いてみます。いま、少々時間もないので。

2)ポアンカレは、「直観主義者」か?

 今回、F.Nakajimaさんのコメントで、興味深かったのは、この点です。

 私が、「哲学の自然化」でポアンカレを引いた際、私としては直観主義の問題をなんら含意していませんでした。私は、規約主義者 conventionalist として彼を取り上げたつもりでしたので、直観主義の文脈で彼に触れられたので正直、意外でした。

 で、改めて、wikipedia「数学的直観主義」を読むと、直観主義の先駆者としてポアンカレの名が挙がっています。手許の岩波哲学・思想事典(1998)「直観主義」(佐々木力氏筆)でも、ポアンカレの名が挙がっていました。一方、平凡社世界大百科事典(1998)「直観主義」(柘植利之氏筆)では、全く触れられていません。

 私が岩波文庫版(1985第32刷)で読んだ、ポアンカレ『科学と仮説』(1902)には、7箇所「直観」という言葉が出てきますが、そこから数学上の直観主義を想起したことは一度もありませんでした。

 上記二つに資料でのポアンカレの名と、私が読んだ印象では矛盾が発生する訳です。

3)数学上の「直観主義」の特徴

 丁寧に言えば、オランダの数学者ブラウワー、または、ブローエル(Luitzen Egbertus Jan Brouwer)が提唱し、弟子のハイティング Arend Heyting らによる公理化を経て直観主義論理として整備され、現在では直観主義数学ないし構成的数学、という数学の1分野として、学界で市民権を得ている考え方、です。

 私も素人なので深いことはわかりませんが、昔、竹内外史のものなどを読んで感銘を受けた、著しい特徴は、「排中律を認めない」という点です。

 つまり、ある命題Pがあり、「P or not P」、「Pは正しいか、間違っているのか、のどちらかである」、というのが排中律です。

 で、それを認めないとなると、「真か、偽か、いまのところ真偽を確認する手段がない」、という、真偽の中間の値がでてくることになります。この志向 or 思考が、J.S.Mill の言う、half-truth とそっくりなので、私は大喜びしたわけですが、ま、それはいいでしょう。

4)ポアンカレは排中律を拒否しているか?

 すくなくとも、私が読んだ岩波文庫版『科学と仮説』では、そんな恐ろしいことは述べていませんし、7箇所でてくる「直観」も、そういう含意はありません。この言葉は、むしろ、ベルグソンの影響から来ていると思われます。小林秀雄流ベルグソンでいえば「直覚」という言葉に相当しそうです。

5)各国語版 wikipedia を調べた結果が以下です。

Intuitionism(英語)→ポアンカレに言及なし。
Intuitionismus(独語)→ポアンカレに言及なし。
intuitionnisme(仏語)→この項目存在せず。

Henri Poincaré(英語)→ Intuitionism に言及なし。
Henri Poincaré(独語)→ Intuitionismus に言及なし。
Henri Poincaré(仏語)→ intuitionnisme に言及あり。

6)仏語版 wikipedia の、Henri Poincaré 、での記述

 ここでようやく、明確な記述に出くわしました。概略、以下のようなことが書いてありました。ただ、日本語の読解力にはかなり自信がありますが、語学力は相当お寒いのが実態なので、間違いをご指摘戴ければ助かります。

「数学基礎論 Les fondements des mathématiques」の項の記述
・ポアンカレは「直観主義」の先駆とみなされることがあるが、ブラウアーの提唱するような排中律の否定はしていない。
・ポアンカレの*「直観主義」は、カント由来のものである。
・ポアンカレの使う「直観」は、「イメージ」とか「モデル」といった意味である。

 この記述なら、私の読んだポアンカレの印象とよく一致します。

 この簡単なリサーチから帰結できることは、ポアンカレの使う「直観」という言葉は、「イメージ」「直覚」とも換言できるもので、数学基礎論としての「直観主義」は唱えていない、というのが妥当ではないか、ということです。

 私の推論だと、日本語版wikipedia「数学的直観主義」、岩波哲学・思想事典のそれぞれの記述は、同一の資料からの引き写しではないか、少なくともともに根拠の薄いもの、という感じ、というところです。

7)したがって、ヒルベルトが形式主義をもって、反駁したのは、ブラウワーの直観主義である。

 上述したように、ブラウワーの直観主義は、全ての数学の基礎というよりは、数学の1分野として定着した、とみるべきでしょう。この分野の世界で最初の教科書は、竹内外史により、『直観主義的集合論』として、1980年に紀伊国屋書店から出ています。

8)なぜ、職業的数学者は直観主義を嫌悪するか?

 F.Nakajimaさんのご指摘の通り、職業的数学者で直観主義を採用する人物は、その分野を専攻する人以外いなさそうです。まあ、そうだと思
います。第一、背理法が使えないので、ありとあらゆる存在証明がやりにくくて困るでしょう。仕事になりません。これでは飯の食い上げ、です。

9)ヒルベルトの形式主義でもって、ブラウワーの直観主義は命脈が絶たれたか?

 既述のように、独立した一分野として数学界に地歩を得ているようなので、それはないのでしょう。また、コンピュータ・プログラムの記述に直接関連はあると言う話はどこかできいたことがありますし、それからすれば、計算機科学や計算の理論、計算量の理論、などには関連が深そうです。

 また、「証明論においてヒルベルトのいう有限的・構成的手法とは実は直観主義者的手法といっても過言ではないことがわかってきた。」1998 平凡社世界大百科事典「直観主義 intuitionism」、柘植利之氏筆

 とあるように、ヒルベルトとブラウワーはどちらも、数学的リゴリズムの塊のような気質の学者みたいなので、その慎重さから、“有限的”、“構成的”という手法が似てくるもの当然、という気もします。

10)ポアンカレの数学者としての特徴

 ポアンカレは、この世の中に存在する理論的問題は、まずは数学的問題に置換して、さっさと解いてしまえ、というタイプの数学者のように感じます。彼が広大な分野(位相幾何学、数理物理学、理論物理学、天体力学、科学哲学、etc.)で、大活躍したのもそういう彼の性格からきているのだと思われます。

 サイバネティクスのウィーナーは、熱力学・統計力学・電磁気学・ベクトル解析・代数学、といった数理物理学で八面六臂の大活躍したギブズ(Josiah Willad Gibbs)を評して、あまり数学的厳密さには頓着しないが powerful だと、評していました。

 まさに、ポアンカレも、厳密さよりも困難な事を数学的に定式化して解いてしまうことに生きがいを感じた powerful な数学者タイプだったと言えるでしょう。だから、ヒルベルトのフォーマリズムには、理論的にというより、生理的に反発を感じていたと思われます。**

 ヒルベルトと反目していた、そして「直観」という言葉を頻繁に使っていた、という二つの側面から、ポアンカレは「直観主義者」だ、という言説、というか誤解が生まれたと思われます。

※追記

*「ポアンカレのいう」→「ポアンカレの」、に訂正。ポアンカレが「直観主義」そのものを唱えているわけではなく、仏語版wikipedia 執筆者がカントと結びつけるためにそういっているだけなので。

**それだけに、ヒルベルトの形式主義より一層、数学者の手足を縛る、ブラウワーの直観主義など、ポアンカレにとり論外だったはずです。

〔参照〕
intuitionism 雑考

〔参照〕
「哲学の自然化」?
「哲学の自然化」?(2)
物理法則に物理量は存在するか?(1)
物理法則に物理量は存在するか?(2.3)
物理法則に物理量は存在するか(4/結語)

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2007年6月22日 (金)

物理法則に物理量は存在するか?(2.3)

 一応、話の整理のために、記事を書いてみる。

T_NAKAさんから、物理法則に物理量は存在するか(1)、のコメントで、

>そういった物理現象の理解の仕方自体が「the Artificial」であるというのなら、それはそれで一つの見解ではありますが。。

という発言を戴いてる。

 まさにその通り、である。自然科学も、人間という生物種が有する対「世界」認識のためのフィルターであり、「the Artificial 人工物」であると、renqing は考えている。

 しかし、それは、なんでもあり、のあてずっぽうとは全く異なる。

 仕切り直しで、大上段な議論を少し述べておこう。

 これまで、人間を含む生物種は、その身体(=表現型)をさまざまに変形(=進化)させつつ、自然界に適応してきた。というか、今、結果をみると、自然環境への適応を成功させてきた生物種が生きながらえている、と推測される。

 なにか適者生存というと、最適なものが一つだけ残っているように考えるのだが、現存する生物種でも数百万種いることからして、地球という惑星に適応する種はいくらでもいることはまちがいない。

 また、さらに細かく見ると、ある局所的 local な環境に適応している種が単一ということはまずない。さまざまな生物種が一定の局所的な環境で、捕食-被捕食関係にあったり、共存関係にあったりして、生存を果たしている。そして、それらの種はたいてい、己の身体の各所をさまざまに進化させて、個々にきわめて合理的にその局所的環境で暮らしている。

 つまり、ある一定の局所的環境においての生存可能な戦略(追記:the optimum solution ではなく、feasible solutions)は常に複数あると考えられよう。その際、生物種は身体の各器官を変形させて適応する戦略をとるのだから、それは各生物種が己の対「世界」認識を、身体上の変化・進化で表明した、とも言えるのではないか。

 すると、ネアンデルター人と現代人の系統が分かれたのがおよそ60万年前だから、人間という種は、60万年まえに、基本的には身体を変形・進化させることは早々と停止し、その大脳から生み出される観念物(the Artificial 人工物)を変形・進化させ、環境に適応してきたとみなせる。

 自然科学も、この観念物(the Artificial 人工物)の一種である。したがって、例えば天動説から地動説へも「進化」するし、ニュートン力学からそれを補足する形で電磁気学や量子力学・特殊相対性理論、へと「進化」する。それらが観念物であるにも関わらず、あてずっぽうにならないのは、幾世代もの人間たちによってチェックされ、帰納的スクリーニングにかけられてきたからといえる。

追記1 人間の対「世界」認識の interface は、身体の外(脳の中?)にあり、他の生物の interface は、身体 body にピッタリ貼り付いているともいえよう。

追記2 なぜ、the optimum solution ではなく、feasible solutions かと言えば、生物の対「世界」認識能力は、限定的 bounded であり、それぞれ half-truth たらざるをえないから。

追記3 したがって、過去において既に葬り去られている理論、たとえば、フロギストン(燃素)説や、エーテル説が、全く新たな理論的、実験的根拠を背景として、改めて提唱されることだってありうる。自然科学の最先端理論も、the optimum solution ではなく、feasible solutions だからである。

〔参照〕
「哲学の自然化」?
「哲学の自然化」?(2)
物理法則に物理量は存在するか?(1)
物理法則に物理量は存在するか(3.1)
物理法則に物理量は存在するか(4/結語)

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2007年6月19日 (火)

物理法則に物理量は存在するか?(1)

 例えば、「質量保存の法則」。

 中学校の理科で習う。物質を燃やしても、なくなるわけではなく、その残った灰や煙、等をかき集めれば、燃やす前の質量を同じだ、という。では、その「質量保存の法則」そのものはいったいどこにあるのか。「質量保存の法則」の物理量保存の法則はあるのだろうか。

 物理量があれば(質量にしろ、エネルギーにしろ)、物理的に存在するといえ、物理量がなければ、物理的に存在する、とはいいにくいだろう。

 それにしても、物理的に存在しない代物で、物理学等の自然科学が記述されているというのもヘンな感じだ。

 renqingとしては、ここらへんは、「哲学の自然化」?でも引用した、ポアンカレの規約主義(conventionalism)という考え方で理解すればよいのではないかと、当面考えている。

 ま、こうは言えるかもしれない。数学の、「点」(位置はあるがひろがりはない)、「線」(長さはあるが、幅はない)にしても、それぞれに対応する物理量は存在しない。すると、物理法則が数学と同じような「規約」だとすれば、その物理的対応物は、人間の脳みその中の、細胞の発火、である、と。

 規約主義(conventionalism)については、「デュエム-クワイン・テーゼ Duhem-Quine thesis」とかのややこしい議論があり、一方、物理法則の“物理性”については、松野孝一郎『プロトバイオロジー』での物理法則の伝達速度の議論やら、渡辺慧の法則の情報量の議論も関連する。ただし、今は詳論せず、後日を期したい。備忘録代わりということでご容赦を乞う。

〔参照〕
「哲学の自然化」?
「哲学の自然化」?(2) 
物理法則に物理量は存在するか?(2.3)
物理法則に物理量は存在するか(3.1)
物理法則に物理量は存在するか(4/結語)

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2007年6月16日 (土)

心情倫理は、信条倫理?(2)

 ウェーバー社会学の日本語の訳は、当然なことにカント哲学の語彙の影響下にある。そして、カント哲学の翻訳語は、じつは、徳川後期から明治全般にかけての19世紀、隆盛を見た日本陽明学の影響下で語彙形成されたものである。

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2007年6月13日 (水)

マッコウクジラは、なぜ集団で子育てをするか(ver.1.1、下線部)

 下記の本に、概略以下のようなことが書いてあった。

大隅 清治クジラは昔 陸を歩いていた―史上最大の動物の神秘 (PHP文庫)(1997年)

 マッコウクジラの母親は、群れをなして育児をする。その理由とは、

1)個体で子を育てるよりは、集団でいたほうが外敵(シャチなど)から、子を守りやすい。

2)マッコウクジラは、深海に生息するダイオウイカなどを食べる。しかし、子クジラにはまだその潜水能力がない。子を守るために深海に潜らなければ、母クジラが飢え死にする。かといって、子を放置して深海へ潜っているうちに、外敵に子クジラがやられてしまう。ということで、母子クジラのみが集団で生活するようになった。

 さて、2)は、フムフムなるほど、と言う感じ。進化戦略上、合理的だなぁ、と理解できる。で、1)だが、確かに実感的には、全く同感なのだが、はたして本当にそうなのか、というところが腑に落ちない。例えばこうである。

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2007年6月10日 (日)

政治家にみる「心情」倫理と責任倫理-アベ内閣の場合-

 年金記録紛失問題が、紛糾、混迷の度を深めている。

 アベ内閣総理大臣は、来年5月までに5000万件の全件照合を完了させる予定という。しかし、この問題、当初から、年金問題に詳しい人々が、この期日までには「まず無理」と発言していた。その一方で、閣僚たちは、内閣総理大臣がやる、というのだから、やります、と言う。

 アベちんの「心情」はわからんでもない。今年は参議院議員選挙もあるし。なんとか、ポイントをあげたいのだろう。でも、確たる成算や根拠があるわけでもなさそうなのに、「やるといったら、やります。」では、信条以前の心情のレベル、単なる妄想=「こうなったらいいなぁ。」にすぎない、といわれても止むを得まい。

 アベちんの「やるといったら、ぜぇぇったいにやるぅ。」という発言のため、彼の下僚たちは、どんどん追い詰められている。社会保険事務所は、日曜も年金相談に対応するし、平日も午後7時までやるんだって。しかし、公務員は、民間企業と違い involuntary な残業、つまりサービス残業を、ノンキャリアの公務員にそうそう強制はできない。ということは、単純に考えても、これから相当の残業手当、休日出勤手当の支給も重なろうというものだ。

 たぶん、内部では、費用がいくらかかってもやれ、という状況なんだろう。でも、そのカネはいったいどこから捻出するつもりだったのだろうか。こういう後先のことを考えないできたから、現状のような莫大な財政赤字になったはず。

 アベちんには、政治家としての責任倫理と責任能力の双方が、同時に欠落しているのではないか、という疑念が日に日に強まってくる、今日この頃、である。

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心情倫理は、信条倫理?(1)

 以前から気になっていることがある。これは、先年物故した森嶋通夫が主張していたことでもある(他に同様の論者がいたかどうかは不明)。

 「心情倫理(的)」と訳されている Gesinnungsethik , gesinnungsethisch は、「信条倫理(的)」と訳されるべきではないか、ということである。

 独英辞典などで、この語 Gesinnung の対応物をみると、

attitude, opinion, disposition 、

とか、

Fundamental attitude

とある。

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2007年6月 8日 (金)

Internet Explorer をお使いの方へ

 私は、表を投稿する際、excel で作成し、それをword に落として、このブログに書き込んでいます。

 使用しているブラウザーは、Firefox です。画面上の調整も、Firefox を通じて見ながら、しています。

 で、最近の2回の表は、Firefoxではうまく表示されているのですが、Internet Explorer ではうまくいっていないようです。表題から、いきなり長く隙間が開いてしまっています。

 見苦しいと思いますが、ご容赦のほど、お願いいたします。次回以降、なにか工夫できないか考えます。よい対策法をご存知の方は、コメント欄にでも、お知恵を拝借させていただけるとうれしいです。

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賞典禄、あるいは「革命家」のボーナス(2)

 下表は引用の秦氏の表を少し組み替えたもの。意外なことに、この組み換え後の表から、ある種の規則性が伺われる。左上から右下へ、斜めの序列があり そうだ。ま、褒賞なので、不平が出ないように、何らかのルールがないと当然まずいのかもしれないが。この件、要検討とする。

出典 『明治史要』付表、東京大学出版会(1966年)
ただし、秦 郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社選書(2006年)、p.104より孫引き

〔参照〕
賞典禄、あるいは「革命家」のボーナス(1)

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「鼻くそ」は、なぜ「鼻うんこ」とは言わないのか

 今、手許にある、『広辞苑』第二版、第五刷、昭和46年(1971)では、

1) くそ → 糞・屎 (名詞)動物が消化器で消化した食物の残滓が、肛門から排泄されるもの。大便。ふん。
2) うんこ →  (幼児語。ウンはいきむ声、コは接尾語)大便。うんち。
とある。

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2007年6月 4日 (月)

国民生活基礎調査(表を修正6/5)

 厚生労働省から、「平成18年 国民生活基礎調査の概況」が2007年5月30日に発表されている。詳細は最下部のリンクをたどられたい。

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2007年6月 3日 (日)

Good-bye America…you are not the country that I love.さようなら、アメリカ。あなたは私の愛する国ではありません。(参照追記)

 2005年8月から、ブッシュ米大統領のテキサス州クロフォードの自宅農場前に座り込みし、米軍のイラク撤退を掲げ、抗議運動を続けてきたシンディ・シーハンさんが活動からの引退を表明した。↓参照。

<反戦の母>シーハンさん引退宣言 米国の政治状況批判
5月30日11時26分配信 毎日新聞

 市井の誠実な、しかし非凡な勇気を持つ、一人の女性の、触れれば血が吹き出るような言葉を読んで戴きたい。

 原文 "Good Riddance Attention Whore" By CindySheehan
  (再掲されたものだが、ソースになったサイトより読みやすいので)

 翻訳 さようなら、アメリカ。 シンディ・シーハーン「引退」メッセージ全文
(どすのメッキー氏による訳。訳者が題を変えてある。あまりの言葉のため。ただ、これは彼女が最後に投げつけた毒なのであるから、彼女の気持を忖度するならあえて訳出すべきだったろう。訳中の言葉を使えば「厄介払い 目立つ売春婦」。)

 ひとつとても重要で、かつ印象的な文を引いておこう。今の米国で、国論が極めて変更しにくいのは、この党派性のためだと改めて感じた。日本の政治状況も同じ。同様の構図にはまり込んでいるということなのだろう。

 I guess no one paid attention to me when I said that the issue of peace and people dying for no reason is not a matter of "right or left", but "right and wrong.

「平和と人間の理不尽な死に関する問題は、『右か左か』ではなく、『善か悪か』の問題です」と私は言いましたが、誰も耳を傾けてくれなかったと思います。

*下記の、宮沢賢治の言葉は、戦闘というものが、結局、殺人そのものなのだ、ということを示してあまりある。参照されたし。

「憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように」

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2007年6月 1日 (金)

「維新神話」とマルクス主義史学(4/結語)

 唯物史観は経済決定論である、という見方に対して、晩年のエンゲルスは、1890年にこう述べているという。

「唯物史観によれば、歴史において最終的に規定的な要因は現実生活の生産と再生産である。それ以上のことをマルクスも私も今までに主張したことはない。もし誰かがこれを歪曲して経済的要因が唯一の規定的なものであるとするならば、先の命題を中身のない、抽象的な馬鹿げた空文句に変えることになる。しかし上部構造のさまざまな諸要因・・・が、歴史的な諸闘争の経過に作用を及ぼし、多くの場合に著しくその形態を規定するのである。」(城塚登「唯物史観」、岩波哲学・思想事典1998

 このエンゲルスの言を検討してみよう。

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