海ゆかば(2)
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また、三田演説会で福沢が「今は競争世界なり、ゆえ理非にも何にも構うことはない」、「遠慮に及ばぬ、〔支那の土地を〕サッサと取って」しまえ、と公言したことを『演説集誌』第二号で知った吉岡弘毅は、次のように批判した(『六合雑誌』1882年8月30日)。
これ堂々たる我日本帝国をして強盗国に変ぜしめんと謀る者なり。是(かく)の如き不義不正なる外交政略は、決して我帝国の実利を増加する者にあらず。ただに実利を増加せざるのみならず、いたずらに怨を四隣に結び、憎を万国に受け、不可救(すくうべからざる)の災禍を招来に遺さんこと必せり。
吉岡弘毅は東京基督教青年会(YMCO)創設にもかかわったクリスチャンで、幕末・維新期は過激な尊皇攘夷派だった。70年から72年にかけて外務省高官として釜山の草梁館で朝鮮政府と開国交渉に当たった。帰国後、官吏をやめてキリスト者となり、「征韓」論がさかんだった74年の建白書(『明治建白書集成』三)では、朝鮮が日本との国交を拒絶したのは、豊臣秀吉が朝鮮を蹂躙し「流血満地、横暴至らざることなし」という歴史の記憶がいまなお朝鮮人に鮮烈だからであり、日本を侮蔑しているのではなく「疑懼(ぎく)」しているからだ、と力説した。そうした体験と歴史認識ゆえに、吉岡は福沢の「掠奪主義」が将来の日本とアジアに「不可救の災禍」をもたらすことを予測できたのである(なお、「海ゆかば」の作曲で著名な信時潔は吉岡の三男)。
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pp.121-122
牧原憲夫『民権と憲法』シリーズ日本近現代史(2)、岩波新書(2006年)
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コメント
足踏堂さん、どーも。
福沢のキャリアをみると、下級武士に生まれたが、生来賢い子で、学問に自らの将来を賭けて、蘭学(オランダ語)→英学(英語)、に切り替え、官途にはつかず、在野の人士として、いろいろな事業を起こし、輝かしいその生涯を閉じました。
立身出世の典型です。彼が晩年に書いた、『福翁百話』序言に、
「開国四十年来、我文明は大に進歩したれども、文明の本意は単に有形の物に止まらず、国民全体の知徳もまたこれに伴うて無形の間に進歩し変化して、以て始めて立国の根本を堅固にするを得べし。」
(中略)
「読者若し此漫筆を見て余が微意の在る所を知り、無形の知徳以て居家処世の道を滑にし、一身一家の独立能く一国の基礎たるを得るに至らば望外の幸甚のみ。明治二十九年二月十五日。福沢諭吉記。」
とあります。彼の終生のテーマは立国で、そのための必要条件として、一身一家独立があり、さらにその必要条件として、知徳をすすめる学問があった、という構造のようです。
意外に、修身斉家治国平天下、という士大夫の目標そのまま、ですね。ただ、最後の「平天下」に相当する部分が、福沢の言説のいかなる部分を占めていたのかが、ちょっと見当つきません。
投稿: renqing | 2007年7月 1日 (日) 13時50分
吉岡のような人がいたという事実は重要ですね。ところで、福沢の発言も興味深いですね。
「今は競争世界なり、ゆえ理非にも何にも構うことはない」
この発想は、あらゆる時代において生じ得るもののように思います。いつであっても「皆が競争世界と思えば本当に競争世界になる」という歴史的真理なようなものを感じさせます。この「無法のススメ」が「学問のすすめ」を書いた人間から出ているのは興味深いことです。彼にとっての「学問」とはいったい何だったのか。なかなか面白いテーマである気がします。
投稿: 足踏堂 | 2007年7月 1日 (日) 03時13分