心情倫理は、信条倫理?(1)
以前から気になっていることがある。これは、先年物故した森嶋通夫が主張していたことでもある(他に同様の論者がいたかどうかは不明)。
「心情倫理(的)」と訳されている Gesinnungsethik , gesinnungsethisch は、「信条倫理(的)」と訳されるべきではないか、ということである。
独英辞典などで、この語 Gesinnung の対応物をみると、
attitude, opinion, disposition 、
とか、
Fundamental attitude
とある。
しかし、日本語で「心情」というと、
心の中にある思いや感情。「被災者の―を察する」「―的には賛成だ」 『大辞泉』より
となっている。で、「心情」からドイツ語に逆引きしてみると、
Gemüt ; Gefühl ; Herz
や、「心情を察する」では、
jmds. Gefühle verstehen; jmdm. etw. nachfühlen; sich in jmds. Lage versetzen.
といった訳が与えられていたりする。
念のため、「心情」から、英語に逆引きしてみると、
one's feelings
・ 彼の心情を察して言葉もなかった
I felt so sorry for him [for him so deeply] that I could say nothing.
といった具合だ。
以上、一通り、準備運動は出来た。そこで、ドイツ語原文で、 Weber が最初にこの議論を導入した部分を引いてみる。
1) es kann “gesinnungsethisch”oder “veranwortungsethisch” orientiert sein.
Gesammelte Politische Schriften
p.441 439/449
Politik als Beruf (1919)
※このドイツ語版「政治論集」は、PDFファイルで提供されており、自由にdownload可能(す、すごすぎる)。
では、.この部分の英訳の(代表的)一例を掲げる。
2) conduct can be oriented to an 'ethic of ultimate ends' or to an 'ethic of responsibility.'
Politics as a Vocation
Max Weber
(Politics
as Vocation: From Max Weber: Essay in Sociology. Translated by Hans H.Gerth and C. Wright Mills. New York: Oxford Univ. Press. 1946.)
日本語で「心情倫理(的)」と訳されている部分は、「 ethic of ultimate ends 」と英訳されていることがわかる。これをさらに、日本語に重訳すれば、「究極的な目的の倫理」か。
「心情倫理」で、わからないでもないが、日本語として受容する側からすると、原意からかなりズレていそうな気がする。というか、危険を感じる。
結果がどうであれ、己が信じたことを実行することに価値がある、という倫理に方向付けられた態度・生き方、というのが Weber の使用文脈だろう。それからすると、日本語文脈に埋め込まれた「心情(的)」では、信念に裏付けられた行為、というよりは、感情的な一時の気の迷い、のように受け取られないだろうか。
「信条(的)」のほうが、誤解を生む危険性をより減らせると思う。
ちなみに、米国版の「反・九段の母」シンディ・シーハンの行動は、「心情的」か「信条的」か。下記を読むと、始まりは「心情的」なものだったろうが、徐々に「信条的」なものへ成長していったのだと思われる。
※シーハンさんが引退表明後受けたインタビューの中で、「九段の母」として初めて、ブッシュと会ったときのことを回想した部分(これは、renqing が参加しているMLで教えてもらったものです)。
Cindy Sheehan Steps Down as the Face of the Antiwar Movement
By Amy Goodman, Democracy Now!. Posted May 30, 2007.
上記の2頁目↓の下部。
http://www.alternet.org/waroniraq/52654/?page=2
そして彼女の「信条倫理」は、以下のような「責任倫理」としてまた生まれ変わっている。
シンディ・シーハン「私達はもっと強くなって戻ってきます」(sometimes a little hope )
[参照]2009.03.03追記 心情倫理は、信条倫理?(2)
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コメント
お名前がないので、ご挨拶しにくいですが、コメントありがとうございます。
「当該の訳(「心情倫理」)を批判された訳者ご本人に、この点を確認云々」
とは、脇圭平さんのことでしょうか?
「心情倫理は、信条倫理?(2)」の記事にコメントを戴いている、パロールさんからは、
「清水幾太郎さんの訳では、信念倫理的/責任倫理的になっています。・・・。『世界思想教養全集18 ウェーバーの思想』(河出書房、1962)所収 (p217)」
とのご指摘を戴いています。とすると、東大社会学系でも、清水幾太郎は、少し毛色が変わっているのか。
それよりは、中村貞二(一橋経済)、森嶋通夫(京都経済)、清水幾太郎(経済学に造詣の深い、東大社会学)といった人たちが、「信条(信念)倫理」とするところをみると、経済学を中心に英米系の文献に通じている人が、「心情」をとらない、といえるのかも知れません。
または、私の記事(2)でも触れましたように、明治のカント哲学の移植が、どうも、当時隆盛をみた陽明学の影響下になされた可能性が高いので、陽明学のいかにも Gesinnungsethik 的なところは雰囲気的にぴったりだし、陽明学の別名、心学からくる「心」理解的文脈で、「心情的」と使われるに至った可能性もあります。
いろいろ興味深い、ご指摘ありがとうございました。また、コメントなどいただけましたら、嬉しいです。
投稿: renqing | 2009年3月 4日 (水) 01時26分
初めまして。
橋本努氏のhpからやってきました。
まだ、かいつまんで読ませてもらっただけですけれど、興味深く拝読しました。
以下のコメントは的外れかもしれないことを、あらかじめ、お断りしておきます。
”Gesinnungsethik” は日本のウェバー研究においては「心情倫理」と訳されることが多いようですが、たしか中村貞二氏は早くから「信念倫理」と訳しておられるはずです(手許の資料を繰りましたが、確認できませんでした)。
してみると、東京大学における、社会学、政治学、経済学のなかでは、これを「心情倫理」と訳す「伝統」があったように思われます。「伝統」と書きましたのは、森嶋氏による批判の以前に、当該の訳(「心情倫理」)を批判された訳者ご本人に、この点を確認した際、「そう訳す一派もいるね」とほとんど何の問題意識も持たずに即答されたことを思い出すからです。
これらの異なる学部で、なぜ同じ訳語が定着したのかは、これも興味深い問題です。
中村貞二氏は一橋の経済学部のご出身であるので、そこではまた違った伝統があったのでは、と愚考する次第です。
以上、とりとめもない指摘、思い出すこともありましたので、何かの参考にでもなればと思って、お送りする次第です。
これからも、ちょくちょく寄らせてもらおうと思います。
投稿: | 2009年3月 3日 (火) 02時09分