« 心情倫理は、信条倫理?(2) | トップページ | 物理法則に物理量は存在するか?(2.3) »

2007年6月19日 (火)

物理法則に物理量は存在するか?(1)

 例えば、「質量保存の法則」。

 中学校の理科で習う。物質を燃やしても、なくなるわけではなく、その残った灰や煙、等をかき集めれば、燃やす前の質量を同じだ、という。では、その「質量保存の法則」そのものはいったいどこにあるのか。「質量保存の法則」の物理量保存の法則はあるのだろうか。

 物理量があれば(質量にしろ、エネルギーにしろ)、物理的に存在するといえ、物理量がなければ、物理的に存在する、とはいいにくいだろう。

 それにしても、物理的に存在しない代物で、物理学等の自然科学が記述されているというのもヘンな感じだ。

 renqingとしては、ここらへんは、「哲学の自然化」?でも引用した、ポアンカレの規約主義(conventionalism)という考え方で理解すればよいのではないかと、当面考えている。

 ま、こうは言えるかもしれない。数学の、「点」(位置はあるがひろがりはない)、「線」(長さはあるが、幅はない)にしても、それぞれに対応する物理量は存在しない。すると、物理法則が数学と同じような「規約」だとすれば、その物理的対応物は、人間の脳みその中の、細胞の発火、である、と。

 規約主義(conventionalism)については、「デュエム-クワイン・テーゼ Duhem-Quine thesis」とかのややこしい議論があり、一方、物理法則の“物理性”については、松野孝一郎『プロトバイオロジー』での物理法則の伝達速度の議論やら、渡辺慧の法則の情報量の議論も関連する。ただし、今は詳論せず、後日を期したい。備忘録代わりということでご容赦を乞う。

〔参照〕
「哲学の自然化」?
「哲学の自然化」?(2) 
物理法則に物理量は存在するか?(2.3)
物理法則に物理量は存在するか(3.1)
物理法則に物理量は存在するか(4/結語)

|

« 心情倫理は、信条倫理?(2) | トップページ | 物理法則に物理量は存在するか?(2.3) »

知識理論(theory of knowledge)」カテゴリの記事

科学哲学/科学史(philosophy of science)」カテゴリの記事

Poincare, Jules-Henri」カテゴリの記事

Watanabe, Satoshi (渡辺慧)」カテゴリの記事

コメント

うーむ、、、普通の意味での「the Artificial」について述べたつもりはないんです。
「重力、電磁力、強い力、弱い力」の四つの力の内、我々の周りで目立つのは、「重力」「電磁力」であり、殆どの現象は「電磁力」に関係しているということを言ったまでです。
カブト虫君本人は知らなくても、カブト虫君の体の仕組みも、「電磁力」に多いに関係しております。
そういった物理現象の理解の仕方自体が「the Artificial」であるというのなら、それはそれで一つの見解ではありますが。。

投稿: T_NAKA | 2007年6月21日 (木) 23時44分

T_NAKAさん、どーも。

>多分、問題にされている次元が異なるため、議論がチグハグになっているようですが、別に記事内容に反論している訳ではありませんので、悪しからず。

いえいえ、おそらくこういう齟齬が発生するだろうな、と思って書いていますから大丈夫。(^^v

日々、工学の現場でモノと格闘されているT_NAKAさんの、普段もたれているリアリティからすれば、ズレていると思います。

しかし、T_NAKAさんが日常業務で「格物」(朱子学用語)されている対象は、自然物というより、人工物です。H.サイモンがいうところの、

Herbert Simon, The Sciences of the Artificial, 1969(3rd ed.1996).
(H.A.サイモン、システムの科学、1999)

「the Artificial」です。

しかし、この「the Artificial」は、他の生物の立場からすれば、人間の持つ外界認識の一環なのですね、たぶん。つまり、人間の自然「理解」の一つなのです。

なぜなら、ある非常に画期的な電気回路を設計したり、プログラムを開発したりして、これまでとは全くことなる操作性、機能性を持つ携帯電話ができたとしても、それは、カブト虫君には何の意味もないからです。彼が生きるには携帯電話は必要ありません。

人間や霊長類を除いて、各生物の対世界認識は、その身体上の機能によって(遺伝上の表現型)表明されています。「おれは、世界はこうなっていると思う。だから、身体をこう適応させてみた」というわけです(この表現にインチキが含まれていますが、今は気にせず)。世界に適応するために、その身体を分節化して生きています。他方、それにたいして、人間等は、その世界そのものを分節化するアプローチで進化を遂げていると言えます。

なんか、ながくなったので、別記事にしてみます。

投稿: renqing | 2007年6月21日 (木) 13時46分

こんにちは。

wikiからの引用:
「人間原理とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。"宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから"という論理を用いる。」

これを拡大解釈して用いれば、「物理法則」は人間の存在抜きに考えられなくなります。
ダーウィン進化論に対抗する創造論やID理論もこれで説明できてしまいます。
つまり、「創造神や生命設計者はいらない」という意味で神も説明できると言いました。
私自身はこれらの存在には興味はありませんが。。

法則が観念的であるか、現象論的であるかですが、
電圧と電流の測定手段があれば、それが比例するという現象はすぐに把握できます。
つまりオームの法則は現象を素直に表現したものです。
一方、万有引力の法則ですが、歴史的に天体観測データの分析から導出されたと思います。
星と星の間の力がきれいな逆2乗で表されたとして、これが我々の身近な物質間にも同じ力が働いていると何故気づいたのか?これが不思議でなりません。

さて「相対性理論」など理解出来なくても、生きていくのに何の支障もありません。
しかし、我々がハンドリングしている物理現象の多くは電磁気によるものです。
この電磁気現象は特殊相対論の助けなしに本質的理解は不可能でしょう。
現象を使うということと、理解するということはこれほど離れているものと感じました。

多分、問題にされている次元が異なるため、議論がチグハグになっているようですが、別に記事内容に反論している訳ではありませんので、悪しからず。

投稿: T_NAKA | 2007年6月20日 (水) 11時51分

T_NAKAさん、どーも。

>「人間原理」というのは強力で、神さえも説明できそうな気がします。

はあ。「神」と「悪魔」は、人間の必要から作り出された、と考えることも可能だと思います。

>ところで、物理法則にはオームの法則のように現象論的なものと、エネルギー保存則のような観念的なものがあります。
この場合の物理法則とは後者のことなんでしょうね。

一応、限定していないつもりです。

例えば、カブト虫は、一つの木の幹から他の木の幹へ移動するとき、普段しまってある背中の羽を忽然と開き、飛翔し、飛び移ります。彼(?)は、質量、重力、加速度、空気抵抗、はたまた航空力学、を全く知りませんが、驚くべきメカニズムで合理的に飛行し、目的を達成します。われわれは、それを理解するのに航空力学を援用しますが。

動物の体内の神経系を走っている信号も、微弱電流ですから、なにほどかオームの法則にしたがっているでしょうが、彼らは(生物体としてのわれわれも)、特にオームの法則を知らなくとも、うまくやっています。

すると、「オームの法則」というものも、それが発見されるまでは、人間は誰もその存在を知らなかったのだから、idea であり、実在というより、人間がその必要に応じて、名づけた、conventional なものなのではないでしょうか。

投稿: renqing | 2007年6月20日 (水) 03時48分

>物理法則は、「この世」のどこにその居場所を占めているのか。これが私の素朴な疑問です。

そういうことですか。それで「人間の脳みその中の、細胞の発火」という意味が判りました。
しかし、これだと「人間原理」で説明できてしまうかも知れません。
「人間原理」というのは強力で、神さえも説明できそうな気がします。

ところで、物理法則にはオームの法則のように現象論的なものと、エネルギー保存則のような観念的なものがあります。
この場合の物理法則とは後者のことなんでしょうね。

投稿: T_NAKA | 2007年6月20日 (水) 00時16分

T_NAKAさん、コメントありがとうございます。

 取り上げる、物理法則は実はなんでもよいのです。「万有引力の法則」でも、無論、「エネルギー保存則」を始めとする保存則でも。

 例えば、Newton が「万有引力の法則」を発見した、というとき、いったい彼は何を「見た」んでしょうか。マテリアルなものを見たのか。

 renqingは、思考の第一次接近としては、素朴実在論 naive realism をとります。あるものはあり、ないものはない。

 宇宙(この世?)とは物質および空間でワンセットで構成されている。それですべてです。この世にあるものはあり、ないものはない。すると、物理法則は、「この世」のどこにその居場所を占めているのか。これが私の素朴な疑問です。

投稿: renqing | 2007年6月19日 (火) 13時27分

ご存知と思いますが「質量保存の法則」自体は近似法則で、燃やした後には測定に掛からない微弱な質量が減少しています。正しくは「エネルギー保存の法則」でなければなりません。
さて、「物理量保存の法則」というのが何を意味しているのか?文脈からはよく読み取れませんが、物理学で「左辺=右辺」という式があった場合は、左辺の次元(単位)と右辺の次元は正確に一致しているはずであると思っております。

「質量保存の法則」を例にとると、ここでは「質量」という物理量のことのみを指していて、形態の変化(ex.固体→気体)などは問題にしていないのだから、「『質量』という物理量」は近似で保存していると言えると思いますが。。(つまり、個別の保存則で物理量保存を説明していると理解)

投稿: T_NAKA | 2007年6月19日 (火) 13時03分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 物理法則に物理量は存在するか?(1):

« 心情倫理は、信条倫理?(2) | トップページ | 物理法則に物理量は存在するか?(2.3) »