« 日本 Max Weber 業界の「犯罪」? | トップページ | インフルエンザと Max Weber »

2008年1月 3日 (木)

マックス・ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫(1980年)(リンク追加)

 羽入氏の Weber に関する病跡学的(pathographic)な著書について3回()ばかり記事を書いた。

 Weber の精神疾患の発症については、これまで「父殺し」の側面から触れられる事ばかりで、今ひとつ私自身として釈然としなかった。その中で、 Emmy Baumgarten 恋愛問題との関連を一つの契機として示唆していたのは、故安藤英治氏だけだったように思う。

 今回、そこに Weber の母、Helene Fallenstein Weber との関連を指摘したのは、羽入氏の卓見だろう。私としても「そういう隠し玉があったのかぁ」とかなり合点がいった。

 しかし、一つ疑問が残る。それは、羽入氏の『職業としての学問』についての見方である。羽入氏はその著書の終章でこう述べている。

「大学教授という職業が母親のものになってしまったからこそ、ヴェーバーは途中で放り投げるしかなかったのである。」羽入氏『哀しみ』(2007)、p.188

 Heidelberg大学教授というprestigeの極めて高いelite職を放棄したのは間違いない。それ以前 Weberは(羽入氏の解釈によれば)嫌々ながら、たったの29歳で Berlin大学商法学教授職を提供されてもいた。第二次大戦前のドイツの大学教授職の威信の高さは、2008年に生きる我々日本人には想像もつかないほどのものだったはず。これはドイツ系大学から米国へ亡命したいろいろな学者、例えば Hans Kelsenなどの回顧などを読んでみるとその違和感の消息が若干分かる。いわば、Max Weber は、19世紀末のドイツ大学文化の中で、the best and
brightest な存在と見なされていた訳だ。

 さて、羽入氏はこうも書いている。

「ヴェーバーだけが、学問することの楽しさを見出すことが出来なかっただけなのである。」同書、p.193

 ここが引っかかる。Weber が学問を楽しんでいたか否か。enjoy していたとは言えないかもしれない。それよりも問題は、Max Weber が大学教授職を放擲していたという事実が、彼が学問そのものから降りていた、ということを意味するのかどうか、という点である。これは明らかに否、だ。Weber は事実上大学教授職でもないのに、病気の合間を縫って何の見返りもなしに voluntary で、せっせと 'Archiv' に膨大な論文を寄稿し続けていたのだから。とすると、Weber が心身的に不可抗力として耐えられなかったのは、学問そのものではなく、大学教授職として講壇に立つことだったと考えたほうが合理的である。

 しかし、そうだとすると、別の疑問が発生する。Weber 自身の判断では、彼は父 Max Weberが生息していた政治的、権力闘争的世界が性に合っていた。desk workより他者と生の関係を仕事としたかったようだ。ならば、机にかじりついて古文書の一片を解読することより、学生との communicateを職分とする教師としての大学教授職のほうが、よほど彼にとって精神衛生上マシだったのではないか、という点である。

 それを探るため、岩波文庫版の『職業としての学問』を久しぶりに通読してみる気になった。でサクッと一読。意外に簡単。以前なかなか読了できなかったのは、単に内容が面白くなかったからのようだ。今回は目的があるので読めたらしい。その『職業としての学問』で、上の疑問に対する解決の糸口になりそうな箇所を見つけた。

「満堂の学生諸君! 諸君はこのようにわれわれに指導者としての性質をもとめて講義に出席される。だが、そのさい諸君は、百人の教師のなかのすくなくとも九十九人は人生におけるフットボールの先生ではないということ、いな、およそいかなる人生問題についても、「指導者」であることを許されていないということ、を忘れておられる。考えてもみられよ、人間の価値はなにも指導者としての性質をもつかどうかできまるわけではない。また、それはともかくとしても、ある人を偉い学者や大学教授たらしめる性質は、かれを実際生活上の、なかんずく政治上の指導者たらしめる性質とは違うのである。それに、この指導者としての性質をもつかもたないかはまったく偶然によることなのであって、もし教壇に立つ人のすべてが学生たちの無理な期待にこたえて指導者としての性質をはたらかそうなどと考えたならば、それはきわめて憂慮すべきことなのである。だが、それ以上に憂慮すべきは、教室で指導者ぶることが一般に大学教授に放任されている場合である。なぜなら、自分自身を指導者だと思っている人ほど実際にはそうでないのが普通であり、また教壇に立つ身としては、自分が実際に指導者であるかどうかを証明すべきいかなる手段も与えられていないからである。」尾高訳、岩波文庫版、pp.59-60

 さて、このセリフは、彼の自己規定としての「天職としての政治家(=指導者)」と真っ向から矛盾することではないか。つまり、彼Weberは満堂の学生諸君に言いたくて仕方がないのだ、指導者として。「存在」ではなく「当為」を。にもかかわらず彼の職業倫理としての理性は命令する。「講壇においては存在を、事実のみを語れ。」と。

 己の抜きん出た知力と指導者としての能力を自覚し、恃んでもいる男が、多数の若者を前にして、自分に指導者として振舞うことを禁止せざるを得ないのである。そりゃあ苦しいし、stressが溜まってやってられないだろう。だから、大学教授という職を「降りた」。逆に、彼の早い晩年には、彼自身が禁じている講壇指導者をやってしまい、右翼学生からの授業妨害や下宿先での騒音による嫌がらせを受けているのは笑える。1919年10月に母 Heleneが死去したことで完全に禁忌がなくなったからだろうか。

 上記引用のすぐ後にこうもある。

「もしまたかれが世界観や党派的意見の争いに関与することを自分の天職と考えているならば、かれは教室の外へ出て、実生活の市場においてそうするがいい。つまり、新聞紙の上とか、集会の席とか、または自分が属する団体のなかとか、どこででも自分の好きなところでそうするがいい。」尾高訳、岩波文庫版、p.60

 Weber が最も精彩を放って「生きて」いたのが、まさにこの方面であることは、羽入氏の指摘通りだ。すると残る疑問は、なにゆえ羽入氏がこの『職業としての学問』なる、Weber の他の著作に較べれば大したこともない小著に腹を立てるのか、である。それと思(おぼ)しき箇所もあった。

「とにかく、自己を滅して専心すべき仕事を、逆になにか自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間であるかを「体験」で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。」尾高訳、岩波文庫版、p.28

 大なり小なり学者も情念を持った人間なので、功名心や売名への誘惑に掴まれてしまうのは十分ありうることだ。上記の Weber の言葉は、ケレン味たっぷりの羽入氏を刺激するには十分な力があるように思える。

 実は、この記事は、「Max Weber の経済生活」として彼の生涯において不可解な収入の問題を書いておこうと思っていたものだ。ただ、父Max Weber 死後、その遺産が誰に引き継がれたのかが分からないので、pendingとする。当時のドイツ相続法のことが全く分からないのだが、おそらく、母 Helene が引継いでいるのだろう。もともと、父 Max Weber家の家政が決定的に豊かになったのは、Helene Fallenstein が Weber 家に嫁いだあと、実家からの彼女の相続財産が Weber家に転がり込み、それを父 Max が管理していたことによる。そういう不満も Helene になかったとは言えまい。

 そして、 Weberが大学教授職を辞した後、名誉教授としての細々とした年金の他に、母 Heleneから仕送りしてもらっていたことは間違いないと思う。大学教授職を辞せば、かえって母 Heleneに経済的に依存せざるを得なくなることが分かりきっている。それでも「降りた」のは、母 Heleneへの深層心理的「復讐」かとも思えるのだが、そこら辺の心理機制はもうちょい考える必要がありそうだ。

 Weber自身に、母方のかなりの遺産が入るのは、下記の記事で書いたのとは異なり、母方の祖父母が建てたネカール河畔の大邸宅(これが遺産の一部)に移り住んだ時(1910年)であるのは確かだと思う。だから、1899年に Heidelberg大学教授職を辞した後、1910年まで、 Max Weber とMarianne夫妻の経済生活の実情が問題となる。名誉教授職の年金、母からの援助、等で1年間もイタリアでの転地療養ができるのだろうか。不思議だ。学生時代、 Heleneが父 Max に頭を下げないで済むよう、無理して節約してあげたことに対する、意趣返しと思えば理解できないこともないが。

〔追記〕 母親からあえて高額の仕送りを奪いとることは病気によって正当化でき、母親のプロテスタンティズム的信条倫理でもある「働かざるもの、喰うべからず」を真っ向からズタズタすることをも同時に意味する。その一方で、復職はせず、あてつけがましく、論文だけはガンガン生産する。これら一連の帰結は、かなり母親への報復になっているとも解釈できるかもしれない。
 あと、Weber の病気療養と自宅での論文執筆は、Marianne を喜ばせた、という事実がある。「これで、私も Max の力になれる」と。Marinanne が男性にあまり魅力を感じさせない女性だったことは、彼女が Heidelberg 時代の Weber Kreis で「プロテスタントのマドンナ」と密かにあだ名されていたことを思えば察しはつく。つまり、あえて言えば、病気療養は、 Weber 夫妻にとって(隠れた)共通の利益をもたらしていたとも言えないこともなさそうだ。(2008.01.04)

〔参照〕
Marx と Weber

〔他所さまの関連リンク〕

羽入辰郎「マックス・ヴェーバーの哀しみ」

|

« 日本 Max Weber 業界の「犯罪」? | トップページ | インフルエンザと Max Weber »

書評・紹介(book review)」カテゴリの記事

Weber, Max」カテゴリの記事

羽入辰郎 (Hanyu, Tatsurou)」カテゴリの記事

feminism / gender(フェミニズム・ジェンダー)」カテゴリの記事

コメント

t-maru 様

ご教示ありがとうございます。なるほど、少しづつ、「Max Weber の経済生活」がわかってきました。Guenther Rothの本、早速、確認してみます。

私も、羽入氏のように、結構、Max Weber個人 に愛憎あい半ばするように自覚しています(-_-;。ま、それはいいとして、結果として、彼が大学教授職なるものに忙殺されず、己の研究プランに従って、亡くなる間際まで思う存分研究できたのは、人類にとって、いや、少なくとも私にとって天恵ではあります。

1点、お尋ねしたい事がありますので、貴blogへちょいとお邪魔致します。

投稿: renqing | 2008年1月 6日 (日) 01時51分

Guenther Rothの論文の注に、母ヘレーネが相続した財産は、アルフレットが管理し、マックスが父親の死後は家長として財政的な決定を母の同意を得た上で行っていた、とあります。
ちなみに、ヘレーネには祖母と叔父からの遺産が入っています。この家系は相当のブルジョアです。
マリアンネも祖父から相当の遺産を受け継いでいます。この運用管理も実質的にはマックスがやっていたようです。

http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0521558298/104-9920589-6728757?%5Fencoding=UTF8&v=glance

投稿: t-maru | 2008年1月 6日 (日) 00時45分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マックス・ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫(1980年)(リンク追加):

« 日本 Max Weber 業界の「犯罪」? | トップページ | インフルエンザと Max Weber »