「勉強」は誰のものか
いま、入学試験の真っ盛りだ。日本各地で、この瞬間にも、悲喜こもごもの人生の一幕が繰り広げられているのだろう。
さて、自分のこども時代を振り返ってみて、親に「勉強しなさい。」といわれた経験のない者はまずいまい。
かくいう私はというと、うーん、母親や父親に 「勉強しろ。」と言われた記憶がとんとない。別に、黙々と自分で勉強していたわけでもないし、成績が良かったわけでもない。「過去は常に美しい」ので、自 己正当化・美化の心理機制が働いて、記憶が無意識に検閲されているかも知れないが、まあ、なかったような気がする。
ただ、本は読んでいたと思う。それも大抵は図鑑、百科事典の類だった。今でも、辞典・事典を読むことは好きだ。すぐに時間が経つ。まちがいなくあった私の少年時代も、外に遊びにもいかず、部屋で学研の原色百科事典や平凡社の世界大百科事典をパラパラと何の脈絡もなく読んでいた。その頃、やたらと出回っていたのが、ブリタニカ百科事典(Encyclopedia Britannica)。そのセールスマンの口舌に乗せられた父親が、うかうか買ってしまった代物が書斎にでんと飾ってあった。それも暇だから頁を繰って眺めながら、Sの巻に「Sesshu」(雪舟)」の、記事、水墨画写真などを発見して、「おお、雪舟って、すげぇなぁ。」と感嘆したのは、中2の時ぐらいだったか。いささか「国家の品格」的少年だったようで、今、苦笑を禁じえない。
こんな話はどうでもよかった。私の懐古趣味に過ぎない。歳をとった徴だ。
結局、何のため、誰のための「勉強」かということである。親がこどもに「お前のために言ってるんだ(あなたのために言ってるのよ)。」と、勉強を強いても、こどもはそこに微かでも親の利害を嗅ぎ取ると、もう自分の勉強とはならなくなる。机に向かっても、まず集中できず、かつてなら漫画、いまなら携帯電話あたりをいじくりまわすだろう。奴隷は働かず、サボろうとするものなのだ。賢い子なら、親の欲求を、口に出さない分まで先取りして、過剰に勉強するだろう。そして、いずれどこかでポキンと折れる。かの Max Weber のように。
「なぜ、勉強するのか。」このこどもからの突然の問いに、即座に答えられる親(大人)はいないだろう。いくら方程式が解けるようになったからって、お父さんがやっていることは違うし、いくらスペリングコンテストでいい点をとっても、お母さんが英字新聞や英文サイトを読んでいるわけでもない。「役に立つ」論では全く役に立たない。
「なぜ、勉強するのか。」と問われ、わからないなら、「わからない。」と正直に答えればいい。しかし、「勉強」はその子の、人生のその瞬間において、大きな部分を占めている。そのことにどう向き合うのか。「勉強」を「自分の人生」の一部としてどう思うのか。
自分のこととして「勉強」を考えること。自分の生として人生を生きること。それだけが歳若いこどもたちにとり、「勉強」することの意味なのだろうと思うのだ。
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