「石高制」ってなに?(2)
前稿からの続き。
いま、自分でもあまり明確になっていない事を書こうとしている。したがって、論にぶれや乱れがあると思うので、そのように感じた方がいらしたら、ご指摘いただければと思う。
1)用語の整理
まず、用語の整理からしておこう。以下、語義はすべて、『岩波日本史辞典』(1999年、第1刷)
からのものである。
■石高制
土地の生産諸力を米の収穫量に換算して把握し、その石高を基準に組み立てられた豊臣~徳川時代の社会編成原理。米の計量単位としての〈石〉は古代以来存
在し、戦国大名領においても用いられたが、米の収穫量を以て土地生産力を掌握する方式は豊臣秀吉による太閤検地を通じて全国的に普及した。実際の石高算出
にあたっては、商工業の発展度を加味して高い数値が付けられたり、領主の軍役負担量から逆算して設定される場合など、各種の要因が働いた。しかし、生産力
という質的要素を石高という同一の基準で数量化したことは画期的で、以後、江戸時代を通じて、領主・農民間の階級関係も領主間の主従関係も、何石所持の高
持ち百姓・何万石の大名と、等しく石高によって表されるようになった。しかし、中後期、商品経済の進展のなかでしだいに形骸化し、近代的租税制度をめざした明治の地租改正によって廃止された。
■年貢
農民に荘園領主・大名などが土地を基準として課した租税。
[1]荘園制下で田畠の耕作者が荘園領主に貢納した貢納物。国衙から課されていた官物かんもつの系譜を引くもので、反別に賦課され、地味にしたがって平安
時代には2斗代から6斗代であったものが、次第に上昇してゆき、鎌倉時代になると最高が1石代にまでなる場合もあったが、枡の大きさや田の収穫の認定の仕
方で異なるので、一概に増えたとは見なせない。収穫量の3割から5割ほどと考えられている。
[2]近世において、検地帳に登録され、高付けされた田畑屋敷地に対して賦課される土地税(本年貢・本途物成ほんとものなり)。これに付加される各種の付加税(口米、高掛たかがかり、三役など)や小物成なども広義の年貢に含まれる。毎年の作柄見分による検見けみ法や、土地柄による土免つちめん法、一定期間
税額を固定する定免じょうめん法などによって村単位で徴収された。〈胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり〉(西域物語に引く神尾かみお春央の言)
と表現されるように、幕藩領主による徴税方針はしばしば必要労働部分にまで食込んだから、年貢額やその使途をめぐる領主・百姓間のせめぎあいは江戸時代を通じて最大の政治・社会問題であった。
■斗代とだい
①中世の、田畠1段(反)あたりの年貢(官物)額。荘園や地種によって異なるが、平安末期の田の場合、3斗代(1段から3斗納める)から5斗代が標準的。
②石盛こくもり
■石盛こくもり
太閤検地以後、江戸時代の検地において行われた田畑1反当りの標準収穫量の算定のこと。斗代とも。田畑の肥痩や水利条件などを勘案して決定された。1反当り上田の場合は1石5斗、中田は1石3斗、下田1石、上畠・屋敷は下田並み、中畠9斗、下畠7斗など。1石5斗を15の盛り、1石3斗を13の盛りなど
ともいう。
2)「石高」は、「所得額」か「課税所得額」か
私の問題意識を明確にするため、あえて近代税制の用語で見出しを記した。つまり、こうである。
上記の「石高制」の語義では、「石高」=米の収穫量、としている。その時、ベースになるのが、1反当りの「石盛」である。それは、1反あたりの「斗代」 とも記されていた。しかし、一方で中世来、「斗代」とは、年貢額、つまり、課税所得額のことを意味した。そして、戦国大名の検地では、中世来の斗代をそのまま 引き継ぐことも多く、実は太閤検地においても実質的に、石高を打ち渡すときそれまでの斗代をそまま引き継ぐ例がかなりあった。
まとめると、太閤検地によって成立した「石高」とは、米の収穫量ではなく、米という課税のための特定目的貨幣 special purpose moneyで評価された「課税所得額」なのではないか、ということである。であればこそ、何も生産されない屋敷地にも、米を産しない畠にも、「石盛」は成立して不思議でなくなる。屋敷地のは「固定資産税」であり、畠地は「所得税」なわけだ。
ここまできて、かなり疲れたので、次稿に先送りする。
以上の議論は、実は、池上裕子氏(成蹊大)の所論を私なりに言い換えたものに過ぎない。次稿では、氏の所論を強力な evidence として紹介する予定である。
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