リンゴ8個とミカン6個
たまたま、小学校1年生の女の子の算数の宿題をみる機会があった。
その第1問に、
「いま、リンゴが8ことミカン6こがあります。どちらがなんこおおいですか。」
とあった。解答欄を見ると、
(しき)8-6=2 (こたえ)2こ
と、書けている。ただ、問題には「どちらが」とあるので、「どっちが2こ多いの?」と尋ねると、どうもわからない様子。
私は、なんでこんな簡単なことがわからないのか、それこそよく分からなかったので、わからせようと焦った。
「いまね、あなたの眼の前のテーブルに、リンゴが8個あるよね。その隣に、ミカンが6個おいてある。さあ、どちらが何個多い?」
本人の頭の中には?が飛び回っているようだ。
「じゃあね、8-6、はいくつになる?」
これはすんなり、「2!」、と大きな声で答えてくれる。うーん、この説明の方法では、何度繰り返してもだめだ、と方向転換を思案。
自然数の観念しか持たないどこかの先住民に、算数を教える時のことを考えた。それならと、集合論の常套手段である、1対1対応での説明を思いつく。
「じゃあね、いまあなたはミカン6個もってるとするでしょ。おじさんはリンゴ8個持ってる。いま、一緒に、一個づつ食べてみよう。あなたがミカン1個食べるとき、おじさんもリンゴ1個たべるよ。すると、6個食べちゃったとしよう。そしたら、あなたのミカンはいくつ残ってる?」
「ないよ。」
「そうだよね。じゃ、おじさんのリンゴはいくつ残ってる。」
「ふたつ !」
「だとすると、この問題さ、どちらが何個多いですか、って尋ねてるよね。じゃぁ、どっちが何個多い?」
「リンゴが二つ多い !」
ようやく、大人の望む回答にたどり着いた。
しかし、本当にこれでよいのか、と後で私自身が頭をひねってしまった。何故なら、そもそも、リンゴの個数とミカンの個数なんか較べても意味ないではないか。だって、味が違うし、リンゴだけが好きな子もいれば、ミカンだけが好きな子もいる。全く異なる具体物の数を引き算する、ということがはなから怪しい行為だったとも思えるのだ。
文明化とは、一面、普遍化である、ともいえる。普遍化、とは抽象化を含む。実は自然数の観念でさえ、具体物で構成されている子どもの生活世界では、強烈な抽象化なのである。
もう少しその先に思考を進めなければならないと思うが時間がないので、次の機会に。
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コメント
シカゴさん
コメントありがとうございます。
>突然トラックバックを送ったりして驚かれたかも知れません。
いえ、blogの世界での、標準ルールはあまりよく知りませんが、TBでの挨拶は、省略してもよいかな、と思います。ただ、私も迷うところですが。中途半端に、挨拶を入れたり入れなかったりします。
私の姪の小学校の教師は、あまり物事をしっかり考えない人物のようですね。もう少し、慎重にやってもらいたいものです。これで、単に「答えは、リンゴが2個多い、です。わかりましたね。」でやられた日には、算数が嫌いになってしまいます。
結局、他者への想像力の問題でしょう。自戒もこめてですが。
投稿: renqing | 2008年4月 8日 (火) 11時55分
renqingさん、こんにちは。ご挨拶が遅れました。
『遠方からの手紙』(かつさん)のところから参りました。
突然トラックバックを送ったりして驚かれたかも知れません。
小学一年生に引き算(差)を導入するときにいきなりリンゴとミカンのちがいという例をもちだすのは renqingさんのおっしゃるようにあまり適切ではない、と私も思います。集合論が小・中学の算数・数学から消えてからもう大分経ちますが、小学一年生に数の概念をきちんと教えるためには集合という概念(ことばとしては「なかまあつめ」あたりがいいと思います)あるいはカテゴリーという概念を念頭において指導する必要があるだろうと思います。
さて差の例題ですが、やはり一対一対応させるという手続きは必須でしょうね。ただし最初はリンゴとミカンのような結びつきの弱いものではなく、一対で意味を持っているものたとえば鉛筆とキャップとか、、コーヒーカップと受け皿(ソーサー)といった身近にあるものを例に挙げるのがよいと思います(グローブとボール、瓶と蓋等々)。で、一対一対応させるという手続きを実際にやってどちらかが余るあるいは足りないといったことばで「ちがい(差)」という概念を把握させるのがよいだろうと……。差の概念がきちんと身についたならリンゴとミカンの例を挙げても大丈夫でしょうが、その後で皿に載せたミカンとざるに入れたミカンのような同種のものの差を取り上げることも必要でしょうね。
それができた後で算数セットの中にあるタイルを使って実際の引き算に入っていくという順番でしょうか。
投稿: シカゴ | 2008年4月 7日 (月) 18時01分