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2009年4月26日 (日)

19世紀徳川日本における民の力量の増大(4:とりあえずの結語)

前回からの続き

3)庶民の学としての朱子学

 18世紀前半の徂徠学革命によって一蹴された観のある朱子学だったが、18世紀後半になると様相が変わってきていた。徳川18世紀後半は、列島思想史上、特異な時期といえる。

 官許の思想、イデオロギーというべき正統の学がなく、少なくとも学芸上のことであれば、公儀も出版規制を放置している状態といえた。それは、田沼政権下における、ペレストロイカとでもいうべき事態であって、儒学の外では、心学、国学、蘭学、経世思想など多様であり、儒学内部でも、一人一学説の折衷学派などがひしめき合い、互いに己の説を競い、私塾であればその門弟数を競っていた。一方、文芸の世界では、黄表紙のごとく趣向の新奇さを競う末期的症状が現われており、またその世界に才能を供給していたのが幕臣や諸藩の下層部分であった。つまり、有体に言えば、現今の世はタガが緩んでいる、という認識が治者の中にも被治者の中にも芽生えてきていた。

 そのなかで、底流として朱子学の復権が起きる。それには四つの側面がある。

 一つは、18世紀後半から田沼時代にかけての秩序、ないし風紀紊乱に対する、社会の再「紀律」化を支える思想として。つまり、徂徠学における認識論的転回にともなう、儒学の脱朱子学化(=脱道徳化)が、学術としての高度化をもたらす一方、儒学本来の義理の学としての性格を希釈してしまい、発達し複雑化した経済社会で暮らす人々にとっての生きる手がかりにならなくなってしまっていた。その意味で「義理の学」としての朱子学の復権が求められた。それは当然、徂徠学革命を吸収、咀嚼した朱子学であろう。実質上、折衷学派や考証学派とはその等価物であったし、上方の朱子学者たちも18世紀後半のポスト徂徠学革命状況で自らの学を形成したことに変わりはなかった。

 二つめは、庶民にとっての学問が、たんに認識のための学問、「事物の学」であるとしたならば、庶民はなんためにそれをなすのか、ということである。特に、儒学は統治・政治の学であり、それが単に認識のための学問なら、その学をなすことによる他者からの地位とその承認を求める契機が欠落してしまう。それに対して、朱子学には明確なメリトクラシー(能力主義)があり、現にそれは大陸において科挙として実現していた。学べ、己の能力を高めろ、という朱子学のメッセージは、統治身分の外にいるにも関わらず、学び成長して、何事か世に貢献し、承認されたい庶民知識人にこそ訴える力がある。庶民の力量の増大は、朱子学にこそマッチするのである。

 三つめは、上方朱子学による、江戸徂徠学の覇権に対する反撃として。すなわち、異学の禁を推進した寛政の三博士とは、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、であるが、そのうち岡田寒泉を除くと、柴野栗山は京の朱子学者、尾藤二洲は大坂の朱子学者である。寒泉が代官に転出したあと登用された古賀精里は大坂で私塾をひらいた後、肥前鍋島家儒者となった朱子学者である。尾藤、古賀と同じ上方朱子学サークルに属しているのが、異学の禁の黒幕とも言われた頼春水で、安芸浅野家儒者である。そして、これは二つめと関連するが、その出自を見ると、柴野栗山は讃岐の百姓の家、岡田寒泉は幕臣の子であるが次男であるため部屋住みで、無役の小普請に属していた。尾藤二洲は伊予の廻船業者(船頭)の子であり、頼春水も安芸の紺屋の長男である。加えれば、彼らと同じ知的サークルと目される大坂の懐徳堂は、大坂町人のための学問所である。

 四つめは、複雑化する国家運営の任務に耐える人材の大量養成である。諸学ある中で、大陸の科挙システムを支えてきた朱子学は、最も洗練された教育カリキュラムを持ち、人材を大量に養成するのに最適であった。新たに学問所を整備し直し、各種の試験を定め、評価し、選抜するためには、判定基準としての統一した教育内容が必要であり、公儀における朱子学採用は避けられなかったといえる。

 結果的に、肝心の表題の19世紀に触れることもできずにいるが、とりあえず、仕切りなおしで再論することにする。 最後に心覚え的なことを一つ二つ。

 徳川の18世紀初期に徂徠学革命があったということ、これは間違いないところだろう。そして、それを標準的な見方にしたのが、丸山真男の『日本政治思想史研究』ほかの研究だったのだと思う。ただ、そのために、徳川中期、後期において、あるいは明治期において、いったいあの朱子学はどこにいってしまったのだろうか、という気がするのだ。それが消えてなくなってしまったわけではないことは、幕末の佐久間象山がれっきとした朱子学者であることや、横井小楠の思想には朱子学的背景があると思われるので、はっきりしていると思う。明治など見ても、元号制や教育勅語なども朱子学的であるように思うので、見えない思考枠組みとしての近世・近代日本の朱子学の研究があれば嬉しいのだが。心当たりのある方はコメントなど戴けると助かります。

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