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2009年4月20日 (月)

19世紀徳川日本における民の力量の増大(1)

 18世紀末の寛政の改革は、松平定信の主観的意図とは別に、それまでにポテンシャル(潜勢力)として蓄積された民の力量を、社会の表面に開放する契機となった。

 こういうと「ちょっと待てよ」と訝しむ方もおられよう。

何しろ、老中首座松平定信は、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と揶揄された御仁。そんな儒教道徳(=封建道徳)の権化と目される権力者のやったことが、何故「民の力量」と関係するのか、と。だいたい、寛政異学の禁、って朱子学一尊なんだから、その封建道徳を上から注入しようってんじゃなかったのか、と。

 しかし、考えてもみられよ。孔子や朱子は、やたらと学ぶことを強調している。人は生まれによって貴賎上下が決まるのではなく、学びを通じて立派な人格になっているかどうか、が肝心であり、極論すれば(原理的には)人は誰でも聖人になれる可能性がある、と言うのである。これが、生まれ、門地、家柄、で人間の価値が決まるとする身分原理と真っ向から対立する思想でなくてなんであろう。したがって、身分原理が建前となっている徳川日本で、そもそも儒学やその一派の朱子学が(原理的に)体制教学になれるはずがないのだ。 〔次回へ続く〕.

※このシリーズ完了してます。乞うご参照。
19世紀徳川日本における民の力量の増大(2)
19世紀徳川日本における民の力量の増大(3)
19世紀徳川日本における民の力量の増大(4:とりあえずの結語)

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