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2009年4月12日 (日)

十九世紀徳川のビジネス・ソサイエティ化

 十八世紀末の寛政の改革を一つの分水嶺として、徳川社会には不可逆の構造的変化が訪れていた。それをひとまずビジネス・ソサイエティ化と呼んでおく。

 ビジネス・ソサイエティとは、この世に人として生まれてきた以上、どのようなことでも、個々になんらかの功業をなさねばならず、それが可能となるかどうかは最終的に己次第である、という心性が横溢している社会のことである。以下は関連しそうな書籍からの抜書き、引用である。

「私見では、寛政期(1789-1801)を境にして、知と情報のありようが大きく変化していくように思われる。」
鈴木俊幸『江戸の読書熱』平凡社選書(2007)、p.17

「十九世紀に入ると教育熱は一気に高まり、寺子屋が全国に誕生する。・・・。明治十六年(1883)の文部省が府県に命じて行った調査報告をまとめた『日本教育史資料』によれば、総数11,237とある(石川謙『寺子屋』至文堂)。この数字が一人歩きしているが、調査漏れが数多あり、実態はこの数倍になる。・・・。
 筆者のフィールドワークの体験から、最盛期には少なくとも一村に一つか二つは存在したと考えられる。天保五年(1834)の総村数は63,562である。この数字以上の膨大な寺子屋が大小さまざまに読書き算用熱の時代の風にあおられて生まれた。」
高橋 敏『江戸の教育力』ちくま新書(2007)、p.20

「十九世紀初めの男色総退潮の動向は、私など十九世紀の生産の修辞学に関係があり、「天下」に人口維持の力があるのかという幕末の不安につながっていると見る、より大きなパラダイム転換の一部であったはずである。
 不安や飢饉、そもそも日本そのものがなくなる危険に、ヨーロッパ列強の海軍艦艇の姿をますます見かけることが多くなったことが拍車をかけた混迷の中、狂ったように求められなければならないのは快楽ではなくして、生産であった。」
タイモン・スクリーチ『春画』講談社選書メチエ(1998)pp.260-1

 問題は、十九世紀徳川ビジネスソサイエティを結果的に準備した、十八世紀の構造変動がいかなるものであったのか、と言うことである。経済的には、定常人口下における所得の拡大、少子高齢化、田沼時代の言論・(海外を含む)情報の野放図化などがすぐに思い当たるが、それらがどのようにして心性の変化と結びついたのか、という機序がいまひとつすっきりしない。思案中としておく。

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