百姓と朝廷(追記 20210512)
「オトナナリ」という儀式をご存知だろうか。別名、「官途成(かんとなり)」と呼ばれたりもする。論者から一部引こう。
「オトナナリは文字どおり老(おとな)になることで、成人式であり、村の正規の成員になる儀式である。中世の人々は一人前になると頭に烏帽子(えぼし、冠)をつけ、刀を腰にさし、幼名をあらため名乗りをつけた。百姓・職人とて例外ではない。幼名は寅年生まれなら虎、戌年なら犬、二番目は二郎で、五番目は五郎、すこし上品になると虎千代、五郎丸といった感じであるが、成人となるとこれに官名がつく。スケ(允、助)、ヒョウエ(兵衛)、エモン(衛門)・ジョウ(尉・丞)などなど、単純な例であるが、虎助、二郎兵衛、五郎左衛門、虎之丞といった具合である。
いずれも、がんらいは律令官職制度の官名であり、朝廷からこれらの官を受領する儀式が原型にあった。オトナナリを「官途成(かんとなり)」とよぶ例はきわめて多く、村にかぎらず町においても一般的に存在した。官途につくという形式を踏むことによって、惣村の成員たる事実が確認されたのである。これはかれらがみずからを現実に存在しない国家の制度的部分として意識することにより、その公的存在としての性格を主張しようとしていたものとみることができる。
江戸時代には、ほとんどすべての百姓・町人の名前が官名をつけるようになった。甚助・太郎衛門・平右衛門などなど、枚挙にいとまがない。そこにいたる過程で、惣村の百姓たちは武士の主従制による支配を拒否し、安定した国家の公権による支配にあこがれ、そのまぼろしの公権の一部分を担う意思を、寄合の重要な儀式であるオトナナリのなかで暗に表明していたのである。」
朝尾直弘「東アジアにおける幕藩体制」、『日本の近世1 世界史のなかの近世』中央公論社(1991) 、pp.84-85
徳川期における律令制の問題は、武家の官位を巡って存在することは了解していたが、村や町の庶民層における名前にまで律令制の影響が及んでいることは、上記の指摘で私としても改めて気づいた点だ。このことは、日本近代における「天皇制」の、民衆的心性の起源になんらかの関連があると思わざるを得ない。今、公開中の映画「GOEMON」(五右衛門)も、実は律令制における官名だったことになる。歌舞伎名跡など(例えば、中村歌右衛門)も含めて、庶民の心性の中の「禁裏・朝廷」、から再検討する必要があるだろう。
参照1 若い衆に入ったら、子供心でいるんじゃありません: 本に溺れたい
参照2 「禁裏様」と二十一世紀: 本に溺れたい(追記 20210512)
※3点、引用追記(20200622)
①「おとな 大人/乙名」(平凡社世界大百科事典/仲村 研)
近江国得珍保(とくちんのほ)今堀郷の宮座において,1488年(長享2)に6人の老人が宮座の負担を免除されているが,この6人の老人は老人成(官途成(かんとなり))を通過した者のうちの年齢上位者である。この長男成・老人成とは村落共同体の若衆が一定の年齢階梯に達したとき,規定の負担を全うすることによって老人衆の集団に入る儀式をいい,村人成(もろとなり),官途成,大夫成,衛門成,兵衛成ともいって,たとえば,左近将監,五郎大夫,太郎左衛門,二郎兵衛などの名称が共同体内で公認されるのであり,江戸時代にはこの名称が家固有の屋号になるものもあった。②「ろうにゃく 老若」(平凡社世界大百科事典/仲村 研)
《日葡辞書》に〈老人と若者と〉とある。〈老若男女〉〈貴賤老若〉というように,本来はすべての人を意味する語句であるが,江戸時代の共同体社会では,おとな(老人)と若衆とを指し,二つの年齢集団を意味する用語である。若衆は15歳前後から老人になる以前の若者集団,老人は老人成(官途成)の儀礼を通過したものをいう。老人と若衆とは共同体社会での発言権に格差がつけられている場合がある。若衆から老人成を経る場合,名まえを変更する場合が多く,老人は〈兵衛〉〈衛門〉〈太夫〉などの官途名で呼ばれる。老若とも加入順による﨟次(ろうじ)が絶対で,寄合の着座も﨟次によって決定され,﨟次が老若の生活する共同体社会の秩序を形成しているともいえる。老若の制度的確立は,鎌倉時代末期から成立してくる惣村制(惣)の展開と揆を一にする。③「近江国」(平凡社日本歴史地名大系)
ムロトはさらに一般農民と上層農民である乙名(長老)衆に分れ、一般農民は一定年齢と村内規定にしたがって烏帽子着によって加冠の儀を通過して若衆・中臈(老)に進み、さらに一定年齢に到達するとその集団を抜け、大夫成りあるいは衛門成りなどと称する官途成りの儀礼を経て改名し(永正元年一〇月七日「今堀直物掟案」今堀日吉神社文書)、最後に乙名衆に入る。その組織形態は原則的に年齢階梯式の臈次制で座的構成をとり、鎮守社や村堂の行事を執行する宮座と重複するものと考えられている。
| 固定リンク
« 「御一新」 その隠されたモダニティ(3) | トップページ | 徳川19世紀の二つのボーダーレス化(Two Borderlessness in 19C Japan, or Class action in Tokugawa Japan) »
「Tokugawa Japan (徳川史)」カテゴリの記事
- 徂徠における規範と自我 対談 尾藤正英×日野龍夫(1974年11月8日)/Norms and Ego in the Thought of Ogyu Sorai [荻生徂徠](2023.08.30)
- 暑き日を海にいれたり最上川(芭蕉、1689年)(2023.08.02)
- Giuseppe Arcimboldo vs. Utagawa Kuniyoshi(歌川国芳)(2023.05.24)
- 徳川日本のニュートニアン/ a Newtonian in Tokugawa Japan(2023.05.18)
- 初期近代の覇権国「オランダ」の重要性/ Importance of the Netherlands as a hegemonic power in the early modern period(2023.05.15)
「禁裏/朝廷/天皇」カテゴリの記事
- 尾藤正英著『日本の国家主義 「国体」思想の形成』2020年岩波書店(オンデマンド版pbk)(2022.11.28)
- 懺悔と免責/ Repentance and Immunity(2021.12.30)
- 「百姓」は農民(peasant / farmer)ではない/ "Hyakusho" is not a peasant or a farmer(2021.02.27)
- 「禁裏様」と二十一世紀(2020.06.22)
- 決定論の起源 The origin of determinism (2結)(2020.04.09)
コメント
塩沢先生、コメントありがとうございます。
徳川日本というのは、先入見抜きに観察するとかなり不思議な社会です。
一般に、徳川日本は固定的な「身分社会」と見なされています。さすがに今日では、「士農工商」社会、などとはまともな日本史家で公言する方はいなくなったように思います。それでも、徳川日本が17Cイングランドに匹敵する身分間の流動性(垂直的流動性)を持つとまで言い切る学者はあまり見ません。
しかし、こういう例があります。芭蕉から二世代後の俳人に鬼貫なる人物がいますが、彼は裕福な町人の子とし生を享けながら、幾つかの小中規模の大名家を渡り歩いて、経営コンサルタントとして再建にその辣腕と振るっています。「武士」身分としてです。この様な史実に従来の日本史家はあまり注目せず、したがいまして納得のいく説明を与えて来ていません。そういう眼で探すと、鬼貫のような事例が彼の個人的タレントによるレアケースとも言えないようなのです。これには、故網野善彦も注目し驚愕していました。詳細は、下記の弊記事もご笑覧ください。
鬼貫 元禄の経営コンサルタント/ Onitsura : business consultant of Genroku period in Tokugawa Japan: 本に溺れたい
https://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2019/06/post-c13439.html
塩沢先生がかつて指摘された、「貨幣」「金融」の問題から徳川日本を見返しますと、寺社の金融機能が問題で、この領域も従来の日本史学では等閑視されてきていて、よくわかっていません。とにかく、徳川日本は実は、どこから手を付けたらよいのかわからないほど、といってもよいほどです。
投稿: renqing | 2021年5月13日 (木) 04時09分
知りませんでした。庶民の共和国が実体なき天皇制に支えられていたとはおもしろいですね。共和国は、もともとres publicaで、公義の国といった意味ですよね。
どういう偶然か、いま江戸時代の経済史を勉強しています。
投稿: 塩沢由典 | 2021年5月12日 (水) 14時46分