19世紀徳川公儀体制の黄昏
徳川国家は身分制国家であった。これは、1603年に徳川家康が京の後陽成院から征夷大将軍の宣下を受けたときから、1867年、徳川慶喜が京の睦仁帝に大政を奉還し、将軍職を辞するまで変わらない。
しかし、19世紀の列島の岸辺には、時に丁重に、時に傍若無人に、主権国家化を既に果たしていた西洋列強諸国が押し寄せていた。
そこで、身分制国家を二元的に図式化してみる。
※参照 村上淳一「ヨーロッパ近代法の諸類型」、平井宜雄編著『法律学』日本評論社1979年所収
①「政治権力をしだいに集中してゆく君主」
②「自立的な諸権力から成る政治社会」
そして、この身分制国家が主権国家になるということは、この二元性を清算し、唯一の主権のもとで一元化されるということを意味する。すなわち、①によって②が併呑される、ということである。その時、②は「国家の担い手もしくはそれになんらかの形で参与する者の範囲が底辺に向かって拡大していくこと、すなわち政治の国民的浸透」(石井紫郎『日本人の国家生活』1986)、という遷移過程を示す。すると19世紀徳川日本が主権国家化するということは、誰の主権のもとで、どのようにして国家の担い手を拡大していくのか、ということに帰着する。
では、公儀(=徳川氏)に、主権者になる可能性と契機はあったのだろうか。
無論、西洋との政治的接触はそれを自動的に強いる。彼らは、主権者を交渉相手とみなすからである。しかし、それは公儀が自ら望んだものではなかろう。その一方で、公儀に明確な主権化する意図が仮になかったとしても、いずれ主権化せざるを得ない内的契機があったように思う。その一例が、1805年(文化2)関東地方の治安強化維持を目的として創設された、関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)と、組合村結成に代表される文政改革であった。そのことは、既に、徳川19世紀の二つのボーダーレス化、で略述した。
これら一連の公儀の対応は、関東領国一帯で発生する広域化した様々な諸問題に対するものであるが、犯罪や治安対策という目的のほか、一つ重要な眼目があった。
それは、若者組対策である。村の祭礼はたいてい若者組が担っていた。その若者組の動きが、実は広域化していた。つまり、一村を超えて、隣村や離れた複数の村と祭礼を共催する動きが19世紀に加速していたのである。具体的には、歌舞伎・人形浄瑠璃などの地芝居、相撲・踊り・神楽・獅子舞・花火等が、若者組を担い手とする熱狂的な祭礼興行の対象となっており、そうした祭礼への若者組同士の相互訪問、また、それにかこつけた様々な休日の要求も、村役人にとっての村落秩序への、公然たる挑戦として深刻な問題となっていた。休日日数は、祭礼型休日であれば地域により年間30日から5、60日、労働休養型休日なら50日から地域により、7、80日に及んでいた(古川貞雄『増補 村の遊び日』農山魚村文化協会2003年)。このように、19世紀ともなると、徳川公儀の統治の仕組みが、その統治対象の実態と齟齬をきたし始め、関東だけでなく列島のいたるところで体制の軋む音がもれ聞こえるようになっていた。
この事態に対する公儀自らのイニシアチブによる最後の大掛かりな変革が、天保の改革だったことになる。その目で見直せば、この改革の、株仲間の解散、上知令、などは、その帰結ではなく意図と目的を勘案するならば、公儀の主権化への第一歩とも評せるだろう。しかし、村々の自治 + 町の自治 + 各領主による列島各地の分散統治、こそが、徳川公儀体制の社会契約であった。そこに、主権化を画策することは、自らその契約を破棄し、全く新たな社会契約を結びなおすことに等しいわけで、動きとしてはやむをえないとは言え、体制的な自己否定以外の何者でもないと言える。残る道は、それをいかにして明確に意図し、決断主義的に実行しきるかにかかっていた。
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