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2009年12月17日 (木)

ひとつの徳川国家思想史(7)

「三 朝幕関係の推移と中期の思想的動向」

■楠氏賛美(南朝正統論)に含まれる幾つかの問題点(p.65)

①楠正成の忠誠対象 → 南朝の天皇
 足利氏によって擁立された北朝は、その敵だった。
②現実の京都の朝廷は北朝の系統を引いており、将軍も大名もそこから官位を授与されている以上は、北朝の臣である。
③この時期の思想界では南朝正統論が優勢(←『太平記』『資治通鑑綱目』)
 当時の南朝正統論⇒南朝の忠臣であった新田氏の子孫が、今や徳川氏として天下を支配する地位に立っているという歴史上の因果関係を通じて、忠臣や孝子の子孫にはよい応報があるという(儒教的な)道徳上の教訓を与えるとともに、政治意識の面では、徳川幕府成立の根拠を(やはり儒教の易姓革命の思想により)歴史的に正当化するという意味を含んでいた。

④水戸徳川家の『大日本史』では、南朝正統論が三大特筆とされていたが、このために、一応の完成を見た1715年以降も、北朝意識をもつ朝廷ではその献上を容易に受理しようとはしなかった。
⑤官位制度から導かれる形式上の君臣関係(天皇-臣下)と、実質上において幕府が全権を掌握しているという政治上の力関係との間にも、矛盾が存在する。

→このようにいわば論理では割り切れないところに、むしろ日本の天皇を君主とする政治制度に特有の構造があるとみるべきもの。

次回に続く。

尾藤正英「尊王攘夷思想」、岩波講座日本歴史13、近世5(1977)所収
内容目次
一 問題の所在
ニ 尊王攘夷思想の源流
 1 中国思想との関係
 2 前期における二つの類型
三 朝幕関係の推移と中期の思想的動向

四 尊王論による幕府批判と幕府の対応
五 尊王攘夷思想の成立と展開

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