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2010年1月25日 (月)

歴史における発生と定着、あるいはモデルと模倣

われわれは初発の出来事を決して繰り返すことはできない。この出来事は自分が何をしているのか分かっていない人々によって行われたのであって、この無自覚性こそが出来事の紛れもない本質であった。
アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』岩波書店(2000年)、第3章産業社会、p.32

 これはゲルナーによって語られた「産業社会」のことです。ゲルナーのいう「産業社会」は、いわゆる資本主義社会のことで、この文脈ではその誕生のことを意味します。最初の産業社会(国家)といえばイングランドであり、すでその「革命像」を改訂されている(一世紀に及ぶ)18世紀「産業革命」現象のことも含みます。問題意識としてはM.ウェーバーと共通していることはゲルナー自身が触れています。

 では、最初の産業社会を歴史上生み出した18世紀後半~19世紀前半のイングランド人たちは、当初から産業社会を作る目的だったのでしょうか。無論そうではない。イングランド人はイングランド人なりに、その時々の解決を迫られた目前の課題に応答していった結果として、グレートブリテン島に「産業社会」が出現したはずです。

 だとしたら、最初の産業社会(国家)が、イングランド、あるいは西欧に現われたことを当然のごとくみなしてはならないと思います。確かに、イングランドに産業社会が生まれ、それがイングランドの亡国にはつながらず、かえって繁栄(?)の源となりました(生物進化では、突然変異はしばしば種の絶滅を帰結します)。そしていま、私たちのこの列島を含む非西欧地域の人々さえも、イングランドの産業国家をモデルとして追随して来たのが歴史的経過です。

 ですから、それがたまたま歴史上出現し、歴史の試練に耐えながらサバイバルしたものに過ぎないと見なすことは難しいでしょう。しかし、17世紀、数次にわたる英蘭戦争後に、17世紀末には財政破綻寸前のイングランドが名誉革命後、オランダと同君連合となり、英蘭コンプレックスとなって、その軍事力とマネーを合体させ、大国フランスと対峙することになるとは、同時代人たちのいったい誰が想像したでしょうか。

 史上初めて、君主個人とは異なる、主体としての国家(=イングランド下院、国債の償還保証を下院がしている)が軍資金を恒常的にファイナンスするという仕組みが出来上がりました。その上、それまでのイングランドでは王政府の軍資金ファイナンスで、民間資金のクラウディングアウトが発生し、ゴールドスミス(金匠)のような高利貸しが跋扈していました。ところが英蘭コンプレックスの誕生で、膨大なオランダ・マネーのほかに、先進的なその金融テクノロジー導入によって、発券銀行となったイングランド銀行は、資金不足の商人たちのために、信用創造機能を商業手形割引政策に活用し、市中金利を一気に引き下げることに成功します。

 こうしてイングランドは、18世紀初頭には、潤沢な資金を調達できる政府・商人共用の金融市場をロンドンに構築できました。つまり、イングランドは産業国家になる以前に金融国家のとしての体裁を整えることができていたのです。古典派経済学最高の理論家D.リカードがオランダ系のアンダーライター(公債引受人)だったのは象徴的です。もし、資本輸出国オランダの(事実上の)君主がイングランド王家と縁戚関係でなかったり、チャールズ2世やウィリアム2世の統治が続き、イングランドが仏の衛星国家状態を続けていれば、今、我々が見るような産業社会が歴史上に登場していたかどうかは予断を許しません。

 一方、ユーラシア東端の列島では17世紀から徳川ダイナスティが始まっていますが、これとて、当時のだれも向こう250年間の徳川氏の支配を想像し得たものは皆無だったでしょう。他にも、第二代将軍徳川秀忠の五女和子(まさこ)は祖父家康の強い勧めで、第108代後水尾天皇の中宮として入内し、第109代明正天皇(女帝)を産みます。ここでもし男子を産んでいたなら、家康は男子天皇の外曽祖父(秀忠は外祖父)となり、徳川宗家による天皇家の取り込み、家康の皇位簒奪計画が実現していたかも知れません。将軍後継の有資格者が天皇となったり、天皇後継の有資格者が将軍となったりするならば、列島を統治する王家は一つとなっていたはずです。この事態が出現していれば、後の明治維新は論理的に成立できないわけで、いまに続く国制そのものが大幅に書き改められていたことで
しょう。

 歴史においては、なんらかの事件 events の重ね合わせの事態があり得、これを単なる偶然と処理せずに考察する枠組みが必要です。そのための道具が、M.ウェーバーの言う「選択的親和性 Wahlverwandtschaften (Elective Affinities) 」*です。梅棹忠夫が言う「系譜論と機能論の区別」**も同じ事態を指しています。そして、これが「変異」と「適応」を相互独立と考えるダーウィン「進化論」と実質的に同一のものであることも了解できると思います。そしてここまでくれば、系譜論的必然性神話の解毒剤として複数の歴史シナリオの比較が必要であり、「なぜ~にならなかったか」という問いかけが有効であることも知られると思います。

*マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳)岩波文庫(1989)
、p.136
**梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫(1974)、p.85

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コメント

古川浩一 様

どうも勘違いをされているように見受けられます。当ブログ主は、川北稔氏(大阪大学名誉教授)ではありません。

もし、川北氏に質問等なさりたいならば、現在、川北氏が特別任用教授に就任されている、佛教大学歴史学部 http://www.bukkyo-u.ac.jp/ (京都市)へ尋ねられたほうがよろしいかと思われます。

恐縮ですが、人まちがいの状態で応答するのも愚かなことなので、下記のご質問にはお答えいたしませんので、ご諒解ください。

投稿: renqing | 2012年9月 3日 (月) 12時28分

人間の尊卑も歴史によって生み出されたことが多くないか
と書きましたが、洋の東西を問わず、その尊になれた人たちが
どうして尊になれたのか、彼らが優越的な地位に
何代もつけたのは公正な方法によってなのか、
権力闘争への参加とかなかったのか、とか、彼らを
例えば大河ドラマみたいに人民の英雄として描かず、
彼らの行動のありのままと、その意図や権力や経済力
などを手にいれた方法とそれをどう使ったか、
それは公正だったかのありのままを伝えるのは
歴史研究者としてあやまってるでしょうか。

投稿: 古川浩一 | 2012年9月 1日 (土) 20時25分

川北先生、懇切な解説ありがとうございました。

投稿: 古川浩一 | 2012年9月 1日 (土) 18時33分

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