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2010年1月12日 (火)

歴史における「なぜ」と「どのようにして」 "Why" and "How" in the history

 かつて、Max Weber は、「なぜ、西欧にのみ合理性を志向する資本主義が生まれたのか」と問うた。

 また、数十年前なら、「なぜ、日本は非西欧地域で唯一、工業化(資本主義化)を成し遂げたか」という問いかけも普通にあった。

 現に起きた事柄(事実)について、「なぜ why」と問うことは有効なのだろうか。極めて自然な思いではあるが、これは究極的には自己の存在証明のようなもので、事実以外のもの(神学論争の次元)でしか決着(納得)のつきようのないもののように思う。

 では、現に起きた事柄(事実)について、どう問えば不毛な議論にならずに済むのか。おそらく「どのようにして how」と発問することだろう。

「どのようにして、西欧に合理性を志向する資本主義が生まれたのか」

「どのようにして、日本は工業化(資本主義化)を成し遂げたか」

 こういう問いなら、一連の史実、およびその解釈の連鎖で、その問題への理解を深めることは可能だろう。

 それでは、「なぜ」と歴史を尋ねることは常に不毛か。そうでもない。反史実的、反事実的な問いを発するときはこれ以外に問題設定が難しい。

「なぜ、非西欧世界(例えば、イスラム地域、大陸中国)で工業化(資本主義化)が自生的に生まれなかったのか」

「なぜ、武家政権は天皇家、または京の朝廷を潰さなかったのか」

「なぜ、徳川17世紀の人口爆発が、大陸等への対外膨張をもたらさなかったのか」

「なぜ、各大名家では紙幣を発行したのに、徳川政権は紙幣を発行しなかったのか」

 つまり、歴史における存在を問うときは How 、非在を問うときは why 、がより役に立つ問いの仕方なのではないか、と考える。

 以上、雑感を記したが、この問題、より慎重に検討しなければならない部分を残しているが、それには次を期したい。

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