歴史における「なぜ」と「どのようにして」 "Why" and "How" in the history
かつて、Max Weber は、「なぜ、西欧にのみ合理性を志向する資本主義が生まれたのか」と問うた。
また、数十年前なら、「なぜ、日本は非西欧地域で唯一、工業化(資本主義化)を成し遂げたか」という問いかけも普通にあった。
現に起きた事柄(事実)について、「なぜ why」と問うことは有効なのだろうか。極めて自然な思いではあるが、これは究極的には自己の存在証明のようなもので、事実以外のもの(神学論争の次元)でしか決着(納得)のつきようのないもののように思う。
では、現に起きた事柄(事実)について、どう問えば不毛な議論にならずに済むのか。おそらく「どのようにして how」と発問することだろう。
「どのようにして、西欧に合理性を志向する資本主義が生まれたのか」
「どのようにして、日本は工業化(資本主義化)を成し遂げたか」
こういう問いなら、一連の史実、およびその解釈の連鎖で、その問題への理解を深めることは可能だろう。
それでは、「なぜ」と歴史を尋ねることは常に不毛か。そうでもない。反史実的、反事実的な問いを発するときはこれ以外に問題設定が難しい。
「なぜ、非西欧世界(例えば、イスラム地域、大陸中国)で工業化(資本主義化)が自生的に生まれなかったのか」
「なぜ、武家政権は天皇家、または京の朝廷を潰さなかったのか」
「なぜ、徳川17世紀の人口爆発が、大陸等への対外膨張をもたらさなかったのか」
「なぜ、各大名家では紙幣を発行したのに、徳川政権は紙幣を発行しなかったのか」
つまり、歴史における存在を問うときは How 、非在を問うときは why 、がより役に立つ問いの仕方なのではないか、と考える。
以上、雑感を記したが、この問題、より慎重に検討しなければならない部分を残しているが、それには次を期したい。
| 固定リンク
「歴史 (history)」カテゴリの記事
- 柳田国男「實驗の史學」昭和十年十二月、日本民俗學研究/ Yanagida Kunio, Experimental historiography, 1935(2024.10.20)
- Rose petals in the canyon(2023.10.25)
- 峡谷に薔薇の花弁を(2023.10.25)
- Knowledge and Evolution: 'Neurath's Ship' and 'Evolution as Bricolage'(2022.03.25)
- 《知識の進化》と《進化の知識》:「ノイラートの船」と「進化のブリコラージュ」(2022.03.25)
「資本主義(capitalism)」カテゴリの記事
- 「産業革命」の起源/ The origins of the ‘Industrial Revolution’(2024.11.08)
- リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理,解説:張 彧暋〔書評①〕(2024.09.16)
- Seki Hirono, Unearthing the Forgotten History of Ideas, 1985(2024.07.14)
- 関 曠野「忘れられた思想史の発掘」1985年11月(2024.07.13)
- Glorious Revolution : Emergence of the Anglo-Dutch complex(2023.05.13)
「社会科学方法論 / Methodology of Social Sciences」カテゴリの記事
- 柳田国男「實驗の史學」昭和十年十二月、日本民俗學研究/ Yanagida Kunio, Experimental historiography, 1935(2024.10.20)
- リア・グリーンフェルド『ナショナリズム入門』2023年11月慶應義塾大学出版会/訳:小坂恵理,解説:張 彧暋〔書評①〕(2024.09.16)
- 塩沢由典『複雑さの帰結』1997年、の「解題集」(2024.08.13)
- Rose petals in the canyon(2023.10.25)
- 峡谷に薔薇の花弁を(2023.10.25)
コメント