三島由紀夫『潮騒』(1954年)〔承前〕
今回読み直してみて面白かったことは二つある。
一つは、新治とのことが変な形で父親に露見してしまい会えなくなった初江が、手紙を新治の漁船の親方に預けたとき、海の上で新治が読み終えた後、その親方が初江の手紙を音読する場面。
これは、かつてある世代以上の人々は、実は文字を黙読する習慣なぞ持っておらず、音読する習慣をもっていたことを如実に表している。
「読んでいる新治の顔には、初江との仲をさかれた悲しみと、女の真実をおもう歓びとが、影と日向のようにかわるがわる現われたが、読みおわった手紙 は、文つかいの当然の権利とでもいうように、十吉に奪われて読まれてしまった。龍二にきかせるために、十吉は声を出して読み、それも十吉一流の浪花節の調 子をつけて読んだので、この調子は彼がいつも一人で新聞を音読するときの節でもあり、何ら悪意があるものではないとわかっていながら、愛する者の真剣な手紙が道化てきこえることは新治に悲しかった。」
華族の出自を持つ自身インテリの三島の周辺にこのような人物がいたとは思えないが、この小説の舞台となった神島に半年の間に二度も訪れて取材しているところから推測するに、十吉と似た人物が現地にいたかもしれない。
このことは、つとに国文学者の故前田愛が指摘していることでもある。
前田愛『近代読者の成立』岩波現代文庫(2001年)
p.166「音読から黙読へ―近代読者の成立」
「現代では小説は他人を交えずひとりで黙読するものと考えられているが、たまたま高齢者の老人が一種異様な節廻しで新聞を音読する光景に接したりすると、この黙読による読書の習慣が一般化したのは、ごく近年、それも二世代か三世代の間に過ぎないのではないかと思われてくる。」同上、p.166
二つ目は、伊勢湾を渡るお伊勢参りの船の情景。
「 ― 波の上をひびいてくるふしぎな歌声が千代子の物思いを破った。見ると伊良湖水道の方角から、たくさんの舟が、赤い幟を立ててこちらへやって来るのである。 歌声はその舟の人たちが歌っているのだ。
「あれは何?」
と千代子は纜(ともづな)を巻いている船長の若い助手にたずねた。
「お伊勢まいりの舟だよ。駿河湾の焼津や遠州方面から、鰹舟に乗って、家族づれの船員たちが、鳥羽までやって来るんだよ。舟の名前を書いた赤い幟を仰山立てて、呑んだり、歌ったり、賭事をしたりしながらさ」
これなどは、たぶん神島取材時に三島が見たか聞いたかしたものなのだろう。戦後のこの時期にも徳川期からあるお伊勢参りの習俗が連綿と続いていると思わせる場面だ。
あと忘れていたが、新治が通う青年会の描写も、戦前の青年団、徳川期の若者組・若衆組を、私が実感するサンプルとなった。
「 その晩、新治は青年会の例会へ行った。むかし「寝屋」と呼ばれていた若い衆の合宿制度が、そういう名に呼びかえられて、今も多くの若い衆は自分の家に寝るよりも、浜辺のその殺風景な小屋に寝泊りすることを好んだ。そこではまじめに教育や衛生や、沈船引揚や、また古来若者たちの行事とされている獅子舞や盆踊りについて論議が闘わされ、そこにいると、若者は公共生活につながっていると感じ、一人前の男が肩に負うべきものの快い重みを味わうことができ た。」
今思えば、三島は十分すぎるほどの知識人であるのだから、柳田や民俗学方面の知識も十二分に持ち合わせそれを前提にして、これらの文を書いていたのだろう。
蛇足。戦後の学生運動が、しばしば学生寮が運動拠点になっていたため、文部省は意図的に国立大学の寮を潰したが、そのことは、この若者組とひょっとすると民俗学的な関連があるかもしれない。
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