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2010年6月 7日 (月)

共和制と財政=軍事国家(メモ)

 カント(Immanuel Kant)は、その『永遠平和のために ― 哲学的な草案』(1795年)の、永遠平和のための第一確定条項、において、「どの国の市民的な体制も、共和的なものであること」*、を挙げている。

 しかし、改めて17世紀西欧における近代主権国家群の勃興を回顧するならば、このカントの言説に多少の留保が必要に思えてくる。

 17世紀西欧の覇権国は、スペイン-ハプスブルグ王家からの独立戦争を勝ち抜きつつあったオランダ共和国であった。その覇権はまた同時にスペイン領低地地方への領土的野心を持つフランス王国からの軍事的干渉と、イングランド王国との海上覇権争いを凌ぎながらのものだった。

 18世紀西欧の覇権国はイングランド王国であった。しかし、すでに名誉革命後のイングランドは、国名は王国ではあっても事実上、貴族・ジェントリーによって共和国化していた。そして18世紀の覇権争奪戦は、このイングランド王国(事実上の共和国)とルイ14世に率いられたフランス王国との間に戦われた。

 さてこうして見ると、17世紀の覇権国オランダ、18世紀の覇権国イングランドはともに、(事実上の)共和国であり、一敗地に塗れたのは、17世紀はスペイン王国とイングランド王国であり、18世紀はフランス王国であった。そして、17世紀オランダ共和国も、18世紀イングランド王国も、その覇権国争いのただ中で、国家の税制・財政・金融システムを整え、巨大な軍事費を《公債発行+税による返済》の仕組みで調達していたことがその覇権確立に大きく貢献しており、その財政=軍事国家化を可能としていたものが、共和制だったわけである。言葉は不正確だが、いわば私法的国家(君主のものproperty)から公法的国家(みんなのものcommonwealth)となることで、反って強力な主権国家となれたのであった。ただし、オランダ共和国は、17・18世紀と〔連邦〕共和国であり、当時最強で、合理的な近代経済社会は有していたにも関わらず、結局、ナポレオン率いるフランス共和国国民軍に粉砕されるまで「主権国家化」を成し遂げられず、覇権国からずり落ちてしまったが。

 つまり、西欧近代主権国家は、近世王国をその必要条件としてはいたが、共和国化という十分条件を満たさなければ出現していなかっただろうというのが史実から伺えることなのである。それからしても、徳川公儀国家に近代主権国家化のチャンスがあったとするならば、それは19世紀のどこかの時点で、大名連邦制国家(大名立法議会+徳川行政府)というウルトラCが必要だったろうと思われる。

*共和制と「法の支配」、を参照。
*名誉革命=英蘭コンプレックスの出現 (Anglo-Dutch complex)、を参照

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