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2011年5月26日 (木)

内藤湖南「応仁の乱について」1921(大正10)年8月

 内藤湖南の令名高いエッセイである。何がそんなにいいのかと言うと、下記の部分が特に有名だろう。

大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、さういふ大きな時代でありますので、それに就て私の感じたいろ/\な事を言つて見たいと思ひます。(講談社版p.64)

 この断定の意外さ、小気味よさ、が一万六千余字(原稿用紙40枚)ほどのこの掌編を名エッセイとさせてきている。通勤電車の中で読んでも、駅を通り過ぎること二つ三つ分ぐらいのボリュームしかない。

■列島史を二分するフォッサマグナ

 しかし、実際に読んでみると、このエッセイの核心は上記の有名な箇所ではなく、もう少し前の部分にある。

大體歴史といふものは、或る一面から申しますると、いつでも下級人民がだん/″\向上發展して行く記録であると言つていゝのでありまして、日本の歴史も大部分此の下級人民がだん/\向上發展して行つた記録であります。(講談社版pp.61-62)

 すなわち、私のこのブログで使わせてもらった表現で言えば、「民の力量の増大」(下記参照)という歴史上の普遍的趨勢があり、列島の歴史においてはこの応仁の乱がそれを急激に加速させ、列島史を二つの世界にわける大地溝帯(フォッサマグナ)となっているというのが湖南の言うところだろう。

■《貴族的なもの》の明治における捏造

 そしてこのことが、徳川期という「初期近代」を、《貴族が主導しない社会》とし、その後の日本史を決定付けてしまった、と私はみる。その典型が、貴族によるパトロネージュの崩壊で、徳川における文化発展の主要なものはみな《ビジネス》として成立したものであり、それが《伝統芸能》として今に至っている。

 だからこそ、《明治維新》は、欧化を成し遂げるため、新たに《貴族》を創出せざるを得なかったわけだ。付言すれば、西欧近世近代における《自由》《平等》といった価値観は、貴族が王権に対抗するために再三再四主張したものだった。そのことを念頭におかなければ、西欧的なるものの人類史における特殊性を認識することが困難になるだろうし、この10年ほどの「クール・ジャパン」ブームの理由も理解不能となるだろう。

■参照
溝口・池田・小島『中国思想史』東京大学出版会(2007年)(2)
19世紀徳川日本における民の力量の増大(1)
19世紀徳川日本における民の力量の増大(2)
19世紀徳川日本における民の力量の増大(3)
19世紀徳川日本における民の力量の増大(とりあえずの結語)

〔参照〕弊ブログ記事 呉座勇一『応仁の乱』中公新書(2016年10月) 感想Ⅰ

■出典
内藤湖南 應仁の亂に就て
内藤湖南著『日本文化史研究 下』講談社学術文庫77(1976年)

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コメント

>むしろ特殊なのは西欧近代の方かもしれません。

確かに。《王朝=帝国》が人類史的に普遍な現象であって、初期近代の西欧のような、《主権国家群システム》こそが人類史的に特殊だ、というのはご指摘の通り。

中国大陸に出現した諸王朝も、中東から西アジアに形成された各種のイスラム帝国(アラビア・イスラム、ペルシア・イスラム、トルコ・イスラム、等)にしても、広大な領土+巨大な宮廷官僚制+発達した商業網、という制度的パッケージを保有する《帝国》でした。

《帝国》形成の理由や力学がどんなものであれ、人類史的にはそれが普遍的現象なのに、西欧には西ローマ帝国崩壊→フランク王国以後、ヴァロワ家やハプスブルク家による帝国形成の野望はありながらも、常に各地に巨大貴族としての王家、大貴族、中小貴族が割拠していました。ま、これが、誤解を生みやすいですが、《封建制》だったわけです。

そして、この《帝国》と《封建制》の中間形態が、鎌倉、室町、徳川と続く、「幕府」システムだといえるでしょう。公法的権威としては神聖ローマ帝国と「禁裏」が対応し(ただし、帝国議会・帝国裁判所に見合うものが無い)、現地勢力としては領邦君主と大名家が対応します。

徳川《帝国》が、その内部に、擬似的にせよ、主権国家群を抱えていた点が、初期近代の列島史と西欧史を似通わさせていることは言えそうです。

投稿: renqing | 2011年5月29日 (日) 12時11分

> 西欧のような主権国家群による《世界システム》が中国内部に形成されても不思議ではないのですが。

ロシアや米国なども考えると、むしろ特殊なのは西欧近代の方かもしれません。たとえば漢字文化の求心力に比べれば、俗にいうキリスト教の統合力など、じつは知れたものなのではないでしょうか。

言語、家族、歴史といったファクターについて考えてみたいところです。

投稿: まつもと | 2011年5月29日 (日) 10時05分

>ひとつの答えは15世紀以降のヨーロッパが戦争の世紀に突入したこと

それは、初期近代の西欧が主権国家《群》となったことと深く関連します。一方、あれだけ広大な地域で、多様な言語、恐らく多様な文化的アイデンティティを持つであろう、中国大陸において、五胡十六国時代のような分裂状態が長続きせず、なにゆえ、繰り返し《王朝=帝国》が再形成されるのか、私には謎です。西欧のような主権国家群による《世界システム》が中国内部に形成されても不思議ではないのですが。

投稿: renqing | 2011年5月29日 (日) 09時52分

> つまり、初期近代の西欧には二つの道がありました。中国文明と共鳴・融和しうる、モンテーニュ的近代。それと、デカルト的近代です。西欧においてのみ、デカルト的近代が何故、生き残り、肥大化し、一つのトータルシステムとなってしまったのか。

なるほどです。ひとつの答えは15世紀以降のヨーロッパが戦争の世紀に突入したことだと思いますが、その意味ではこの時代以降のイスラーム圏の歴史もまた、デカルト的近代の裏面なのかもしれませんね。

近代的自我や近代西洋思想なるものも、War Cultureと弱肉強食、社会のミリタリーな組織化(近代官僚制など)の観点からの捉え直しは(これまでに再三行なわれて来たにしても)必要でしょうね。

投稿: まつもと | 2011年5月29日 (日) 07時30分

>宮崎市定はたしか、ルネッサンスや人文主義への中国文明の影響に言及していました。

つまり、初期近代の西欧には二つの道がありました。中国文明と共鳴・融和しうる、モンテーニュ的近代。それと、デカルト的近代です。西欧においてのみ、デカルト的近代が何故、生き残り、肥大化し、一つのトータルシステムとなってしまったのか。

原発問題や、温暖化は、デカルト的近代の必然的帰結です。そのシステムの生成と強化を非西欧的立場から整合的に了解する必要があるでしょう。

投稿: renqing | 2011年5月29日 (日) 06時02分

(補足)つまり、キリスト教の本当の相対化は中国文明(というキリスト教でもイスラムでもない第三の文明)の発見を媒介とする、といったことです。

投稿: まつもと | 2011年5月28日 (土) 05時55分

あ、なるほど。杉山正明流に言うと「ポスト・モンゴル時代のユーラシア史の同時性」ということでもありますね。宮崎市定はたしか、ルネッサンスや人文主義への中国文明の影響に言及していました。

投稿: まつもと | 2011年5月28日 (土) 05時54分

>その意味でもルネッサンス最盛期の15世紀あたりが境目になる

はい、私もそうだと思います。結局、ルターにしても、カルヴァンにしても人文主義の深い影響下にあります。

近代世界システムの生成と西欧人文主義のマクロで長期的な関連は、ウェーバーより広い文脈で理解する必要があると思います。

投稿: renqing | 2011年5月27日 (金) 12時05分

もっといえば、ヨーロッパ思想史におけるギリシア・ローマの古典も、けっきょくイスラム圏を通じた「古典という名の新思想」としてもたらされたものの方がはるかに多かったわけで、その意味でもルネッサンス最盛期の15世紀あたりが境目になるような気がします。

投稿: まつもと | 2011年5月27日 (金) 09時11分

まあキリスト教も、宗教改革+対抗宗教改革まではどこまで世界史的な意義を有していたのか、と考えると極めて疑問ですね。儒仏やイスラームの方が影響ははるかに大きかったでしょう。

さらに、民の力の伸張というのは、エマニュエル・トッド風にいえばつまるところ識字率の向上ということなのでしょうね。

土一揆などはまさにその好例ですが、書かれた歴史による既存の権威の相対化、文書をもって訴訟を行なう習慣の広がりは、たしかに戦国時代や近世的統一への一つの原動力であったように思えます。

投稿: まつもと | 2011年5月27日 (金) 09時03分

まつもとさん、コメントありがとうございます。

>その意味では、ヨーロッパ史も(古代〜中世が誇張されているだけで)あんがい新大陸発見以降を知っておれば十分

同感です。国力として、西欧が他地域を上回ったのはかなり最近です。

象徴的に言えば、清朝と英国の貿易収支が、清朝側の恒常的黒字から、アヘン貿易によって英国の黒字に変わる19世紀初頭と考えてよいと思います。

投稿: renqing | 2011年5月27日 (金) 01時37分

ご無沙汰しております。

民の力の伸張、という意味では1428年の正長の土一揆の方がメルクマールとしては適切かもしれず、また戦国期の始まりとしては1493年の明応の政変を推す向きも多いようですね。いずれにせよ、15世紀が分裂の中世と中央集権化の近世の境界であることは確かでしょう。

その意味では、ヨーロッパ史も(古代〜中世が誇張されているだけで)あんがい新大陸発見以降を知っておれば十分、みたいな部分は大きいのかも知れません。少なくとも料理や芸術に関してはそうですね。

投稿: まつもと | 2011年5月26日 (木) 08時44分

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