身分再考
前近代社会の特徴は、身分社会である、ということ。現代では、身分と聞くと、差別、抑圧、といったキーワードがすぐ思い出される。
しかし、それは実態にそぐわない。なぜなら、身分社会において、すべての身分には、義務とともに、権利も付着していたからである。
典型的なのは、長吏(徳川期えたの自称)。彼等は公儀から周到に差別的に隔離管理されていたが、その一方で、皮革業、刑吏などを排他的に(世襲的 に)享受していた。したがって、その頭であった、弾左衛門などは、かなりの富を蓄積していた。明治の御世になり、徳川期の身分差別から解放されたが、皮革 業の独占、という特権は剥奪され、逆に厳しい貧困化に喘いだ。
身分社会における、身分上の権利と義務とは、すべての身分が自足的に生を営むための装置だったことになる。
modernity における非身分社会化は、それまでの数多くの諸身分に、唯一の身分(status)を与えることを同時に意味した。それが、市民(権)、である。したがっ て、個別で様々な特権を与える代わりに、市民としての権利、生得の人権、をすべての民に与えることになる。
それは裏面で、人々に非身分社会の特徴である、社会的流動性 (social mobility)、特に垂直的流動性をもたらした。少なくとも、すべての人間にその機会を与えた。これこそが資本主義の実態の一側面なのであり、人々の成長パラノイア化の重要な装置だったわけである。
身分とは、逆に言えば、個別の権利と義務の束によって、社会の成長パラノア化を押しとどめる装置だったことにもなる。とするなら、我々は、フクシマ後、どのような社会を実現すれば、真の幸福を実現できるのだろうか。
〔参照〕
①身分再考(2)
②川北稔『イギリス近代史講義』講談社現代新書(2010年)〔その1〕
③人には生まれながらに尊卑の別がある
④人には生まれながらに尊卑の別がある(2)
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コメント
府川さん
本記事の続編を書いてみました。ご笑覧ください。
投稿: renqing | 2012年1月30日 (月) 05時55分
生産力の発展と「である」から「する」への移行との関係は、私が最近読んだ宇野常寛のサブカルチャー批評書「ゼロ年代の想像力」の中でも出てきます。いわく、1990年代後半の景気後退で社会的自己実現が戦後最も低下し、「引きこもり/心理主義」の時代になり、アメリカン・サイコサスペンスブームや村上龍を代表とする「幻冬舎文学」、アニメの「新世紀エヴァンゲリオン」とセカイ系作品群の登場は、~する、~した という行為や関係性ではなく、~である、~でない というキャラクター設定の承認をめぐる物語が展開され、人間の内面とは幼児期のトラウマ、どれだけ傷ついているかで作品が決定されたと。
投稿: 府川雅明 | 2012年1月29日 (日) 23時56分
府川さん
丸山真男の有名なエッセイに、「である」ことと「する」こと(1958)、というのがあります。これをここでの話題にひきつければ、「である」は身分の論理、「する」は身分化の論理です。後者の心性が、成長パラノアと平仄が合うのを見て取ることは容易です。丸山は、生産力が発展すると、そういう論理の移行が出てくる、と言っています。しかし、それは因果関係が逆ではないか。そういう論理の移行があったから、生産力の発達はあり得たのではないか。すると問題は、なぜ・どのようにして、そういう、論理or心性の移行が行われたのか、ということに移ります。
投稿: renqing | 2012年1月29日 (日) 06時16分
身分化幻想という競争的な(身分相互の入れ替え可能な)共同幻想が、資本主義のエンジンというわけですか。これは納得のいくものです。例えば、学歴にしても、それが資本価値を生む期待の裏打ちがあってこそ、準身分化幻想の力を持つと考えられます。
投稿: 府川雅明 | 2012年1月28日 (土) 01時25分
府川さん
現代社会には、義務と権利で拘束された《身分》はありません。その一方で、《身分化》の契機はあります。富を尺度として一元化されたものがそれです。こうして資本主義では身分上昇の幻想によって、全構成員からその活力を引き出すわけです。
したがって、資本主義社会は身分を作り出しません。身分社会になれば経済成長は止まってしまうからです。その代替物が《身分化》幻想です。
投稿: renqing | 2012年1月27日 (金) 02時30分
大変興味深く拝読しました。してみると現在のわれわれは
身分をどう考えているのかが気になります。社会が身分をあからさまに規定しないとなると、出身地だの性別だの職業だの学歴だのといったもので身分を規定するものではないよ、差別だよと互いが認識しあって、何か困った事情があるのかいなと。とりあえずはない。が、所得の差はある。所得が違えば持ち物、暮らしぶりが違う。これが身分の差か。所得格差が固定化しつつあるという統計値が出ている。この格差が長く続くと、新たな身分制社会になるのだろうか。
投稿: 府川雅明 | 2012年1月27日 (金) 01時08分