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2012年8月19日 (日)

人には生まれながらに尊卑の別がある(2)

かぐら川氏からコメントを戴いた。
そこから触発されたことがあるので記事を書いてみる。

■人類史とともに存在し続ける格差

我々の住むこの社会に、様々な格差が存在する。特に、経済(物質)的格差は目立つものの一つだ。街を歩けば、昼はベンチに腰をおろし、夜になると通りを当て所なく彷徨う人々がいる。その一方で、西欧や東南アジアほどではなくとも、手入れの行き届いた立派な庭木のある、高いフェンスで囲まれた堂々とした《邸宅》は、大東京や地方都市にも数え切れないほどある。

この物質的的格差、ないし経済的不平等は、なにも近代(資本主義社会)に始まったことではない。恐らく人類が文明的な生活を始めて約五千年間、常に存在してきたものだろう。

■格差と言説
従って、問題は文明社会と不即不離に存在していたその格差、不平等が、人類史上どのようにして説明=正当化されてきたのか、ということに帰着する。

もちろん、説明=不当化という言説もあり得るし、事実そういう言説も人類史上少数ながらも存在した。

■言説の社会的機能
しかし、言説の第一の社会的機能は《社会》の統合化(=求心力)を促進することでなければならない。それは、現実的には、眼前の不平等をいかに無理なく貧しい人々に納得させるか、ということにまずは行き着く。

何故なら、動物と異なり、個体では生きられないにも関わらず、集団をなして社会を作る本能を人類は持たないので、放置、すなわち laissez-faire (レッセフェール=自由放任)してしまえば、結果的に遠心力のみ働いてしまい、社会形成が不可能となってしまうからだ。〔註〕

〔註〕この辺の議論に関しては、関曠野の理論的考察を参照。関曠野『歴史の学び方について』窓社(1997)、第Ⅱ部「なぜ人間は歴史をもつのか」(pp.49-50)

■言説は《誰が》持つか
また、もう少しイデオロギー批判的な側面にも注意しよう。言説を操って《現実》を説明するということは、相当知的な作業だ。これは人と人との日常会話のなかだけで醸成されるものではなく、言説者が自身の言説を一度文字にし対象化した上で、それに矛盾がないか、他者への説得性はあるのか、という孤独な吟味を加えなければならず、それが可能となるには、応分のリテラルな教養、集中する時間が必要となる。

こんなことができるのは、生きるために忙しい人間ではあり得ず、労働の必要のない閑人(ひまじん)、すなわち《持てる》人々に属していることが必須要件だ。《持てる》人々が持てている現実を《説明=不当化》するはずがない。したがって、現実を説明=不当化する言説は、ルソーや安藤昌益のような素晴らしきへそ曲がりとか、せいぜいイソップのような聡明な皮肉屋の以外には作り出さないため、人類史においてはマイノリティとなる。

■格差を《説明=正当化する》パターン
ここでかぐら川氏からコメントが参考になる。引用しよう。

経済的不平等を“身分”と言う「経済外的」観念で糊塗してきた前近代も、経済的不平等を個人の能力にのみ帰す現代

つまり、何らかの不平等(格差)を弁証するとき、身分原理(生得性)を使うのが前近代、能力原理(業績性)に帰着するのが近代、ということになる。〔註〕

〔註〕丸山真男の「である」論理が身分原理、「する」論理とは能力原理に相当する。

もっとも、能力原理を身分原理に接合することはそれほど難しくない。統治者に相応しい容姿、統治者として当然有するはずの統治に関する能力・知識は、卑しい血を引いた下々にはありえず、「青い血」を受け継ぐもの(=王侯・貴族)だけが有する、なんていうのは欧州では高貴な方々の常識だ。

■現代の格差は能力原理(業績性)で弁証可能か?
厳密な論証にはほど遠いが、卑近な事柄で例証してみる。東大生の出身所得階層だ。〔註〕

〔註〕参照サイト「東大生の親の平均年収 - 東大早慶合格率から見る首都圏進学校
データは参照サイトのものを当ブログでexcel化して加工した。

東大生の出身所得階層(単位:万円)
 
  ~450 ~750 ~950 ~1050 ~1250 ~1550 1550~
1984年 14.90% 34.90% 20.00% 12.60% 8.60% 5.00% 4.00%
1990年 9.80% 22.60% 17.80% 18.90% 13.20% 9.00% 8.70%
1995年 5.70% 14.20% 15.50% 22.20% 17.40% 13.50% 11.50%
2000年 10.90% 17.60% 16.20% 22.50% 12.10% 10.50% 10.40%
2001年 10.60% 19.20% 15.90% 23.10% 11.60% 9.60% 9.90%
2002年 10.10% 18.20% 15.20% 22.60% 12.80% 10.60% 10.60%
2003年 13.90% 20.40% 16.50% 21.90% 8.50% 9.20% 9.60%

 

  750未満 750超
1984年 49.80% 50.20%
1990年 32.40% 67.60%
1995年 19.90% 80.10%
2000年 28.50% 71.70%
2001年 29.80% 70.10%
2002年 28.30% 71.80%
2003年 34.30% 65.70%

特徴
①所得階層別シェアの最頻値は、バブル期までの450万円以上750万円未満から、バブル期後の950万円以上1050万円未満に2段階上昇。
②さらにグループ別に集計すると、Ⅰ+ⅡグループとⅢ~Ⅶグループとでは、バブル期までは前者が半数を占める年次もあったが、バブル期以降ではおおよそ三割、高所得層七割となっている。

厳密でないデータから帰納しても厳密でない帰結しか得られないが、概ね東大生の親は七割が高所得層と考える。すると、数値化しやすい学力で《能力》を代表するとすれば、後天的《能力》でさえも、所得格差に大きくポジティブに影響されていて、現代社会においても、長期的に《身分》が《身分》を再生産している構図が垣間見えると言えよう。

■《近代》の帰結
これでは能力原理というタテマエのウラで、身分原理というホンネが脈々と生きている訳で、我々の近代社会はいったい何をやってきたのだろうか、という事にもなろう。

人々の流動性(特に垂直的流動性)を高めることで、社会全体を非常にアクティブにした資本主義が、原発に代表されるいわば「時限爆弾」を多数抱えたうえで、新たな身分社会を生成するという自家撞着に迷い込んでいるとするなら、我々が取るべき未来の選択肢はもっと別の原則・原理から再考する必要があることは間違いない。

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