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2012年12月 3日 (月)

《過去》は《歴史》ではない

 人類史に限らず、それ以前の地質時代(Geological age)においても、夥しいばかりの、もの・こと(総称してオブジェクト objects と呼んでおく)が生成・変化・消滅して今日に至っている。

 過ぎ去った時においては、恐るべき数のオブジェクトが存在したはずだ。それらのなかには無論、現代人類が認知していないオブジェクトも無数にあるだろう。その無数のオブジェクトの累積の上に、地球も、その表面で活動する生物やその一部としての人類もある。

 いわば《過去》というおもちゃ箱に、無尽蔵のおもちゃ(オブジェクト)が入っていて、《過去》はおもちゃ箱そのもの、そういった膨大なオブジェクトの集合そのものとも言える。

 「系統樹」はそのオブジェクト、特に消失したオブジェクトの復元・再構成や、オブジェクト間の関係(や関係の再構成)を新たに推定する強力な道具(tool)だ。

 逆に言うと、「系統樹」という道具は、過去に存在したであろう(かもしれない)オブジェクトを復元・再構成してお役御免となる。未発見の《種》を推定したり、発掘された化石の年代決定や時間的継起関係を決定・仮説構成することがそれだ。

 その後(のち)、オブジェクトの持つアクティビティ、複数のオブジェクトのアクティビティ相互の連関、が記述されたもの、それが《歴史》だろう。

 系統樹によって復元されたオブジェクトや、オブジェクト間が系統樹であらたに関連付けられたもの、これが過去の記述としての《歴史》の隣接分野であり、時として重なることもあるかもしれないが、過去に存在した事物(objects)そのものが歴史とは言えない。《歴史》とは、あくまでも《過去》に存在したオブジェクトのアクティビティを言語で記述したのものだ、というのが私の見方である。

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