関曠野 「なぜジャン=ジャックは我等の最良の友なのか」2012年/ Seki Hirono, "Why Jean-Jacques is Our Best Friend?" 2012
関曠野のエッセーを読むのは久しぶりだ。下記。
関曠野 「なぜジャン=ジャックは我等の最良の友なのか」
現代思想2012年10月号 特集=ルソー 「起源」への問い、pp.50-55
本論文の全文を記事化しました。下記。
関 曠野「なぜジャン=ジャックは我等の最良の友なのか」2012年: 本に溺れたい(20240806)
★先進性から同時代性へ
「ヨーロッパの思想家たちは、日本が直面している問題を打開するためにも、日本を世界の中で再定位するためにも、もう示唆するところがないのである。そして何よりも欧米人自身が、ヨーロッパが代表するとされてきた「進歩」とは一体何のことだったのか訳が分からなくなっている。」
★カント・ヘーゲル化したルソー
「しかし生来の音楽家だったルソーと堅物のカントに似たところは全くない。」
「そしてカントが始めたルソー像の偽造をヘーゲルが完成させた。ヘーゲルはカントを下敷きにルソーを恐怖政治をもたらしたジャコバン派の主観主義と同一視し、それをナポレオン的国家理性の客観性の中に「止揚」する。」
「そしてルソーにおける自然状態と社会状態の対比を念頭に、即自、対自、即且対自の弁証法によってパラドックスに満ちたルソーの政治理論を体系的な国家主義へと転倒させる。それだけではない。ルソーを国家主義や全体主義の源流とする類の研究は、結局このドイツ的解釈のヴァリエーションなのである。」
★小説家ルソー
「しかし『新エロイーズ』は1800年までに約70も版を重ねた十八世紀最大のベストセラーだった。そして当時の一般のフランス人にとっては、ルソーとは『新エロイーズ』を書いた小説家のことだった。」
「同時代の啓蒙学者と聖職者の双方と対立したルソーは、哲学と宗教のドグマからの自由を求めて小説家になったのである。」
★ルソー像の転換、あるいはもう一つの十八世紀
「そしてルソー像の転換は、彼をフランス革命の前夜ではなく産業革命の前夜に生きた思想家として再考することから始まるだろう。」
「彼はロックに対する一貫した反論である『不平等起源論』においてすでに「経済」の歴史的な起源を分析していた。そうした分析が可能だったのは、ルソーには「経済」とは異なる視点があったからである。ルソーは、英国における経済学の誕生に代表される十八世紀とは対照的な、もう一つの十八世紀の代弁者だった。」
「こうして人類学的人間の普遍性と制度の相対的特殊性が区別されることになった。そして十八世紀はこの人類学的知性が開花した世紀でもあり、ルソーはその際立った代弁者だった。」
「『契約論』は『法の精神』に対するルソー的自然法による補遺にすぎない。だから政治思想家ルソーの本領は―学問用語を比喩的に使えば―モンテスキューと同じ法人類学と政治地理学なのである。」
「国家を究極的に統合しているのは経済ではなく文化と人々の生活様式なのである。それゆえ今日ほどルソーの思想がアクチュアルだったことはない。」
★封建的義務から自然権へ
「それと同様に自然権の哲学は、他者を犠牲にしても己れの所有を拡大し宇宙の支配者になろうとする欲望で人を駆り立てるだろう。ルソーは封建的な義務の社会を近代的な権利の社会が打破したことがヨーロッパ文明にもたらした危機を正確に観察していた。アングロサクソン流の自然権は社会を解体させるものであり、この解体は国家が強制する法と秩序の見せかけよって隠蔽されるしかなかった。ロック的自由主義は社会を形成しながら自然人のままという文明人の矛盾を拡大したのである。」
★ルソー、あるいは新しい義務論
「だが封建的身分制秩序の終焉は必然だったとしても、それに代わるものは獲得と所有の個人主義ではない。」
「だが自然は人間に天与の自由を与えたが、その使い方は教えなかった。そして身分制秩序と共に封建的義務が消滅すれば、いかなる基準に即してこの自由を行使するかということは深刻な問題になる。この問いにルソーは答える。身分制の消滅は、万人が頒かちもつ「人間という身分」の成立を意味している。人間の自由はこの身分に忠実であるという義務を果たすことの中にある。ルソーの思想の中心にあるのは、この神でも動物でもない人間に固有の身分についての探求であり、この身分に由来する義務の問題である。」
「しかしルソーの義務論は同時代人には理解されずフランス革命は権利の社会の勝利だった。」
「キリスト教会を鋳型として形成された欧米の社会で義務の観念が再生する可能性はおそらくもうないだろう。だが日本では―官僚制国家による戯画化と大衆民主主義による腐食にもかかわらず、日本の民衆の間では義務と名誉の観念は今も生き続けている。」
■読後感
現代日本は近年の20年間に、1995年1月17日に阪神淡路大震災、2011年3月11日に東日本大震災という広範囲で甚大な人類史規模の自然災害を二度経験した。それでもそれぞれのローカルな社会秩序は崩壊していない。これは何らかの社会的行動やアクシデントにより容易に秩序が崩壊し、暴動・掠奪が継起する欧米先進国と極めて対照的な現象だ。
我々日本人はこのことを静かに、しかし深く再考する必要があるだろう。就中、環境問題へは《権利》論ではなく《義務》論こそが、恐らく正しいアプローチであるからである。
そして、現代日本人の《人間的義務》観念の根底を形成しているのは、徳川期の二世紀半事実上の国教となった仏教の倫理観であることも考え合わせる必要があると思う。
■参照1
現代西欧社会がいかに《野蛮化》しているかは、下記の恐怖のエピソードにその一端が伺える。
知って欲しいこと。|宇佐美蘭オフィシャルブログ「Ran's life」Powered by Ameba
■参照2
①ロックの所有的個人主義について
C. B. MacPherson
The Political Theory of Possessive Individualism: Hobbes to Locke (Wynford Project), Oxford Univ Pr (Txt); Reprint (2011/3/18)
C.B. マクファーソン 『所有的個人主義の政治理論』(1980年)
合同出版 (1980/05)
②産業社会における義務について
R. H. Tawney, The Acquisitive Society, Dover Publications, Reprint(2004/8/30)
獲得社会 / トーニー著 ; 山下重一訳、世界思想教養全集 / 桑原武夫 [ほか] 編第17巻、河出書房新社, 1963.8
■参照3
関論文で参照指示されていた文献
Joan McDonald, Rousseau and the French Revolution, 1762-91 (University London Historical Study), Humanities Press Intl (1965/12)
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コメント
starfield さん、コメントありがとうございます。
伝統的な日本人の感性は謙虚、あるいは自己卑下するものだったように思います。ある意味それは日本人の文明度の高さの裏面だったのです。
しかし、21世紀の今だからこそ、現在の地点から、冷静に欧州も米州も中国も含めた文明史の視点から、日本の来歴を見直す必要があるのだと思います。
投稿: renqing | 2013年2月15日 (金) 02時53分
今、考える時期に日本は来ているのですね。
日本を取り巻く情勢が日々動いています。
まさにその時期が来たのかもしれませんね。
投稿: starfield | 2013年2月13日 (水) 20時26分