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2013年4月19日 (金)

江戸のマテマティカ塾

 某国営放送の教育チャンネルで、「マテマティカ」(1999-2003)という算数番組があった。ピーター・フランクルがMCをしていた。今は、その後継番組「マテマティカ2」となっている。

 実は、徳川日本の19世紀前半に、「マテマティカ」という看板を掲げた数学塾があった。「瑪得瑪第加塾」である(現代流の当て字読みをすれば「マエマテイカ」だろうか)。

 文政5年(1822)のことだ。主は内田五観(いつみ、通称:弥太郎1805~1882 )。その塾生の一人が、このところ何回かこのブログで話題にした赤松小三郎である。

 内田五観の出生に関してはわからないが、幼少の頃に御家人内田家の養子となっている。おそらくその利発さを認められて市井の子からもらわれたものだろうか。内田家では弥太郎の頭脳にその家運をかけたらしい。11歳で、関流の日下誠(くさかまこと)の門に入って数学を学んでいる。

国史大辞典によれば旧姓「宮野」と言うことなので、庶民の子というよりは、他の御家人身分の次男坊以下で、その利発さが仲間内で評判だった、という経緯かも知れない。

 念のため言い添えれば、関流とは巷間、西洋数学とは独立に微積分を「発明」したと喧伝されている元禄期の数学者関孝和の門流のことである。関孝和が17世紀後半の世界的な数学者であることは疑いの余地はないらしいが、微積分の開発者というのは誤解があるようだ。関の登場で、徳川期の数学が、小学校レベルの「算数」から、大学レベルの抽象的「数学」になったことは間違いないとのこと。

 横道にそれた。五観は早熟で、数えの18歳で免許皆伝となり関流宗統六伝として関流の学統を受け継ぎ、「瑪得瑪第加塾」を開いた(文政5・1822 満17歳)。単に数学者(和算家)というより懐の広い《数理科学者》で、洋学も修め、数学、物理学、天文学、暦学、測量術、兵学等広い領域を高度なレベルで理解、著述、教育し、その膝下から俊才を輩出した。その一人が赤松小三郎だったことになる。

 大事な事実は以下のようなことだ。19世紀前半の江戸に、マテマティカなる名を持つ塾があり、楕円積分の計算を求め、太陽系惑星の公転軌道半径の間の法則に興味を持ちそれを紹介する一群の数学者たちがいた。そして彼等の頭の上には丁髷が載っていた。これが徳川文明の一つのあり方だった、ということだ。

 率直に言って、現代日本人の徳川日本像はかなり歪んでいると思わざるを得ない。わたしたちのよく知っている徳川日本のイメージは、明治・大正によって捏造された蓋然性が高いと言わねばなるまい。

〔参照1〕貴重資料-NAOJ Library

〔参照2〕内田五観「彗星真言」 : 校注と解説 (数学史の研究)
京都大学数理解析研究所講究録1130巻2000年29-40

参照 徳川日本のニュートニアン/ a Newtonian in Tokugawa Japan: 本に溺れたい

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コメント

わたしが船津伝次平を知ったのも高橋敏さんの『家族と子供の江戸時代』(1997)からです。このp.121の表19「船津伝次平家の文化費」の表の中に「コンパツ」「洋算用法」「数理神篇」などの項目があり、これはいったいなんだと驚いたのがはじめです。

「数理神篇」は
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=THKW-05346
で原著のPDFを読むことができます。その序文(3コマ目)の署名をみると「船津正武」とあります。これが4代目船津伝次平かどうかだいぶ苦労しましたが、どうやら本名であることがわかりました。

投稿: 塩沢由典 | 2021年7月20日 (火) 23時12分

塩沢先生
コメントありがとうございます。

「船津伝次平」これは懐かしい名前。弊ブログで書評済みの、
高橋敏『江戸の教育力』ちくま新書2007年(名著です!)
の、34頁にその寺子屋ことがかなり詳細に書かれています。

結局、「和算」は、徳川日本の大衆化された文化(culture)だったという点が重要だと考えます。「学問」というより「芸」「遊芸」の一つだった。遊歴和算家もいました。だから庶民文化になり得た。徳川日本人にとっては、scientiaではなく、「遊び」だたのです。従来の西洋数学史からは、その点がサイエンスやエンジニアリングにつながらない「ダメ」な点だとネガティブに言われますが、これは、ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」やカイヨワ「遊びと人間」的な視点から積極的に再評価されるべきです。とりわけ、日本の遊芸に伝統的な「競技」的遊びです。和歌の歌合も含めれば、千年以上もの歴史が背景にあります。この点は、古代文明から連綿と続く中国の文化とも一線を画します。この「遊び」文化の視点から一貫した日本文化史が描かれ直される必要があります。

投稿: renqing | 2021年7月20日 (火) 22時48分

ひょんなことから、江戸時代の「和算」に興味が再燃しています。内田五観は、関流の和算家としては、ここに書かれているように「単に数学者(和算家)というより懐の広い《数理科学者》で、洋学も修め、数学、物理学、天文学、暦学、測量術、兵学等広い領域を高度なレベルで理解、著述、教育し、その膝下から俊才を輩出した。」という人物なので、かなり特異な事例なのかもしれませんが、和算が幕末・明治期に日本人がヨーロッパ風の科学を取り入れるのに一役買っていたということに、あらためて驚いています。

関孝和が同時代のニュートンやライプニッツと同等の世界最先端の研究をしていたなどというのが贔屓の引き倒しであることは学生時代から知っていましたが、「関流宗統六伝」という表現にあるように免許皆伝・第何代といった学問の伝え方や、ある種の秘密主義、算額に残された複雑さの累積にかなり疑いを持っていて、洋式数学の導入には抵抗ばかりしていたのではないかと偏見をもっていました。内田五観自身が明治期の歴編纂に貢献していますし、その弟子に赤松小三郎がいたことから、和算もすてたものではなく、それなりの学問的精神をもっていたことをしりました。

「ひょんなこと」というのは、上野国勢多郡原之郷の小農で寺子屋もやっていた船津家の4代目船津伝次平が関流和算の二つの免許をもらったこと(皆伝までは行かなかったということか)、かれが明治以降、日本式農業の普及に貢献し、明治三大老農のひとり(筆頭とまでいうひとがいる)となったことを知ったことです。免許皆伝などまでいくと行き過ぎて、あまり応用が利かなかったのかもしれませんが、よく考えてみれば和算は、みな私塾だったわけで、そろばん程度のことからやや高級な(ユークリッド流の)幾何まで教えていて、熟生のおおくは、初歩的な数理に明るくなるのが目的だったにちがいないはずです。そのことを思えば、内田五観・赤松小三郎・(4代目)船津伝次平のような人が出てきたとしても、不思議ではありません。むしろ、師範などにならなかった弟子たちの事績をさぐると、和算のより客観的な存在が見えてくるのかもしれません。

投稿: 塩沢由典 | 2021年7月20日 (火) 21時52分

ご注意頂き感謝いたします。
早速、文言を訂正致しました。

投稿: renqing | 2014年1月31日 (金) 01時40分

ちょっと失礼をば。「マエマテイカ」ですと「得」だけ訓読みのようになっていますね。

投稿: | 2014年1月30日 (木) 18時07分

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