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2014年1月12日 (日)

いじめと社会契約

いじめに関して素晴らしい文章があったので、まずご紹介。

子供が純真で素朴であるというのは大人の思い込みに過ぎない。大人の目の届かない子供の世界は、一種の野生状態であり力と駆け引きがもの言う世界である。
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もしかしたら、それは本当に犬や猫がじゃれあっているのと同じ性質のものかもしれないのだ。人というのは所詮思い通りには生きていけない。子供の世界というのは、他者との緊張関係の中で、互いの力を推し量り牽制しながら、身の処し方を学ぶところなのだろう。その中でいじめは必然的に発生する。
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いじめは根絶できない。人間は不条理な生き物だからである。
「少年時代」と「長い道」|御坊哲のおもいつくまま

これは一種の《自然状態》といってよい。その一方で人間という傷つきやすい(vulnerable)生き物は仲間と協働して集団(society)を作るしか生き延びる方法はない。その自然状態の野蛮人たちに社会契約(法と秩序 law and order)をインストールして文明人にすること、それがすべての人間に、すなわち肉体の強いものであれ弱いものであれ、頭の強いものであれ弱いものであれ、個々に自由を保障することになる。そして、その《規律を内包した自由な精神》を育むこと、これこそが近代における「学校」の機能だ。

「学校は、約束事で成立している社会というもののミニチュア版の見本であり、そして子どもが日常の立ち居振る舞いをとおして、権利、義務、責任といった観念を身につける実験の場である。」
関曠野「保守派の教育観を読みとく」『クレスコ』(大月書店)2006年9月号、p.24

子どもの世界にいじめが必然であることは、残念ながら古今東西かわらない。それは、たとえどのような軍事警察国家(戦時下の大日本帝国や旧ソ連・東欧)であっても、大人の世界に犯罪や不法行為がなくならないことの鏡像である。大人にできないことが子どもにできるわけがない。

《神は己に似せて人間を作った》、という言葉がある。これは話が逆であろう。《人間は己に似せて神と悪魔を作った》のだ。私の老母はかつて言った。「鬼なんかいないよ。人こそ鬼だよ」と。

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コメント

御坊哲 様

人が鬼にも仏にもなり得る。これこそが《楽園(=自然)》から追放されてしまった人間が自由であることの帰結だと思います。動物は鬼にも仏にもなりません。自然から与えられたプログラムの上を走るだけです。

投稿: renqing | 2014年1月12日 (日) 19時50分

社会はある意味不自然で人工的な約束事で成り立っていることを人は忘れがちですね。
私は「人は鬼」とまでは言いませんが、なかなか一筋縄ではいかないようなもののように思います。

投稿: 御坊哲 | 2014年1月12日 (日) 17時40分

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